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唇歯輔車  作者: akisira
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(一)ノ4

 私服姿の少女に、三人の男子学生。傍から見て、この組み合わせになんら違和感はないはずだ。

 だがそんな中に、みすぼらしい中年男が加わればどうだろう。白鳥の群れに迷い込んだ何かのように、随分と浮いて見えていそうだ。

 そんな居心地の悪さを覚えながら、男子学生、少女、最後尾に中年男の並びで店の外に出た。


 すぐさまに、熱を帯びた空気が襲いかかってきた。体が纏っていた冷えをあっという間に持ち去っていく。

 ただ、覚悟していたほどには不快でなかった。見ればアスファルトは乾いており、店に入る前に比べて街全体が明るくなっていた。

 店の敷地内は、百台以上が収容可能な平面駐車場が広がっており、車の出入りに絶え間がない。正面側は常に人の目があった。

 だからなのだろう。男子学生は裏手の駐車場に行くよう促してきた。


 面倒な事になった。鶴岡は胸中うんざりとしながら、前を歩く四人の子供たちの背中を見つめた。

 親子ほどに年の離れたこの子らに、どう対処すべきかなのか。その判断が難しかった。

 話し合いで済むのが理想だが、どうやらそうもいかないようだ。鶴岡はこの僅かな時間の間に、事態は悪い方へ変化しているのを感じていた。


 先ほどから三人の男子学生は、鶴岡と少女が付いて来ているか、後方を何度も確認してくる。

 振り返るその表情に当初の戸惑いの色は消え、変わりにニヤニヤと感じ悪い笑みを浮かべるようになっていた。それは随分と好戦的なものだ。

 彼らは若い。若いゆえに溢れるエネルギーに自信を持ち、時に草臥れた大人たちを見下す。そして短絡的な思考へと陥りやすい。

 その場合、暴力や威圧で相手を屈服にさせるのが、最も手っ取り早く自尊心を満たさせる。

 彼らがその手法を選ぼうとしているのが明白であった。


 だが鶴岡の目から見れば彼らは細く、貧弱と言って良かった。骨格がまだ子供のそれで、出来上がっていないのだ。背も鶴岡より頭一つ分近く及んでいない。

 三人相手でも負けはしないだろう。負けはしないだろうが、子供相手に暴力で応戦するのは、大人として間違っているのもまた確かだ。

 では、どうするか。

 今度はすぐ目の前を歩く少女に目をやる。


 助けを求めた割にやけに落ち着いている。長い黒髪を、まっすぐに背中まで垂らしていた。

 身長は百六十を少し超えていそうだ。まだ成長の余白を残す年頃で、高いほうだろう。

 だが彼女もまた華奢だった。

 カットソーの袖から伸びる腕は、日陰で育ったアスパラガスのように白くて細い。およそ運動に青春をささげているとは思えなかった。

 ただ、クロップド丈のパンツにスニーカーという格好は、走る分には支障なさそうだ。

 肩から下げた大きなボストンバックが邪魔だが、まあ、問題ないだろう。

 ならば逃げてもらうのが賢明か。そう判断した。


 鶴岡は後ろから少女の肩をそっと掴んで、立ち止まらせた。振り返った少女に、目配せで行けと合図を送る。

 少女は鶴岡の意図をすぐに理解した。チラリと前を歩く三人に目をやり、不敵な笑みを浮かべて静かに頷いた。

 そして少女はすぐに実行に移した。そこに躊躇いはない。踵を返し、勢いよく駆け出した。

 棒切れのような見た目とは裏腹に、足は案外と速い。

 若さ特有の弾けるような躍動感。黒髪が、風になびく鯉のぼりのように踊る。

 光が降り注ぐ雨上がりの街並を少女が駆けていく。その姿は、なかなか絵になっていた。


 地面を蹴るその音で気付いたのだろう。男子学生の三人が同時にこちらへと振り返った。

 遠ざかっていく少女の姿を認め、「あっ!」と声を上げた。すぐに慌てた様子で追いかけようとする。

 鶴岡は両手を広げてそれを制した。

「なんだよ! おっさん」

 一人が声を荒げた。鶴岡は動じる事なく、悠然と平らな視線で見返す。

「ふざけんな」

 別の一人が凄んだ。だか、いくらか勢いが弱い。

「何に対してだ?」

「ああ?」

「何に対してふざけていると感じた? 言ってみろ」

 鶴岡は出来るだけ低い声で問いかけた。そのように返されるとは思っていなかったのだろう。

「そ、そりゃー、オメー」と口の中でもごもごとして、目が泳いだ。

 後のもう一人に目をやる。

 三人の中では体が一番小さい彼は、何も言わずに懸命に睨み返してきた。ただその表情はまだ幼く怯えの色が伺えた。

 二人の友人の威を借りているだけなのだろう。それを悟られまいと、精一杯に強気の体裁を取り繕っている。


 まずは上手くいった。鶴岡はこの三人より精神的に優位に立つ事に成功した。

 彼らは鶴岡を草臥れた中年と侮っていた事だろう。実際にはまったくもってその通りなのだが、ただ鶴岡が弱さを見せれば、そこに噛みつけたはずだった。

