(八)ノ1
真奈は便器に顔をうつぶせて、胃の中の不快な物を吐き出そうとした。
込み上げてきてはいる。だが、どうしても喉に栓が詰まったままだ。
だから口の中に指を突っ込んだ。舌の奥の方を押して、無理やり嘔吐かせる。
胸が圧迫されると、先ほど食べた物が一気に咥内へと溢れ、堪える間もなくそれを便器の中へと吐瀉した。
まだ消化の始まっていないそれらは、色味や原型を留めたまま胃液や唾を纏い、グロテスクで艶めかしかった。視界が涙で滲んで霞む。
これで胃の中は空っぽになっただろうか? そう思えると、少し気持ちが楽になった。
真奈はトイレブースを出て、洗面台で手を洗う。鏡の中の自分と目が合った。
ぞっとした。
充血した真っ赤な目が落ちくぼみ、半開きの口から涎が垂れていた。取り繕った上辺が剥がれ落ちて、醜い己の心がそのままの姿となって現れたかのようだった。
水を両手に貯めて口を濯いだ。顎に垂れた水滴を手の甲でぬぐい、トイレの出入り口に立つ。そこからフロアーの様子を伺った。
薄暗い空間に円卓がいくつか並ぶ。その中の一つ、窓際の席にあの男はもういない。真奈を待つ事なく、帰ったようだ。
真奈は悔しさに顔を歪め、でも心のどこかでは安堵していた。
もう戻らなくて済む。あの席にあいつがまだいたとして、正気でいられる自信がなかった。
心がくじけていた。
会計はきっと済まされているはずだ。真奈はそのまま店を後にした。
西村からの着信は、鶴岡が理沙の手帳を読み、真奈の家を出た直後だった。予告通りに公衆電話からだった。一緒に食事をしようと誘われた。もちろん受けた。
鶴岡がもしそばにいれば、きっといい顔はされなかった。だから後ろめたさはある。
それでも真奈は、どうしても西村と直接対峙したい理由があった。
待ち合わせた西村にエスコートされたのは、イタリアンの店だった。
ベースライトは控えめで、キャンドルの灯りに揺らぐ店内。
中学生から見れば大人びた雰囲気。だが畏まりすぎていない。背伸びをしたがる年頃の子を連れてくるのにはちょうどいい。そんな店だ。
冷製スープに始まり、クリームパスタをフォークに巻き付け、オリーブオイルを垂らしたパンをちぎっては口に運んだ。
きっと美味しいのだろう。だが味などどうでも良かった。目の前の男に向けて、偽りの笑みを浮かべる。そんな食事は苦痛以外の何ものでもない。
それでも知りたかった。西村の口から聞きたかった。認めさせたかった。姉はカンニングなどしていないと。
己の卑劣な行いの為に死を選んだ哀れな家族に対し、何を感じているのか、何を思っているのか、それを知りたかった。
「ねえ」真奈は、口元に薄い笑みを浮かべる。
「このお店にワタシみたいな子を連れてきたの、何人目?」
メインの皿が下げられ、食事にとりあえずの区切りが出来た。真奈は意を決して切り出した。
西村は笑って答えなかった。
それでもその含みのある表情は、これまでに何人もいるのだと暗に伝えている。はっきりとは言わないが隠す気はない。そんな態度だった。
やはりな、と思った。西村は言葉の端々に自分の頭の回転の速さや、要領のいい立ち回りに自信を覗かせる。
この手の人間はスノッブの傾向が強い。自分の知識や経験を自慢げに語りたがるタイプだ。
だから女子生徒に何度も手を出している話も、本来ならひた隠しにすべき事なのに、この男にとっては自尊心をくすぐる格好の材料となるはずだった。
真奈はわざとらしくため息をついて、そういうのってさ、と言った。
「学校や奥さんにばれたら、ヤバいよね」
「そりゃあ、まずいだろうね」
「バレた事は?」
「そのへんは上手くやっている。ボロは出さないさ」
「そう? 女って鋭いのよ。案外感付いているのかも」
「不安にさせないでくれよ」
ねえ、と真奈は上体をテーブルの上で折って顔を西村に近づける。
「今までにヤバかった事は? あったでしょ。一回ぐらいさ」
好奇心むき出し、といった目を向けた。
例えば? と西村は目で問い返してきた。その視線に怯みそうになる。
真奈は、そうねえ、と考えるふりで目を逸らして誤魔化し、椅子に深く体を預けて距離を作り直した。
「自分に気があると思って迫ってみたら、じつはそれは勘違いでした、とか?」
ウエイターが近づいて来るのが目の端に入った。会話が途切れる。デザートの皿と、コーヒーがそれぞれの前に置かれた。
ウエイターが静かに一礼して遠ざかると、西村は喉を鳴らすように笑った。そして笑い声のまま言った。
「それで、その女子生徒が融通が利かないクソ真面目で、学校に訴えると喚きだした、とか?」
