(九)ノ1
日は長くなったが、それでも仕事帰りに立ち寄れば、暁の空はやがて薄暗さを幾重にも重ねながら、無彩の世界へとその姿を変えていく。
水桶と花束を手にした藤井秀美は歩きながら、そんな空を眺めた。
地元のお寺の裏手にある墓苑は、方眼紙をなぞったかのように綺麗に整備されており、等間隔に区画された中に墓石が行儀よく立ち並ぶ。
それは大量生産された規格品らしく、年代にばらつきはあっても、どれも似たり寄ったり。
死んだ者に個性は必要ないという生者の押しつけのようにも思える。あるいは、あちらの世界では皆が平等なのだという願望だろうか。
そんな没個性の世界ではあるが、それでも迷う事はもうなかった。二年間、毎月欠かさずに通ったのだ。薄暗くとも何の問題もなくそこに至れる。
墓石に水をかけて丁寧に拭き、花を供え、線香を立てる。手を合わせながら、前日に見舞った彼女の母親の様子を報告する。
それで何になるというのか。意味はまだ見い出せそうにない。
だがもう、これぐらいしかやれるものが思いつかなかった。
深い、とても深い後悔。どうすれば償えるのか分からない。模範解答を見つけられないまま、今日まで時がただ過ぎた。
何度ため息をついても、決して体の外へは出てくれない。それでも秀美は息を抜いて、視線を空から前へと移した。
誰かいる。
視線の先で人影に気付き、秀美は立ち止まった。彼女が眠る墓の前でしゃがみ込み、静かに手を合わせている。彼の背中がそこにあった。
まさかである。秀美は辛うじて、挙措を失うのを堪えた。
初めてではないだろうか。彼がここに来るのは。
やがて拝み終えた彼は顔を上げる。そして墓石を見つめて動かない。無言のままの静かな時が流れる。
でも、きっと――
察するのは容易だ。あの二人の中に、自分は入られない。
でもあの少女は違った。彼の心を動かした。
引き合わせたのは自分。これは望んだとおりの事だ。
なのに胸がモヤモヤする。何だろう? この、言い知れぬ不安さは。
嫉妬? 自分ではどうしようも出来なかった。なのにあの少女はやってのけた。
それを見せつけられ、嫉妬で勘違いをしている?
もしそうなら、それは別にいい。我慢すればいいだけだから。
今度は間違っていない。そのはず。
でも……
自分の頬に手を添えてみる。体が火照っていた。
せつない。こうして、ただ見ているだけの自分が。なにも出来ない自分が。心が締め付けれて苦しい。
私はどうしたら許されますか?
秀美は、彼の背中に心の中で問い掛けた。
*
日が完全に沈んでから随分と経った。それでも朝を迎えるのは、まだまだ先になるだろう。
独りでも退屈はない。焦りもしない。鶴岡は雑木林の中のコナラの木の幹に背を預けて座り込み、じっと、あの古びた墓石の一帯を見つめた。
西村はきっと来る。
あの男は必ずこの場所に姿を見せると、鶴岡は確信していた。
由布子への墓参りを済ませた。只々、ひたすらに冥福を祈った。
そして先日の、藤井秀美の言葉。由布子のいない、こんな世の中であっても、それを受け入れたいと思う。それを伝えたかった。
真奈の事は内緒にしておいた。ああ見えて嫉妬深い。親子ほどに年の離れた子供が相手でも、彼女は機嫌を損ねかねない。
またいつか会いに来るよ、そう告げて、鶴岡はその場をあとにした。
それから公衆電話で、東野恭子の携帯番号にかけた。
彼女が手のひらに書いた数字は既に消してしまっていたが、記憶には留めておいた。
手持ちの小銭すべてを費やす事になった。
東野恭子は、電話の相手が駅までの案内を頼んできた男だと分かると、その日のうちに電話がなかった事を詰った。ずっと待っていたのに、と。
「まさか自分から声を掛けてきておいて、電話をしてこないとは思わなかったけど」
不機嫌そうな声の電話の相手に、鶴岡は「すまなかった」と、とりあえず謝った。
謝罪の必要性には疑問があったが、残りの小銭の心許なさから、深く考えないままに、とにかくすぐに本題へ入る事にした。
