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唇歯輔車  作者: akisira
43/58

(七)ノ7

 赤ちゃんが出来たみたい――

 由布子は、土居薫からそう打ち明けられた。誰との子なのかは言わなかった。その相手が西村であると知ったのは、ずっと後になってからだった。

 由布子はただの高校生だ。どうしたらいいのか、分からずに持て余した。

 そして抱えきれなくなると、この難問の解き方を西村に求めた。

 当時の西村は教師としてはまだ若手で、生徒に親しく話す人物だった。だから生徒側に寄って立つ理解ある先生だと、由布子の目にはそのように映っていた。


 由布子からの相談に、西村は期待通りにとても親身だった。そしてお腹の子は堕ろすように説得すべきだと言った。

 まだ学生の身である彼女の将来を案じる様子を見せ、学校には内緒にしておこう、必要な費用も先生がなんとかする、と。


 そんな西村の言葉が、土居薫が抱える問題を解決する唯一の訓示だと信じた由布子は、その通りに実行した。

 放課後、香苗と一緒に校門を出ようとした土居薫を呼び止めた。香苗には断りを入れて、二人だけで教室に戻った。

 教室には土居薫と由布子以外は誰もいなかった。

 由布子は懸命に訴えた。悩み疲れていた土居薫も、やがて親友の真摯な言葉を受け入れようとしていた。

 そして、ついにお腹の子の相手が誰であるのかを告げようとしたその時、突然、西村が入って来た。

 きっと廊下から聞き耳を立てていたのだろう、あまりに良すぎるタイミングだった。


 西村を見て、土居薫は急に態度を変えた。癇癪を起した。

 そしてその怒りの矛先は由布子にのみ向けられた。

 この、裏切者っ!

 土居薫は低い声で唸った。

 由布子には後ろめたさがあった。彼女の秘密を他人にバラした。しかもその相手が教師だ。学校側に密告したのかと、だから土居薫は、それで腹を立てたのだと思った。

 だが、お腹の子の相手が西村であると知った後になって考えれば、本当の答えが見つかる。

 土居薫は勘違いをしたのだ。西村と由布子が結託して自分との関係を清算させ、そしてその後釜に由布子が入るつもりなのだと。


 土居薫は声を荒げ、そして襲いかかってきた。由布子は彼女の強い勢いに押し倒された。馬乗りに体を押さえられると、首に手をかけてきた。

 絞める力に躊躇いがなかった。たちまち息苦しくなり、由布子は殺されると恐怖した。

 だから必死に抵抗した。由布子もまた、下から彼女の首を絞め返した。


 無我夢中だった。何が何だか分からなかった。いつからか、記憶が飛んでいた。

 そして次に気が付いたとき、土居薫はぐったりとしていた。由布子の胸の上に覆いかぶさった状態で。

 死んでいた――


 どうしてこんな事に? 取り乱し、自失した由布子の頬を、西村が張った。

 そして西村は、由布子にこれからを諭してきた。その落ち着きぶりと迷いのなさは、まるで最初からこうなるのが分かっていたかのようだった。

 でもこの時の由布子は何も考えられなかった。西村の言うとおりにただ従うだけ。


 西村は土居薫を背負うと、ひとの目がないかを確認しつつ由布子に先導させ、学校から運び出した。

 学校の裏手には山があった。小高い丘のようなその山は樹木に覆われており、人が頻繁に踏み入れるような場所でない事は、普段の学校生活の中で知っていた。その山に入り、中腹あたりで土居薫を埋めた。


