(八)ノ5
「あ、おかえり。どこいってたの?」
本屋から戻った鶴岡に、カウンターの奥の真奈が笑顔を向けてきた。鶴岡は曖昧に返事をしながら近づき、厨房の中を覗き込んだ。
調理台の上にはトマトやレタスが転がっている。端の方で二十四時間営業のスーパーの袋が膨らんでいた。今朝がた買ってきたもののようだ。
「何をしているんだ?」
鶴岡は訝って尋ねた。
「見て分からんのか。朝飯、っていうか、お昼になっちゃいそうかな。おなか空いたでしょ?」
「手伝うよ」
トマトをスライスする手つきを見て即座に申し出た。いいの、と真奈は首を横に振るが、鶴岡は構わずに厨房に入る。
真奈は不服そうに唇を尖らせた。
「ここはワタシに任せてよ。一人でやるの」
「なにかの気の迷いか?」
にべもなく言う。彼女が料理をした事がないのは明白だった。
「将来、料理も出来るウエイトレスになるつもりなもので。人を雇う余裕なんてもてないだろうしさ」
どうやら、昨夜の話は彼女なりに本気のようだ。鶴岡は小さく息をつきながら思わず笑った。嬉しかったのだ。
スーパーの袋の中身を確認する。メニューの予想がついた。
「それで選んだ料理がサンドイッチか?」
「正解。とりあえずの定番でしょ? これからどんどんとレパートリー増やしていくからね」
「なるほど」鶴岡は頷いた。
「いい心がけだ」
「ツルちゃんはコーヒーを淹れてよ。豆も買ってきたからさ」
「これ、だな」
スーパーの袋を漁り、コーヒー豆の入った密閉パックを取り出した。
「ごめんね。ワタシ、コーヒー分からないから適当に選んだ。なんか高ければいいもんじゃない気がして」
「いや、高ければいいんだよ」
「あら、まあ、そうですか」
「だが悪くないよ。これで問題ない」
パッケージには『コロンビア』とレタリングされている。この産地の豆は、甘い香りとマイルドな味わいが特徴として挙げられる。クセが少なく、一般的に受け入れやすいコーヒーといえた。
「それで」鶴岡は辺りを見渡す。
「こいつを淹れる奴はあるのか?」
「そりゃあ、ありますよ。小料理屋にだってそれぐらいは。吊戸棚の中に置いてあるはずよ」
鶴岡は腕を伸ばして、指定された棚の扉をスライドさせた。
すぐに見つかった。電動ミルの機能が付いたドリップ式のコーヒーメーカーだった。
手に取ると、少し埃っぽかった。しばらく使われていないのだろう。
鶴岡は構成するいくつかのパーツをばらして、流し台の容器に入れていく。一度、奇麗に洗う必要があった。
「ねえ、せっかくだからさ、お弁当にして外で食べようか?」
「ピクニックみたいだな」
「コーヒーも水筒に入れて持っていこうね」
「本当にいいのか? コーヒーで」
「なんで?」
真奈はフライパンの上でベーコンを転がしていた手を止めて、顔を向けた。
「いや、前にコーヒーハウスでココア飲んでたろ。甘いやつ。だから苦手なのかと思っていたんだが」
子供扱いするな、と真奈は抗議の声をあげた。
「大丈夫。飲めないわけじゃあないもん」
「やっぱり、得意ではないんだな?」
「だから大丈夫だって言ってるじゃん。今からコーヒーの味も覚えていきたいの」
「無理はするな」
「ワタシがしたいんだってば。今はそういう気分なんだから」
「いつまで続く事やら」
鶴岡は水道の蛇口をひねり、コーヒーメーカーの部品を丁寧に洗い始めた。
*
午後の盛んな日差しも、クスノキが豊かに生い茂下らせた葉に遮らせれば、その麓は自然の空調が行き届いた快適空間だった。風が程良く通り抜け、青草の香りが心地いい。
観音山公園の芝広場。いつもの場所。天気は恵まれており、今日は家族連れやカップルで賑わいを見せている。
そんな喧騒とは少し離れた芝広場の端のほうで、鶴岡は真奈と肩を並べて腰を下ろした。
