(九)ノ2
それから鶴岡は真っ直ぐに観音山に入り、昼間に確認した古い墓地が見えるこの場所で、西村が来るのを待ち伏せた。
東野恭子は西村に伝えたはずだ。そう信じるしかない。
だが悪い事をしたなと、鶴岡は胸中で東野恭子に謝罪した。そんなつもりはなかったが、結果として彼女の気持ちを利用する形となった。
東野恭子は『ドイカオル』を、鶴岡の名前と勘違いしたが、西村には『土居薫』だとすぐに分かる。今頃はきっと、やきもきしながら早朝の訪れを待っているはずだ。
これで西村が行方知れずとなれば、東野恭子は鶴岡との電話の事を警察に話すかもしれない。
教師との不倫が表沙汰に表ざたなるリスクを負えるかだが、その可能性がどちらに高いのかは分からない。
だがそれはもう、どうでも良かった。さしたる問題ではない。
なぜなら鶴岡は、一人で西村を殺すつもりだからだ。だから理屈をこねて、真奈を無理やり親戚の家へと帰らせた。
真奈さえ、あの子さえ守れるならば、それだけで構わない。いつの間にか、そんなふうに思うようになっていた。
真奈が手を引っ張ってくれた。あの子がいなければ、きっとこの手は今も独り膝を抱えるだけのものだった。由布子の本当の心を知る事もなく、ずっと閉じこもったままでいただろう。
もう、満足だ。
だから今は、西村への憎しみを晴らすよりも、真奈の将来を守りたかった。
あの子は、西村に対して決着がつかないと前には進めない。ならばその役目は自分が担おうと、そう決意していた。
人殺しという罪は、自分一人が負えばいい。
真奈との未来に、ほんの少しだけ夢を見た。
だが、どんな理由があれ、人の命を奪っておいて幸せな人生を望むなんて虫のいい話だ。由布子がそれを、身をもって教えてくれた。
だからこの夢は、夢のままで終わっても、仕方ない。
でも、あの子はまだ中学生の女の子なのだ。真奈の人生はこれからだ。
家族を奪われ、独り残された悲しみを背負いながら生きている。そこに人殺しという重荷までを抱えさせたくなかった。
一緒に、という約束は破ってしまう。
真奈は怒るだろう。裏切り者だと謗るだろう。憎むだろうか。でも、それでも構わない。真奈を犯罪者にはしたくなかった。
ずっと一緒だと言ってくれた。店をやろうと未来を見せてくれた。
たとえ恨まれても、憎まれたとしても、真奈にはしっかりと胸を張ってこれからの未来を生きてほしい。咲き誇る花のような笑顔を携えて、光降り注ぐ道を歩んでいってほしい。
それが今の鶴岡の、偽りのない何よりの願いだった。
今朝に読み損ねた本を思い返した。
恋人を憎む者、家族を恨む者、すべてを壊そうとする者。
鶴岡が心を重ねた本の中のあの者たちの感情は、一体どこにぶつけられるのだろう。そしてどのような結末を迎えたのか。もう知る事は叶わない。
ただ、どんな形であれ、それがハッピーエンドでないと、薄々と感じていた。知りたいが、知るのが怖くもある結末。
最後まで読めなかったのは残念でも、結末を知らないで済んだ事に、どこか安堵している部分があるのも確かだった。
だが、鶴岡がこれからやろうとする事は、これだけは本を読むのを中断するようにはいかない。
もうすぐ迎えるであろう結末。中途半端は許されない。
たとえハッピーエンドでないのだと、分かっていても。
鶴岡は、そっと目を閉じた。
瞼の裏に、カフェでコーヒーを淹れる自分の姿を映した。もちろん、そこには真奈もいる。
きっと楽しいのだろうな。自然と口元が緩む。
現実になればと望む自分がいる。それは叶わないと分かっている。
分かっているけれど、でも胸に去来するこれは、何だろうか?
