(七)ノ8
「これが、香苗が由布子さんから聞いた話だ。おそらく、この告白に嘘はないと思う」
ああ、と鶴岡は頷いた。確かにこれが真実なのだろう。
「同情はしたさ。今さら自首をして罪を償うべきだとかは思わない。でも、彼女が兄貴と一緒になるという話とは別だ。兄貴にはふさわしくない。俺にはどうしても、彼女を家族として受け入れられなかった」
ああ、と鶴岡はまた言った。
「分かっているさ。お前は昔からお兄ちゃん子だからな」
「兄思いって言ってくれよ」
鶴岡は口元だけで笑い、弟の肩を軽く拳で叩いた。そして体重を預けていた鉄パイプの囲いから立ち上がる。
「ヨシ、ありがとうな。聞かせてくれて。あと、オレの為に色々と気を揉ませてすまなかった」
いや、と首を横にふりながら義行も続けて立ち上がった。
「俺が由布子さんに別れるように言ったから、こんな事に――。だから、兄貴……」
「変わらなかったと思う」
鶴岡は遮った。え? と義行は聞き返した。
「ヨシがそうしなくても、結果はたぶん変わらなかったはずだ。西村は由布子にしつこく付きまとっていたのだろう? なら、どこかで由布子とオレの仲は崩れていたはずだ。そうなれば結局は今と変わらない。だからヨシのせいなんかじゃあないさ」
鶴岡が言うと、義行は泣き笑うかのように複雑に表情を歪めた。
鶴岡の知らないところで、義行には重荷を背負わせてしまった。兄を思うがあまりにそうさせてしまった。
だから弟が、自責の念を少しでも軽くしてくれればと、兄はそう願った。
人の気配がした。目を凝らすが闇夜に何も見えはしない。
姿より先に駆け寄る足音が大きくなった。人影が近づき、やがて外灯の光にその正体が分かる。
「香苗、どうしたんだ?」
義行が意外そうに声を掛ける。
「良かった、まだここにいた」と、香苗は上がった息のまま言った。
香苗は胸に手をあてながら大きな呼吸を繰り返して落ち着かせると、「お義兄さん」と鶴岡に顔向けた。
そして、おずおずと手していたものを差し出す。
白い縦長の紙、封筒のようだ。
鶴岡は要領を得ぬままにそれを受け取り、手にある封筒と香苗の顔を交互に見比べた。
「遺書、と言っていい思う。ユーコの」
香苗の言葉に鶴岡は目を見開いた。
「遺書? だが、遺書なら……」
警察が自殺として処理したのだから、今は由布子の母親の手元に戻ってあるはずだった。
香苗は小さく首を横にふった。
「もう一通あったの。これは私宛――というよりかは、本当はお義兄さんに宛てたかったのを託されたものよ。ユーコが亡くなる前日に投函されてる」
鶴岡はもう一度手にした封筒に目を落とす。そんなものが存在するとは、思ってもみなかった。
「中を見れば分かると思うけど、そこにはユーコの本当の思いがあるわ。でもこれをお義兄さんに見せるつもりはなかった。ただ、自分の思いを形として残したいから、捨てずに取って置いてほしいって。それがユーコの最後の願い。だから私は今日まで隠してた」
だが、ここ至ってはもう、その意味はなくなったという事だろう。
返す言葉が浮かんでこない。黙って封筒を見つめ続けた。
そんな鶴岡に、「ねえ、お義兄さん」と香苗は口調を改めて呼びかける。鶴岡は香苗へと視線を移した。
「警察から、ユーコの遺書を見せられたでしょ? そこになんて書いてあったか覚えてる?」
もちろん覚えている。白い便箋に縦書きで僅か三行。彼女らしく短く簡素なものだった。
最初の一文は、母親に向けた謝罪。次の行が、死を選ぶ理由だった。
「オレと一緒にいられなくなり、生きる希望を失ったと」
そして最後の行は『ごめんなさい』と、ただそれだけだった。
うん、と香苗は頷く。
「それがたぶん、お義兄さんが本当に知りたがっている事への答えよ」
どういう事か分からずに、訝った目を香苗に向けた。
「分からない? ユーコのその言葉に嘘はない。それがユーコが死を選んだ理由そのもの全てなの」
それはつまり、どういう事だろうか。鶴岡は香苗の言葉の意味を探った。
由布子は他に好きな人が出来たと言って鶴岡の元を去った。その為、警察から遺書を見せられた時、その男について言えない理由があり、代りに鶴岡の名前を認めたのだと解釈した。
そしてつい最近になって、その相手が西村と知った。西村とは不倫の関係になるので、彼を庇うためにそうしたのかと思った。
だが、そもそも他に好きな人が出来たというのは嘘だった。そしてその相手が西村だと聞いたのも藤井秀美からだけに過ぎない。
秀美もまた嘘をついていた。由布子が西村と関係していたのは高校生だったときだけで、再会してからはむしろ脅され拒絶していたのだ。ならば由布子が西村を庇う必要はどこにもない。
由布子は遺書に嘘を書く必要がなかった。あの遺書の言葉は、彼女の本当の気持ち。
つまり、だから――
なんという事だ。
口から、言葉にならない声が漏れた。
立っていられなくなった。崩れた両ひざを地面につけて頭を抱えた。何を言っているか分からぬままに呻いた。
自分だった。他の誰でもなく。由布子は、最後に自分の事を想ってくれていたのだ。
それをたった今、知った。
なんて間抜けな男なのか。こんなにも愛しているのに。彼女の本当の気持ちに、今のこの瞬間まで気付けないなんて。
どうして信じてあげられなかったのか――
「兄貴……」
気遣かわせな声が頭上から降りてきた。そっと肩に手を乗せられた。
もう一つの気配が、それを諌めるようにした。手が肩から離れた。やがて二つの気配がそっと、静かに遠ざかっていく。
独りになった。
もうしばらく我慢した。込み上げてくる感情を必死に堪えた。
もう充分に遠ざかっただろうか?
もう、いいだろうか?
鶴岡は泣いた。声を上げて泣いた。