二人の間に置かれたランチボックス。
その中に詰められたサンドイッチを一つつまみ上げ、鶴岡は頬張った。
どう? と傍らでは、期待に満ちた表情で感想を待ち望む少女。その視線を意識しながら、鶴岡はゆっくりと飲み込んだ。
「意気込みは買うよ。一人でやり遂げた。立派だ。だが、人の意見に耳を傾ける謙虚さは、やはり必要だと思うぞ」
「なによ、それ」
不満気な声を上げた真奈も手にしていたサンドイッチを一口。そしてすぐにうつむいた。
「今後は心を入れ替えるわ」
鶴岡は小さく笑ってから、二口、三口と運んで、一切れを食べきった。
「でも、ちゃんと食べれるよ」
美味いとはお世辞にも言えない。有り体に言えば不味かった。
使用している食材に問題はなかった。だが薄焼き卵の焦げが味を壊し、やたらに分厚いトマトの水分でトーストがねっとりとして食感が悪い。
「ちなみにこれは、何サンドなんだ?」
「ん? 取り敢えず思いつくものを入れただけだけど?」
「ああ」と、鶴岡は小さく苦笑する。
「真奈、いいか? 家で食べるだけならそれで構わない。でも、お店でメニューとして出すつもりなら何でも挟めばいいってものではない。メインとなる食材を決めるんだ」
「えーと、どういう事?」
「例えばタマゴサンドとメニューにあれば、マッシュした茹卵をマヨネーズで和えたものを思い浮かべるだろ? あるいはレタスの野菜サンドなら、シャキシャキした食感を期待したくなる。あと、若い男性客向けにトンカツを挟むとかな。お客さんにどういったものがテーブルに届くのか、メニューを見て何が主役なのかを分かり易くするのが大事なんだ」
「ああ、言われてみれば、確かにだね」
「今日みたいな食材なら、そうだな……、これにグリルしたチキンをメインに加えて、三枚の薄いトーストで挟めばいい。そうすればクラブハウスサンドになる。これならそのメニュー名だけで簡単に分かるだろ?」
鶴岡は二切れ目に手を伸ばしながら講釈し、表面がしなびたサンドイッチを口にした。
途端に、ガリッと音がした。何事かと、真奈が横目を向けてきた。
「タマゴの殻、だな」
口の中で選り分けながら、正体を見極める。ありゃまあ、と真奈が誤魔化すように笑った。
「全部取り除いたつもりだったんだけどなあ」
「割る、というよりかは、潰すって感じだったもんな。片手でやろうとするから」
「ツルちゃんは、片手で割ったりしないの?」
「手際の良さは大事だが、速さばかりを求めているわけでないからね、そんな必要はないよ。両手で一つ一つ、丁寧に、だ」
「でもさ、片手のほうがカッコ良くない? なんか、キビキビといかにも料理出来るぞって感じで」
頑張って練習しよ、と意気込む少女はどうやら、心を入れ替えるつもりは微塵にもないらしい。料理もこなすウエイトレスへの道のりは遠く険しそうだ。
だがまあ、いいか、と鶴岡は胸中でつぶやいた。
今は彼女がやりたいようにすればいい。どうせ先は長い。あせる必要はどこにもなかった。
そんな事を思った。これからも真奈といる。それを当たり前のように思う自分がいる。
なんだか、不思議な気分だった。
鶴岡は魔法瓶の水筒に入れたコーヒーを、プラスチックのカップ二つに注いだ。一つを真奈に手渡す。
真奈は恐る恐る、そっとカップを傾けてコーヒを啜る。途端に、いかにも苦そうに顔を歪めた。
「だから砂糖とミルクを入れようって言ったのに」
「でも、それじゃあコーヒーの味が覚えられないもん。ちゃんと飲めるようにならないと」
「別にブラックだけがコーヒーではないんだぞ。自分の好みの味に調節するのもコーヒーの楽しみ方の一つだ」
鶴岡が言うと、真奈は、むうと口をとがらせる。
「その言葉、出かける前に聞きたかったわね」