「キミはあの日、コーヒーハウスで男と会うつもりだった。違うかい?」
その問いかけに、東野恭子は押し黙った。しばらく間を空いてから、「だったら?」と警戒心を隠さずに返してきた。
「相手の男の連絡先を、もちろん知っているね?」
「それは知っているわ。でも、だからなんなのよ」
やはりそうか。西村は用心深く真奈には携帯番号を教えなかった。しかし、さすがに東野恭子までが知らぬはずがない。
「話をしたいのだが、伝言を頼めるかな?」
「待って」電話の向こうから、戸惑いの色が伺える。
「どういう事? 何をするつもり」
「それは、まあ、男同志の話し合いってやつだ」
また沈黙が訪れる。当然の反応だろう。
彼女からすれば、たまたま声を掛けてきただけのはずの男が、いきなり自分が不倫関係にある相手と話がしたいと言ってきたのだ。その正体に不安を覚えて当然だ。
常識的に考えれば、素直に聞いてくれるとは思えない。
だが鶴岡には、彼女に賭けるしか手が思いつかなかった。
残り少ない小銭を投入しながら、彼女の返答を辛抱強く待った。
「いいわ」
東野恭子は、やがて言った。それは何かを決断したような、強い意志を込めた口調だった。
「ありがとう」
鶴岡は、ほっと息を吐いた。
「じゃあ、伝えてほしい。この電話の後すぐに、だ」
「なんて言うの?」
「土居薫が待っていると」
「ドイカオル? そう、あなたの名前、ドイなのね。分かった。ちゃんと伝えるわ」
そうではないが、説明をする気がないので、そのまま流す事にした。
「頼んだよ」
「ねえ、伝言ってそれだけでいいわけ?」
「構わない。それで充分だ」
「まずは自分の存在を相手に知らしめたいって事? まどろっこしいわね。私から言ってもいいのよ、別れ話」
「ん?」
「大丈夫、もめたりしないわ。あいつ、見栄が本音を上回るタイプだから。体裁を気にしてすんなりいくはずよ。それなら、あなたがわざわざ出なくても済むわ」
「はい?」
鶴岡は間の抜けた声をだした。
あれ? ちょっと待て。
彼女が何を言っているのか理解が出来ない。鶴岡は戸惑った。話がおかしな方へと向かっている。
「ね、そのほうが早く事が進むわ。そうしましょう」
いつの間にか当初の不機嫌さは消え、声に何やら艶めいたものが加わっていた。
苦みの強い深焙煎のマンデリンコーヒーに、メープルシロップをたっぷりと混ぜたような、そんな濃密な甘さの声色。
それで鶴岡は、東野恭子の言葉の意味を理解した。まさかだ。
東野恭子は今の彼氏から自分を奪う為に、鶴岡が話をしたがっていると、そう勘違いをしてしまったのだ。
何をどうすれば、そのようになるのか。
ともかく、これは思わぬ展開だった。
鶴岡は混乱しながらも目まぐるしく頭を回転させる。そしてすぐに決断した。
というより、誤解を解く事を諦めた。それが出来るだけの話術も、残りわずかな小銭で許される時間もなかった。
ならば、いいか、と思う事にした。彼女には悪いが、どうせ東野恭子は鶴岡の名前も連絡先も、そして素性すらも知らないのだ。
こちらから接触さえしなければ、偶然以外で会う事はない。ならばこのままの方が都合が良かった。
「いや」と鶴岡は気を取り直し、意識的に低く、引き締まった声を出した。
「こういうのは男の役目だ」
「え? でも」
「オレに任せてくれないか? キミは言う通りにしてほしい」
承服しかねるのか、彼女からの返事がなかった。最後の小銭を投入した。もう時間はない。
「いいね」鶴岡は強い口調で言った。
「うん」と、東野恭子は小さな声で応えた。
「余計な真似はしなくていい。オレが頼んだ言葉を、それだけを伝える。すぐにね。それがキミの役目だ。後はオレがやるから」
「ええ、分かったわ。あなたの言う通りにする」
「いい子だ」
鶴岡は胸中で苦笑した。この子は懇願より、強要に弱いようだ。
「じゃあしっかりね。頼んだよ」
そう念押しをして、電話を切った。