ドクン、と真奈の心臓が、その小さな胸の中で強く打ちつけられた。
「そ、そんな事が?」
声が震えそうになる。西村は片頬を歪めた。見下すような視線。
「ああ、あったね。ただ、これはたまたまなんだが、その子はテストでカンニングをしてね。それで停学処分。僕の事どころではなくなったんだろう。おかげでバレずに済んだよ」
真奈の心拍数が一気に跳ね上がった。
なんだ? なんだというのだ。なぜこの男は、話の核心に自ら飛び込んできたのか。いきなりすぎる。
まさか――
ある疑念が、頭の中に浮かぶ。
「その後にね」西村は、真奈の反応を愉しむかのように話を続ける。
「その女子生徒は親と一緒に死んでしまったよ。学校をやめた後だったが、僕は学年主任だったからね。一応、通夜には少しだけ顔をだした。妹だったかな? 独り残され子がいてね。かわいそうに、と思ったよ」
やっぱり……
真奈は愕然とした。
この男は真奈が誰だか分かっていた。その上で素知らぬふりをしたのだ。
テーブルの下で、膝に乗せた手を強く握りしめた。
ふと、コーヒーハウスで初めて西村と会話をした時を思い出した。やり取りの中で、西村の反応に違和感を覚えた瞬間があった。
あの時だ。西村は気付いたのだ。真奈の正体に。だから会う気になった。理沙の妹が、なぜ今頃になって自分の前に姿を見せたのか。その理由を知る為に。
「一つ、教えておくよ」
西村は前置きをした。真奈に聞き返すだけの余裕はなかった。
「僕が好きなのはね、普段、僕の授業を受けている女子生徒なんだ。いま、真面目な顔をして話を聞いているこの子が、と思うとたまらないんだ。だからね、ウチの生徒でもない子供のキミの体には、僕はまったく興味が沸かない」
カッと頭に血が上った。目の前が真っ白に塗り潰される。それでも殺到しそうになるのを懸命に堪えた。
「それで、何が目的なんだい?」
西村が問いかけてきた。真奈は息を吸い込んで耐えた。
「お姉ちゃんは、カンニングなんてしていない。でっちあげたんだ。そうでしょ?」
必死に声を絞り出した。懸命の言葉だ。だが西村はあっさりと首を横にふり、その言葉の受け取りを拒否した。
「いや、確かに彼女はカンニングをした。それは間違いないよ」
不敵な笑み。それが真実でないと、あえて悟らせた上で決して認めない。そんな返答だった。
「自分の身を守る為に、お姉ちゃんを陥れた。そのせいでワタシの家族は……」
「キミの家族を気の毒には思う。まさかあんな事になるとはね。だが、僕は教師だ。生徒の不正行為を見逃すなんて出来ない」
「なら、あなたは、あの時の自分がした事に誤りはなかったと?」
「ないね」
認めない。この男は絶対に認めない。それが分かった。最低だ。こいつは間違いなく最低のクズ野郎だ。
湧き上がる感情。真奈は押し黙り、テーブルの上を見つめた。白い皿の上に一口サイズのケーキが三種類。それぞれに違う色のソースが掛けられている。その傍らに置かれた、小さなフォーク。
このフォークで、目の前の男の喉を――
湧き上がる衝動。いや、ダメだ。
胸がムカムカとしてきた。この男と一緒のテーブルで食べた物が、やけに不潔で不快に思えてきた。
吐き出したい。このまま体の中に留めておきたくない。早くしないと消化される。そうなっては遅い。血肉となって、全身を巡ってしまうから。
耐えられない。そんなの、ごめんだ。
真奈は勢いよく席を立った。西村は悠然と見上げ、言った。
「ここのデザートは美味しいのに。食べないのかい? 勿体ない」
*
独り、暗い夜道を歩いた。真奈は自分の手を見つめた。
あの時、殺意が体からあふれ出た。あの場で西村を殺せれば、後の事などどうでも良かった。
でも、そうはしなかった。
己のこの非力な細腕で、あの小さなフォークを西村の喉に突き立てたところで、それでどうなる? 致命傷になんてならない。
だから堪えた。これで良かったんだ。
だが――
真奈は、手を力いっぱいに握った。
無念だった。自分に鶴岡のような大人の男の力があれば、迷いなくあの場で事を成せたのに。
謝罪の言葉がほしかったわけではない。ただ認めさせたかった。姉の誇りを守る為に。カンニング行為はでっちあげだったと、あの男の口から聞きたかった。
なのに――
無駄だった。何の意味もなかった。
「もういい」
真奈は、星すら見えぬ闇の空に悪態をついて、言葉を吐き捨てた。
認めさせるとか、姉の誇りとか、そういうのは、もういい。
殺してしまおう。そして、すべて終わらせる。
ただもう、それだけで、いい。




