(九)ノ4
つかの間の静寂が訪れる。
西村が動いた。何かが鶴岡の鼻先をかすめた。同時に、ひゅんと風切り音が耳を舐める。
石つぶてだ。藪の中に飲まれたあたりを見ながら気付いた。
直後に肩口に痛みが走った。また投げつけてきたのだ。
鶴岡は体を反転させると、真奈に類が及ばないように、自分の背中を楯とした。
すぐにまた、飛んできた。腰のあたりに命中する。
次々と石が飛んで来る。
「ツルちゃん」
真奈が、鶴岡の腕の中で不安気な声を上げる。
「じっとしてろ」
力を込めて抱きしめた。
数にすれば二十数個。それで近くに手ごろな石が無くなったのだろうか。投げつけられた内の、半分程が鶴岡に命中した。
西村は自らが崖下に降りるという危険を冒さなかった。
安全な高い位置から石を投げつける。子供じみているようでも、鶴岡の体は確実に痛みつけれ、そして心を削ぐにも充分に有効な手段だった。
だから西村は無抵抗な鶴岡は見て、また笑った。嘲るように笑った。
高らかに響く声。
襲う側だったはずが、ただ一方的にやられ、西村は勝利宣言をするかのように甲高く笑う。
鶴岡たちは紛れもなく敗者だった。
屈辱だった。それでも反撃の手段がない。黙って傾聴する他なかった。
「ねえ」と、真奈が絶望感に満ちた声を上げた。
「あいつの声、遠ざかってる」
鶴岡は、はっとして気付いた。確かにそうだ。先ほどまで立っていたはずの崖上に、西村の姿が見えなっていた。
すぐ傍で聞こえていた笑い声も距離が生じている。どんどんと遠ざかっていく。
西村は鶴岡たちを置き去りにしようとしているのだ。
つまり、このままでは西村を逃してしまう。だが――
鶴岡は自分の右足を意識した。ここから崖をよじ登っても、西村に追いつけるはずがない。
もはや打つ手がなかった。
思い知らされた。復讐が、失敗に終わったのだと。
やがて笑い声が消えた。また静かになった。
鶴岡は真奈を抱えたまま上体を起こし、崖の傾斜に沿って背を預けた。胸の上で真奈はうなだれたまま動かない。ひどく落ち込んでいた。
鶴岡もそうだった。西村を殺せなかった。やり遂げられなかった。あれほど強い決意をもって挑んだのに。
情けなさばかりが込み上げた。
背にした崖以外の三方から藪がせまり、折れた葉先が微かに皮膚を触り不快だった。風がなく空気が淀んでいる。
鶴岡は額の汗を手の甲で拭った。
ぬるりとした感触。己の手を見つめた。汗ではなかった。周囲はまだ薄明りで、色の識別がはっきりとは難しい。
何かどす黒いものがべっとりと付いていた。鼻先に近づける。かすかな鉄のような匂い。血だと分かった。
墓石に頭をぶつけたときか、それとも西村が投げつけた石のどれかがだろうか。
痛みはそこかしこに散らばっているので、頭だけが特別に痛いというわけではなかった。
「ツルちゃん、怪我してる」
真奈が声を上げた。慌てた様子で自分の服の袖を引っ張って、鶴岡の額にあてがおうとする。鶴岡は首を横に逸らして僅かに躱した。
「いい、服汚すぞ」
「そんな事」
真奈はむくれ顔になり、半ば強引に袖口を傷にあてた。そっと血を拭う。
「痛む?」
「少し、な」
張りつめた表情で、真奈は傷口を見つめる。その瞳が不意に涙で濡れた。
「ごめんね、ツルちゃん。本当にごめん」
ワタシのせいだ、と震える口からかすれた声が漏れる。そして真奈は両手で顔を覆い、しくしくと泣き始めた。
「何を謝る事がある?」
「ワタシ、あいつに会うべきじゃなかった。ツルちゃんは反対したのに……」
「最終的にはオレも同意したんだ。真奈の責任ではないさ」
真奈はうつむいた顔を覆ったまま、激しく首を横にふる。
「さっきだってワタシが暴走したから、だからこんな事になって」
鶴岡は苦笑して、真奈の頭をポンポンと優しく叩いた。
「衝動を、抑えきれなかったんだな? あいつを目の前にして」
コクンと真奈は頷いた。鶴岡は優しく笑みを浮かべた。
「なら、仕方ないさ」
真奈は、ごめんね、と何度も謝罪の言葉を口にしながら泣き続けた。
もはや西村は追えない。ならば、しゃくりあげる彼女が落ち着くまで、好きなだけ泣かせておこうと思った。
いつだったか、あれは真奈と初めて会った日の夜だった。由布子の話をして涙が止まらなくなった鶴岡を、真奈は優しくずっと抱きしめてくれた。あの時の感触を思い出した。
さて、これからどうするか。
西村は警察に通報したりは出来ないだろう。もしそんな事をすれば、あの男も痛い腹を探られるからだ。
なので捕まるとか、そういう心配はしなくていい。
だが、もう復讐を果たすのは難しいのかもしれない。それは西村に警戒されるからだけではない。
この失敗で鶴岡も、そしておそらくは真奈も心が折れているからだ。
人を殺そうとするには相当の精神力がいる。失敗した今、それを実感した。
張り詰めたものが、ぷっつりと切れてしまっていた。
この状態からまた持ち直す為には、これまで以上の意思と時間が必要になるだろう。
ならばもう、諦めるべき、なのかもしれない。
鶴岡は胸の上の真奈に視線を落とす。この子だ。
西村への復讐がこの子の全てだった。成し遂げられず、失敗を自責するこの子が、これから先どうなるのか。
鶴岡は真奈の心の在り方が、ただ心配だった。




