(七)ノ5
「由布子は――、由布子と西村は、土居薫の失踪に何らかの形で関わっていた。だから逃げた」
西村も転勤で一度は別の学校へと移っている。教師と言う職質上、それはごく当たり前かもしれないが、それでも、二人とも逃げる為に地元を離れたようにも映る。
土居薫と仲の良かった由布子。由布子と関係を持っていた西村。
そして土居薫の話を聞こうとした小山理沙を、西村はカンニング行為をでっちあげてまで封殺した。
そう、鶴岡の中で一つ繋がった事がある。西村が理沙を陥れた本当の理由だ。
西村は、いまさら土居薫の件を蒸し返されたくなかった。興味本位に嗅ぎ回る理沙を、最初は自分の側に引き入れて口を封じようとした。だから迫ったのだ。
鶴岡の感覚では愚かでしかないが、生徒に手を出す悪癖を持っていた西村は自惚れもあったのだろう。理沙と関係を持つようになれば、それで丸く収まると考えた。
しかし理沙は、潔癖なまでに拒絶した。
状況を悪化させてしまい、西村は追い込まれたのだ。だからあのような卑劣な手段に打って出た。
西村がどうして土居薫の事をそれほどに隠そうとしたのか。
真奈の話を聞き、理沙の残した手帳を読み、そしてその内容を、何度も何度も頭の中で反芻させた。
香苗が見せた動揺。心を頑なにした秀美。
鶴岡は、自分が思い至ったそれが真実ではないのかと確信し始めていた。
失踪の秘密を知っている。あるいは失踪させた当事者。由布子と西村、当時の二人は共犯めいた連帯感を有していたのではないか。
そして時が過ぎた。
失踪者は、行方が分からぬままに七年経てば死亡届が受理されるようになる。土居薫の母親も、周囲の勧めでそうしたと理沙は記していた。
もはや、よほど新しい何かが出てこない限りは、これが事件として扱われる事はないだろう。
この時間の経過が二人を安心させ、またこの場所に戻ってこさせた。
違うだろうか?
「そして地元に帰ってきた二人は再会して、また関係を持つようになった。由布子はオレを捨ててまで、西村を――」
「それは違う!」
いきなり香苗が、声を張り上げた。
「違う?」
「ごめんなさい。お義兄さん。嘘をついてた。だましてた。私……、私」
香苗はブランコの動きを止めて、辛そうに表情を歪めた。
「私、やっぱりこれ以上は、もう黙っていられない。こんなのユーコがあまりにかわいそうよ。ユーコは確かに西村先生と会っていた。でも、それはお義兄さんが思うような関係じゃあなかったの。ユーコはあなたを愛してた。心の底から」
「ど、どういう……」
「嘘をつかせたのユーコに。他に好きな人が出来たから別れたいって、そう言えって。それが、こんな事になるなんて思いもしなかった」
香苗の話がすぐには理解出来なかった。言葉としては分かるのだが、その意味が頭の中に入ってこない。
嘘? 嘘とは一体……
唖然とした状態で数秒、鶴岡はようやく言葉を消化し始める。
「な、なぜ、そんな事を、キミが、そう由布子に別れるように迫ったというのか」
香苗は、また応えなくなった。煮え切らない彼女の態度に、鶴岡は焦れた。正面に立ち、彼女の両肩を強く掴んだ。
「言ってくれ! どういう事だ? 今の話はなんだ? キミが、どういうつもりで、キミが!」
鶴岡は声を荒げ、香苗の体をゆする。彼女は体に力を入れて、いやいやをするように抵抗をした。
「俺だよ」
背後の方から声がした。聞き慣れた声だった。鶴岡は声のした方へと首を回す。
いつの間にか、弟の義行が背後に立っていた。穏やかな性格の弟が珍しく、似合いもしない固い表情をしている。
「兄貴、香苗を離してやってくれ。由布子さんに別れるように迫ったのは俺だ」
「ヨシ……」
鶴岡は香苗の腕から手を離すと、体を義行へと向けて正対した。
「なぜ、由布子に?」
「香苗に相談された。そして由布子さんの過去を知った。許せなかったんだ」
義行は静かな口調で告げた。そして鶴岡から視線を外し、ブランコでうつむく香苗を見やる。労わるような目だった。
