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唇歯輔車  作者: akisira
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(八)ノ3

 明かりを灯すと、おー、と鶴岡が感嘆の声を上げた。

「電気が点くって、やっぱりいいな」

「ばかね」

 真奈は短く笑って、階段を上がり、二階の両親が使っていた部屋へと案内する。

 六畳の洋室は、二つ並んだベッドにテレビとドレッサーが置かれているだけだが、それだけでかなり手狭になっている。あの時のまま、何も変えていない。

「ここを使って」

 鶴岡を中へと促す。鶴岡は室内をぐるりと見渡した。

「いいのか? 本当に」

「もちろん」真奈は小さく頷いて返した。

「布団は干したのが押入れにあるから、自分でやってね」

「ありがとう」

 鶴岡は感謝の言葉を口にして、ベッドに腰を下ろした。

 ここが当面の彼の部屋となる。鶴岡は早速、ボストンバックのファスナーを空けて、荷物を広げ始めた。


 真奈は黙ってその様子を眺めた。鶴岡の背中を見つめながら思った。

 鶴岡が部屋を追い出された理由。そのもう一つの可能性に気付いていた。

 本当に、家賃だけで?

 そんな疑念が脳裏をよぎった。家賃の滞納だけが理由では、その追い出し方があまりに性急で、そして強引すぎるのだ。

 本当は、自分のせいではないのか。

 明らかに未成年の少女がここ最近、頻繁に出入りして寝泊りしていたのだ。誰かの目に留まらないほうがおかしい。

 これは立派な犯罪だ。

 だから大家は警察沙汰にするか、それとも今すぐに部屋を出ていくか。その二者択一を鶴岡に迫ったのではないか。

 きっと、こっちが本当の理由。そんな気がした。


 でも問えなかった。聞けば、彼を困らせるから。

 どうせ認めはしない。ワタシを庇う為に。彼はそういう人だ。

 彼のついたウソ。優しいウソ。

 背中を、じっと見つめる。痩せて薄っぺらくはあるが、大人の広い背中。

 心に深い傷を負い、その傷が癒えないように自分で抉り続けて、そして痛みを愛しんでいる。

 そうやって、一人の女性をずっと心に留め続けてきた人。

 だから彼の心はたった一人の、その女性しかいない。

 待ってても意味なんてない。彼はいつまでも彼女を引き留める。心はいつも満杯のまま。

 隙間なんてない。誰にも入る事なんて出来ない。分かっている。

 でも……、でもせめて、と思う。

 中に入れないのなら、その傍らで寄り添えないだろうか? それぐらいなら許されるのではないか?


 そっと、近づいた。

 ベッドに座り、背後から彼の腰に手を回した。ゆるく抱きしめる。乾いた汗の匂いがした。

「ツルちゃん、今日、シャワー浴びてないでしょ?」

「匂うか?」

 バツの悪そうな声。柔らかく包まれる。胸のあたりがじんわりと、懐に忍ばせたカイロのように温かくなった。

「少しだけね」


 彼の背中に顔をうずめた。

 すう、と涙がこぼれた。

 グラスに結んだ露が膨らみ、やがて水滴となって伝うように流れた。そしてまた一つ、流れた。

 あれ? と小さく驚く。そんなつもりはなかった。泣くとは思っていなかった。

 でもまた、涙があふれてきた。次から次へと――。

 彼のシャツを濡らし、それが頬に触れる。湿った感触が気持ち悪い。彼は何も言わない。ただ黙って背中を貸してくれた。


「ツルちゃん」

 真奈は、涙声のまま言った。

「ん?」鶴岡が小さく、遠慮がちに返事をする。

「もう、殺しちゃおうよ。一緒に」

「ああ」

「いいよね? もう、いっぱい我慢したよね。ワタシたち」

「ああ、そうだな」

 鶴岡は静かな口調で、しかしはっきりと言った。

「一緒に殺そう。あの男を」


 うん、と真奈は頷く。安心した。一緒だ。独りでないと実感ができた。

 気持ちが穏やかになって、涙が止まった。ゆるくなった鼻水をすすり上げる。

「それが終わったらさ」真奈は言った。

「ワタシたち、新たなスタートを切るの」

 ほう? と鶴岡は聞き返し、あのね、と真奈は続けた。

「ツルちゃん、ここで一緒にお店やらない?」

「ここで、って、ご両親のお店を使ってという事か?」

「そう、カフェをやるの。まあ、でも、すぐには無理だよね。だからまずはお金を貯めようよ。頑張って働いてさ。ワタシもバイトするから。そしたらこのお店を改装しよ。ツルちゃんはこだわったコーヒーを淹れて、ワタシがウエイトレス。可愛い子がいるってすぐに評判になるわ」

「なるほど」鶴岡は薄く笑った。

「確かに真奈なら立派な看板娘だな」

「まあね」真奈も笑い返す。

「でも、それだけじゃあ、少し弱いかな。ツルちゃん料理のほうは?」

「パスタとかならそこそこ自信はあるぞ」

「なんか、ありきたりだな。まあ、いいや。じゃあ、パスタ料理にもこだわろうよ。季節野菜のパスタとかさ」

「それこそありきたりな気がするが……」

「いいの!」

「ああ、いいと思う。それ、すごく」

「でしょ?」

 真奈はまた笑った。沈み切っていた心が浮かび上がるのを感じた。言っているうちに夢が膨らむ。なんだか楽しくなってきた。

「でも、それだけじゃあ、お客さんは飽きてしまうぞ。ちゃんと新作メニューの研究も常にしていかないとな」

「二人で味見しながら、あーでもない、こーでもないって?」

「ああ、そうだ。うん、悪くないね。そういうの」

「太りそう……」

 二人で笑った。笑い終えて、鶴岡がしみじみとした声で言った。

「また、オレは店をやれるのか?」

「そうだよ。ワタシがいる。ずっといるよ。だからさ、一緒に頑張ろうよ」

 鶴岡が腰に回したままの真奈の腕に、そっと触れた。顔を上げて、天井を見つめている。

「夢のようだ」

 声が、少しだけくぐもって聞こえた。

 うん、と真奈は応えた。

 これはただの絵空事?。現実的ではないの? よく分からない。でも、そうだとしても構わない。

 初めてだった。初めて復讐を遂げてから先の未来を思い描いた。

 だから、せめて今ぐらいは、と何かに願った。このまま夢物語に浸らせてほしいと。

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