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唇歯輔車  作者: akisira
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(八)ノ2

 どこに向かうとか、意識したつもりはなかった。ただ気が付けば、草臥れたアパートの前だった。二階の端の部屋は、いつものように真っ暗だ。

 暖かな光が窓から漏れているわけではない。それでも見ていると、何だかほっとする。帰ってきたという気持ちになる。


 鉄骨の屋外階段に、誰かの人影があった。その周囲が不自然に、ぼんやりと浮かび上がっていた。

 正体を見極めようと目を凝らしながら近づいてみる。

 一階の部屋の窓の明かりが及んでいるのもあるが、それだけではなかった。見覚えのあるランタン。充電用のハンドルが付いている。

 だから、そこにいるのが誰なのかを確信した。


 真奈は鶴岡の前で立ち止まる。鶴岡は階段の踏み板に座り、ランタンの明かりを頼りに、なにやら手紙のようなものを眺めていた。

「なにしてるの? 外で」

 そう声を掛けると、鶴岡は紙を折りたたみながら、うん、と曖昧に言った。

 ただそれだけなのに、でも彼の声を聞いた途端、真奈の中の何かに触れた。

 目一杯に張りつめているから、だからほんの少し触れられただけで、敏感に心が震える。

 鼻の奥が、つんと痛くなった。


「部屋を追い出された」

 鶴岡は応えて視線を落とす。足元には二つのボストンバックと、紙袋も二つが置かれていた。片方のボストンバックは、真奈が鶴岡の部屋に置いていたものだ。

「追い出された?」

 真奈は、笑いを含んだ言い方で、声の震えを誤魔化した。暗がりで良かった。泣きそうに歪んだ顔を見られずに済んだ。

「部屋に帰ると、大家が待ちわびていて、今すぐに出て行けと」

「なによ、それ」真奈は憤慨して見せる。

「随分といきなりじゃない? おーぼーよ」

「いや、以前から何度となく警告は受けていたんだ。ずっと無視してきた。だからこっちが悪い。しょうがないさ」

「だからって、今日の今すぐって」

「次の入居希望者が控えているらしい。数日のうちに越してきたいそうだ。だから、すぐに出ていけば、滞納した家賃は考慮すると。働き出してある程度生活が出来るまで待ってやるからと言われた。こっちは半年は払ってないからね。魅力的な提案だったんだ」

「そのエサにつられて、のこのこと巣穴から出てきたわけね」

 真奈は、やれやれとため息をつく。

「でも住み家を失った割には、落ちついて見えるけど?」

「まあ、来るべき時が来たって感じだな。前々から覚悟はしていたさ」

「覚悟は結構だけどさ。それで、これからどうするつもりなのよ?」

「とりあえずは、まあ、いつもの公園で野宿でもするさ。ただそういうわけで、キミを泊めさせてやる場所をオレは失った」


 すまない、と鶴岡は頭を下げた。そして手にしていた紙を、足元の紙袋の中にさりげなく落とした。

 何が書かれているのか気になったが、彼の様子から触れてはいけない気がして聞けなかった。

 んじゃあ、と真奈は言った。

「ワタシも一緒に野宿しようかな」

「女の子にそんな事をさせるわけにはいかないよ」

「そうね、冗談よ、じょーだん。いいわよ、ツルちゃん。今晩はワタシの家にしよう」

「え? いや、しかし」

「今までこの部屋にお世話になってきたからね。お返しに今日からはツルちゃんが居候」

「いいのか?」

「この状況じゃあ仕方ないもん。いいわよ」

 真奈は応えて、野宿よりはましでしょ? と鶴岡の足元へと手を伸ばし、紙袋を一つ手に取った。何が入っているのか、拍子抜けするほど軽い。

「あ、あたりね」と、鶴岡の目の前で揺らして軽さを強調する。

「さあ行こう」と、真奈は踵を返した。

「待て」


 背後から声がかかる。振り返ると、鶴岡がボストンバックの一つを指さした。

「キミの荷物はこっちだ」

 確かにその通り。

「なんだか、今日は疲れちゃった」

 でも甘えた声を出してみる。すると鶴岡は、「ったく」とすぐに諦めて、二つのボストンバックをまとめて片方の肩に下げた。

「こっちは、ワタシが持ってあげる」

 少し悪い気がしたので、真奈はもう一つの紙袋も受け持つ事にした。


 二人で夜道を歩く。

 道中、真奈は西村と会っていたと正直に話した。鶴岡との約束を破り、そして正体がバレてしまった事を心から謝った。

 鶴岡は責めたりしなかった。仕方ないな、と苦笑交じりの一言。ただそれだけで済ませてくれた。

 そして、大丈夫なのか? と気に掛けてくる。なにが? と惚けた。いや、と濁して、鶴岡はそれ以上は踏み込んでこなかった。


 それで、と真奈は尋ねた。あれからどこに行っていたの?

 人と会っていた、と鶴岡は応えた。そして知った。

 理沙が調べていた神隠しの話の起因。それは、由布子が高校時代に土居薫を殺し、西村と一緒に裏山に埋めたものだったのだと。


 真奈は驚いた。でもそれだけだった。彼の言葉を、なに一つ疑いはしなかった。

 これが真実――

 素直に受け入れた。そして何故だろうか、他に思うべき事があるはずなのに、何よりも真っ先に鶴岡の事が気になった。

 いま、どういう気持ちなのだろうか?

 盗み見るように横目を向けて、そっと鶴岡の様子を伺う。彼は随分と平静なように見える。

 暗がりのなかで視線に気付いたらしく、どうした? と顔を向けてきた。ううん、と首を横にふりながら、真奈は視線を外した。

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