「兄貴の店でアルバイトをしてた大学生の女の子、いただろ? ほら、なんていったかな」
「藤井、秀美?」
「そう、たしかそんな名前だったね。あの子がね、香苗に相談、いや、あえて悪しざまに言えば告げ口をしたんだ」
「告げ口?」
「ああ、由布子さんが見知らぬ男と、兄貴に隠れて会っているようだってね」
「彼女が、何で?」
「お義兄さんの事が、好きだったからでしょうね」
観念したのか、今度は香苗が口を挟んだ。
「偶然見かけたとか言ってたけど。それ嘘だと思う。ユーコがお義兄さんと付き合っているのが悔しかったのか、辛かったのか。あの子、休みの日とかにユーコを付けてたみたい。弱みでも握れればと思ったのかしら? まあ、ともかくあの子は、ユーコと西村先生が会っているところを目撃した。それを直接お義兄さんにではなく、ユーコの友人である私に話したのは、私なら遠慮なくユーコを問い詰めるって、そんな計算が働いたからだと思う。実際に私、そうしたし」
「それで、由布子は何と?」
香苗は、小さく首を横にふる。
「ごまかしたわ。でも、隠している事ぐらい私には分かる。だからね、秀美ちゃんに頼んだの。もし二人の事で何か分かったら教えてって。悪いようにはしないからって。あの子、はりきったわ。上手くいけば、お義兄さんと由布子を別れさせられるかもしれないもんね」
藤井秀美が、陰でそんな事をしていたとは――。さすがに露ほどにも思っていなかった。
彼女からの告白を断った後、秀美の示した態度は、非常にあっさりとしたものだった。なので、すっかり割り切ったものだとばかり思っていた。
先刻、秀美が見栄があるから言いたくないと拒絶したのは、この時の自分に対する後ろ暗さからだったのだろう。
それで、と香苗は言葉を続けた。
「あの子は、二人の会話を盗み聞きしたの。西村先生はユーコに関係を迫ってたみたい。学生だった頃を思い出してって。もちろんユーコはそれを拒絶した。けれど西村は引き下がらなった。ユーコ、脅されてたみたい。いくつかあった言葉をつなげるとね、分かったの。私、多少は当時の事情を知っていたからね」
「分かったというのは、土居薫の事について、だね」
鶴岡の言葉に、ええ、と香苗は頷いた。
「それが事実なんかであってほしくなかった。間違いであってほしい。そんな思いで詰問したの。でも諦めて白状したわ、ユーコ。ユーコね、ユーコは、ドイちゃんを……」
言いよどむ香苗の傍に義行は歩み寄り、そっと彼女の肩に手を置いた。そして後を引き継ぐように告げた。
「由布子さんはね、その同級生の女の子を殺したんだ」
やはりそうだったか――。
鶴岡は目を閉じて、その言葉を受け止めた。予想がついていた。だから驚きはしなかった。
だがそれでも、鶴岡の心はジワリと締め付けられ、息苦しさを覚えた。
「で、でもね」と、香苗は必死に訴える。
「はずみだったのよ。正当防衛なのよ」
友人を庇おうとする香苗のその姿は、どこか痛々しい。
同じように感じたのだろう。義行は、鶴岡と香苗との間に体を入れて、彼女を守るかのように、姿を見えなくした。
「香苗は、家に戻っていてくれ」
義行は香苗に背中を向けたまま告げた。でも、と香苗は弱々しく戸惑いの声を、その背中に投げる。
「いいから、さ。いつか兄貴とは、腹を割って話さなきゃって思っていたんだ。いい機会だよ、これは。なあ、兄貴?」
柔らかい口調だが、有無を言わせぬ傲慢さがあった。それを香苗も察したのだろう。
しばらくの逡巡の後、彼女はブランコから降りた。鶴岡の位置から見えなかったが、小さく金属がきしむ音がした。
義行の背後から姿を現した香苗は、不安そうに鶴岡と義行の顔を交互に見比べる。
「大丈夫だよ」
義行が静かに告げて、鶴岡も小さく頷いた。
香苗はなおも立ち去り難そうにしていたが、やがて諦めて公園を後にした。
鶴岡は、義行と共に暗闇に消えていくその背中を見送った。