 翌日の教室に土居薫の姿は当然ない。クラスメイトも当初は、特に気にした様子は見せなかった。風邪か何かで欠席した程度にしか捉えていなかった。

 しかし三日経ち、四日が過ぎてもまったく連絡がつかない状況に、少しずつ周りで彼女の身を案じる声が大きくなり始める。

 由布子は生きた心地がしなかった。ひどく動揺したし、それを押し隠すには子供すぎた。


 ただそんな由布子の態度は、反って幸いした。周囲は土居薫の一番の親友という共通の認識フィルターにかかっていたのだ。

 殺人とは縁遠い世界の女子高生。かかる言葉は由布子を気遣い、労わるものばかり。疑いを向ける者は一人もいなかった。


 二週間目に入り、クラス全員と学校関係者を対象に、警察からの聴衆を受ける事になった。校長を始めとする複数の教師が同席する中で、一人一人が順番に教室に呼ばれた。

 由布子の受け答えはぎこちなかったはずだ。しかし同席する教師の中に西村の顔があった。西村はさりげなく由布子を庇い、警察が由布子に疑惑を抱かせないように誘導した。


 由布子が西村と関係を持つようになったのは、これがきっかけだった。

 親友を殺めてしまった。深く傷つき、そして怯えた。だから由布子は何かに縋り付きたかった。

 この秘密を知るのは西村のみ。自分を救ってくれるのは西村しかいないと、温もりを求めた。


 そうやって過ぎていく学校生活。日々新しい何かが生まれ、過去は埋もれていく。

 さほどの時間を必要とするでもなく、クラスは土居薫がいない事に違和感を抱かなくなっていた。

 彼女が話題に上がる回数も減り、教室はそれが当たり前の日常の光景として写し取るようになっていた。


 由布子は教室の窓の向こうの景色を見やる。皮肉な話だ。ここからは土居薫を埋めた辺りが見えるのだ。

 見たくない。見てしまえば気が触れそうになる。

 いつか掘り起こされるのではないか、いや、もうその方が楽になれるのではないか。

 ただ、実際にそうなったら……。やはり怖かった。


 針のむしろのような毎日。その一日一日をやり過ごす。今日は大丈夫だった。明日はどうだろうか――。その繰り返し。なんとか卒業までは耐えた。

 そしてすぐに逃げた。地元を離れ、近づく事さえしなかった。

 警察が自分の元へと来る事のないままに、十年近くが経った。土居薫は今も土の中にいる。


 そんな折、母親が体調を崩したと知った。親不幸な娘だと負い目があった。

 母一人、子一人で放ってはおけない。不安を抱きながら、またこの場所に戻ってくる事にした。

 香苗に連絡をとり、働き口の世話をしてもらった。表通りから外れた狭い路地の小さな喫茶店。

 それをカフェと言い張るマスター。なんでも営業許可の種類が違うらしい。小さなこだわり。


 そして、恋をした。


 彼は優しい人だった。言葉にすればありきたりだが、でも幸せとは何かを教えてくれた。日々を積み重ねる毎に大きくなっていく気持ち。

 言い出せなかった。言いたくなかった。

 そして彼の口から将来の事、結婚を匂わすような言葉が漏れるようになり、もはや絶対に知られてはならないと決意した。

 人殺しの自分が、こんな幸せを味わっていいのか、そんな後ろめたさが付きまとった。ただ、どうしても手放したくなかった。


 でも、と由布子はやるせない笑みを浮かべた。

「神様は、ちゃんと見ていたのね」

 西村との再会。それは鶴岡の店だった。

「本当に偶然だったの」

 由布子は、そう悔しそうに唇を噛んだ。

 鶴岡の店は小さくとも、元々それなりに繁盛をしていたが、タウン誌の掲載がきっかけか、新規の客が急に増えた。そしてその中に西村がいたのだ。


 西村はカウンターの向こうにある由布子の顔を見て、ひどく驚いた顔になった。

 それは由布子も同じだ。まさかだった。

 この時の西村は、黙って由布子の作ったパスタを食べ、鶴岡の淹れたコーヒーを飲んで出て行った。


 だがその日の夜、西村は由布子の家の前で待ち伏せていた。由布子の姿を認めてニヤリと笑う。とても嫌な予感がした。

 由布子が掴んだ穏やかな幸せが、終わりを告げた。


 西村はすぐに土居薫の話を持ち出した。

 そして由布子に関係を迫った。高校生だった時と、大人になり成熟した体の違いを知りたいと――。

 その下卑た笑みが気持ち悪かった。嫌悪感に身震いがした。もちろん拒んだ。

 しかも、この時に初めて土居薫のお腹の子の相手が西村本人であったと知らされた。

 騙された気分だった。あの当時の信頼を裏切られた。

 由布子は西村を責めた。詰った。

 それでも由布子が土居薫を殺し、西村と一緒になって山に埋めたのは紛れもない事実だ。

 どれほど後悔しても、西村との共犯関係は消えてくれない。

 西村が彼との関係を嗅ぎ付けて告げ口されたらと思うと、怯えた。考えただけで胸が詰まった。


 西村からは、度々待ち伏せを受けた。何度やめてほしいと頼んでも、聞き入れはしない。

 構う事なく店に何度もやってきた。客席から、意味あり気な視線を由布子に送ってくる。

 すぐそばに彼がいるのに……。生きた心地がしなかった。


 こんな事が繰り返されれば、やがては誰かの目に留まる。秀美に見つかり、香苗に詰問され、遅かれ早かれこの時がくるのだなと、心のどこかでは分かっていた。

 これまでかと思った。それでも手放したくなかった。

 逃げ出そうと暴れる幸せを、腕の中で抱き留めようと必死にもがいた。

 それでも――

「まあ、これで、何もかも終わりになるのね」

 由布子は諦めた表情で、そう言葉をこぼした。

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