未練というものか。
由布子がいなくなり、生きる気力すら失っていた心に、そんな感情を宿せるなんて。
本当に、あの子には感謝しかなかった。
独りで静かな夜を過ごす。どのくらいの時間が経っただろうか。
いきなり、物音がした。
現実へと引き戻され、鶴岡は一瞬にして緊張した。
腐葉土となりかけた落ち葉の控えめに擦れる音が、一定のリズムで続く。
周囲はまだ暗闇。早朝と呼ぶには早すぎる。
野犬か猪、何かの動物か? ともかく正体を見極めようと、鶴岡は意識を注ぐ。
それは人だと、すぐに分かった。人工的な小さな光が忙しなく動いている。ペンライトだろう。
きっと西村だ。状況から西村以外にあり得ない。
音は近づいてくる。鶴岡は、自分が光に照らされないように木の幹に身を潜め、息を殺し様子を伺った。
おかしかった。ペンライトの動きがウロウロと落ち着かないのだ。
古墓地へと向かうはずが、この辺りで何かを探している。
鶴岡は、自分の読みが外れたのかと焦った。
不安に耐えかねて、首を伸ばして覗き込んだ。その途端、ペンライトの光が目に飛び込んできた。慌てて顔を幹へと引っ込める。
見つかっただろうか? しかし一瞬だけだった。
きっと大丈夫のはずと耳を済まし、全神経を集中させた。
いや、足音のリズムが変わっていた。先ほどまでのものと違い、迷いが無くなった。
最悪だった。不意を襲うというアドバンテージを失った。
それどころか、思わぬ事態に心の整理が追い付かない。足音が迫るのに体が動かない。未だに座ったままで、腰を上げる事すら出来なかった。
そして、ペンライトが完全に鶴岡を照らした。強い光に視界が真っ白になった。
足音が止まり、すぐ目の前に誰かが立った。
「ああ、やっぱり」その声が、想像していたものと違った。
「そんな事だろうと思ったよ」
ため息交じりの二言目で、声の主が誰であるかを頭が理解しかけた。
「えっ?」と、鶴岡は声を上げた。
「真……奈?」
直後に乾いた音が、静寂を切り裂いた。左頬に鋭い痛みが走った。ビンタをはられたのだ。
鶴岡は彼女を見上げた。ペンライトの光がまともに入って眩しく、目を細くする。
「バカ」と、詰った声は涙混じりだった。そしてもう一度、彼女は鶴岡の頬をはった。
今度は先ほどよりも、ずっと弱々しかった。
怒っていた。真奈は本気で怒っていた。
きっと、容赦ない罵声が続くはず。鶴岡は身構えた。でも、くるはずのそれがやってこなかった。代わりに大きく息をつく音がした。
真奈は、それで感情を逃がしたようだった。そして、鶴岡の横に寄り添うように肩を並べて座った。
最初の一発は彼女の怒りままに強烈で、そして後に続いた二発目の弱さは、鶴岡の思いを理解しているというメッセージ。
だから鶴岡の目を覚まさせるのに効いたのは、後の方のビンタだった。
本当に何だというのか。何故こんなにも鋭いのか。容易く見破ってくるのか。
真奈の為だというのは、鶴岡のエゴに過ぎない。分かっている。彼女はそれを望んでいない。それだって分かっている。
それでも鶴岡は、真奈を守りたかった。彼女を綺麗なまま、日陰の道ではなく、明るい将来を迎えさせたかった。本気でそう願っていたのに。
なのに、真奈はそれを許してくれなかった。鶴岡の思い以上に、真奈の意思が勝っていた。
負けたのだ、鶴岡は。真奈の覚悟の強さに。
そっと、息をついた。敗北を認め、受け入れるしかなかった。
「すまない」
だから鶴岡は謝った。
「バカ」
真奈はもう一度、詰った。だが、それだけで許してくれるようだった。
鶴岡の腕に真奈の腕が触れている。彼女が隣にいる。
頬の痛みが、何故だか心地良かった。




