表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
唇歯輔車  作者: akisira
56/58

(九)ノ4

 つかの間の静寂が訪れる。

 西村が動いた。何かが鶴岡の鼻先をかすめた。同時に、ひゅんと風切り音が耳を舐める。

 石つぶてだ。藪の中に飲まれたあたりを見ながら気付いた。

 直後に肩口に痛みが走った。また投げつけてきたのだ。

 鶴岡は体を反転させると、真奈に類が及ばないように、自分の背中を楯とした。

 すぐにまた、飛んできた。腰のあたりに命中する。

 次々と石が飛んで来る。


「ツルちゃん」

 真奈が、鶴岡の腕の中で不安気な声を上げる。

「じっとしてろ」

 力を込めて抱きしめた。

 数にすれば二十数個。それで近くに手ごろな石が無くなったのだろうか。投げつけられた内の、半分程が鶴岡に命中した。

 西村は自らが崖下に降りるという危険を冒さなかった。

 安全な高い位置から石を投げつける。子供じみているようでも、鶴岡の体は確実に痛みつけれ、そして心を削ぐにも充分に有効な手段だった。


 だから西村は無抵抗な鶴岡は見て、また笑った。嘲るように笑った。

 高らかに響く声。

 襲う側だったはずが、ただ一方的にやられ、西村は勝利宣言をするかのように甲高く笑う。

 鶴岡たちは紛れもなく敗者だった。

 屈辱だった。それでも反撃の手段がない。黙って傾聴する他なかった。


「ねえ」と、真奈が絶望感に満ちた声を上げた。

「あいつの声、遠ざかってる」

 鶴岡は、はっとして気付いた。確かにそうだ。先ほどまで立っていたはずの崖上に、西村の姿が見えなっていた。

 すぐ傍で聞こえていた笑い声も距離が生じている。どんどんと遠ざかっていく。

 西村は鶴岡たちを置き去りにしようとしているのだ。

 つまり、このままでは西村を逃してしまう。だが――

 鶴岡は自分の右足を意識した。ここから崖をよじ登っても、西村に追いつけるはずがない。

 もはや打つ手がなかった。

 思い知らされた。復讐が、失敗に終わったのだと。


 やがて笑い声が消えた。また静かになった。

 鶴岡は真奈を抱えたまま上体を起こし、崖の傾斜に沿って背を預けた。胸の上で真奈はうなだれたまま動かない。ひどく落ち込んでいた。

 鶴岡もそうだった。西村を殺せなかった。やり遂げられなかった。あれほど強い決意をもって挑んだのに。

 情けなさばかりが込み上げた。


 背にした崖以外の三方から藪がせまり、折れた葉先が微かに皮膚を触り不快だった。風がなく空気が淀んでいる。

 鶴岡は額の汗を手の甲で拭った。

 ぬるりとした感触。己の手を見つめた。汗ではなかった。周囲はまだ薄明りで、色の識別がはっきりとは難しい。

 何かどす黒いものがべっとりと付いていた。鼻先に近づける。かすかな鉄のような匂い。血だと分かった。

 墓石に頭をぶつけたときか、それとも西村が投げつけた石のどれかがだろうか。

 痛みはそこかしこに散らばっているので、頭だけが特別に痛いというわけではなかった。


「ツルちゃん、怪我してる」

 真奈が声を上げた。慌てた様子で自分の服の袖を引っ張って、鶴岡の額にあてがおうとする。鶴岡は首を横に逸らして僅かに躱した。

「いい、服汚すぞ」

「そんな事」

 真奈はむくれ顔になり、半ば強引に袖口を傷にあてた。そっと血を拭う。

「痛む?」

「少し、な」

 張りつめた表情で、真奈は傷口を見つめる。その瞳が不意に涙で濡れた。

「ごめんね、ツルちゃん。本当にごめん」

 ワタシのせいだ、と震える口からかすれた声が漏れる。そして真奈は両手で顔を覆い、しくしくと泣き始めた。

「何を謝る事がある?」

「ワタシ、あいつに会うべきじゃなかった。ツルちゃんは反対したのに……」

「最終的にはオレも同意したんだ。真奈の責任ではないさ」

 真奈はうつむいた顔を覆ったまま、激しく首を横にふる。

「さっきだってワタシが暴走したから、だからこんな事になって」

 鶴岡は苦笑して、真奈の頭をポンポンと優しく叩いた。

「衝動を、抑えきれなかったんだな? あいつを目の前にして」

 コクンと真奈は頷いた。鶴岡は優しく笑みを浮かべた。

「なら、仕方ないさ」


 真奈は、ごめんね、と何度も謝罪の言葉を口にしながら泣き続けた。

 もはや西村は追えない。ならば、しゃくりあげる彼女が落ち着くまで、好きなだけ泣かせておこうと思った。

 いつだったか、あれは真奈と初めて会った日の夜だった。由布子の話をして涙が止まらなくなった鶴岡を、真奈は優しくずっと抱きしめてくれた。あの時の感触を思い出した。


 さて、これからどうするか。

 西村は警察に通報したりは出来ないだろう。もしそんな事をすれば、あの男も痛い腹を探られるからだ。

 なので捕まるとか、そういう心配はしなくていい。

 だが、もう復讐を果たすのは難しいのかもしれない。それは西村に警戒されるからだけではない。

 この失敗で鶴岡も、そしておそらくは真奈も心が折れているからだ。

 人を殺そうとするには相当の精神力がいる。失敗した今、それを実感した。

 張り詰めたものが、ぷっつりと切れてしまっていた。

 この状態からまた持ち直す為には、これまで以上の意思と時間が必要になるだろう。

 ならばもう、諦めるべき、なのかもしれない。


 鶴岡は胸の上の真奈に視線を落とす。この子だ。

 西村への復讐がこの子の全てだった。成し遂げられず、失敗を自責するこの子が、これから先どうなるのか。

 鶴岡は真奈の心の在り方が、ただ心配だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