 だから虚勢でも堂々としていればいい。体格に勝る鶴岡は、三人にきっかけを掴ませなかった。

 それに彼らは脇が甘い。三人もいるのだ。先導するのは一人だけで良かったはずである。あとの二人は、鶴岡と少女の背後に回って逃げ出させないようにすべきだった。

 つまり悪ぶってはいるが、彼らはどうやら荒事には慣れていなさそうだ。


 そのまましばらく睨み合いが続いた。

 時間は稼げたか。二分か、せいぜい三分程度。それでも少女のあの健脚ぶりなら、もうこれで充分だろう。

 今度は鶴岡の番だった。

「なあ、気付いてるか?」

 鶴岡は三人に問いかけた。

「何を、だよ」

 一人が尖った声で応じた。鶴岡は三人の背後の方へと指さした。

「お巡りさんかな? 先ほどからそこの建物の陰からこちらの様子を伺っている」

「えっ?」


 三人は同時に背中を向けて振り返った。もちろん嘘だ。なんて素直な子供たちなのか。

 その隙をついて鶴岡もまた、一気に駆け出した。

 本屋の敷地を抜け、国道沿いの歩道を走る。

 罵声が飛び交い、背後を振り返れば、騙されたと気付いた三人が怒りの形相で追いかけてくる。

 鶴岡は目についた交差点を曲がり、住宅街の小道へと逃げ込んだ。


 すると、いきなりだった。鶴岡の息が切れた。

「えっ?」と、声に出た。

 前触れのないその唐突さに、鶴岡は驚いた。

 なんという体力のなさか。思い返せば全力で走るという行為から久しく離れている。

 若かりし頃のイメージを引きずっているつもりはなかったが、衰えは思ってた以上に顕著だった。


 罵声が次々と背中にぶつかってくる。後方からは、今こそがまさに若かりし頃である三人の追いかける気配が迫ってきている。

 三人相手でも負けはしないというのは、ただの自惚れだった。とにかく今は、目につく交差点を曲がって見失ってもらうのを願うばかりだ。


 だが鶴岡の体力は、もう底を尽きそうだ。呼吸が乱れて胸が苦しかった。乳酸を蓄えた脹脛が足の運びを鈍くさせる。

 これで結局捕まってしまうのなら、最初から三人の気が済むまで素直に殴られたほうが楽だったのではないか、そんな気すらしてくる。

 何処か逃げ込めるところは――

 白濁する思考の中で、ふと光明を見つけた。三人から逃げ出す為についた嘘を思い出した。

 もう一度力を入れ直すと、再び国道沿いへと出た。


 記憶にあった通りだ。すぐに灰色の、小さな建物が目に入った。旭日章が黄金色に輝いている。

 交番だ。そこをゴールに定めた。現実にはないが、鶴岡には、そこにフィニッシュテープが確かに見えていた。

 あと少し。最後の力を振り絞る。建物にどんどんと近づく。

 そしてついに、鶴岡は架空のテープを切るように流れ込んでゴールした。

 交番の入り口の前で膝をつき、四つん這いにへたれこむ。


 これが実際にマラソンの大会などであれば、ここでコーチかなにかがタオルを肩に掛けてくれるところだが、もちろん、そんな事をしてくれる者などこの場にはいない。とにかくガス欠だ。

 もう走れない。だがこの場所なら、あの三人に見つかっても手出しをされる心配がなかった。


 すぐに激しく咳き込んだ。胃液がせり上がるのを堪えながら、短い呼吸を繰り返す。

 体は酸素を欲しているが、上手く取り込めずに喘いだ。なまりきった体で急激な運動をしたせいだ。

 大量の汗が全身を濡らした。滴が無精ひげの隙間を縫いながら頬を伝い、顎先から次々と落ちて、アスファルトにシミの数を増やしていった。


「大丈夫ですか?」

 傍らに誰かが立った。見上げるまでもなく、その足元の様子で警察官だと分かる。交番の中から何事かと出てきたようだ。

 鶴岡は手を挙げて返答を待ってもらった。無理やり呼吸を深く長いものへと変える。

 それを何度も繰り返し、ようやく落ち着ついてきた。


 鶴岡は上体を起こすと立てた膝を抱え、いわゆる体育座りのような体勢で、傍らに立つ警察官を仰ぎ見た。

 思いのほか若い顔がそこにあった。体の薄さに制服が余り気味で、頼もしさはあまり感じられない。ただ人は好さそうだ。


「どうかされましたか?」

 警察官は、先ほどの問いかけに鶴岡が答える前に、別の質問を重ねてきた。鶴岡は視線を落とし、どう応えるか逡巡した。

 大人が子供に追い掛け回された、と正直にそう言うのは格好が悪い。

「犬に襲われまして」

「犬に、ですか?」

「ええ」

 警察官は表情を引き締めると、その場から少し離れ、道路の左右に目をやる。

「見当たらないようですね」

「そうですか」

 鶴岡も目だけであたりの様子を伺う。犬はもちろんいないだろうが、あの三人の姿も見当たらなかった。

「逃げ切れた、かな」

「災難でしたね」

 警察官は鶴岡のほうへ向き直って同情を寄せた。

「ええ、まったく」

「それで野良でしたか? その犬は」

「いえ」と、鶴岡は三人の姿を思い返して苦笑を浮かべた。

「飼い犬だと思う。躾は出来てなさそうだけど」

 応えると、警察官は「あー」という口の形を作って若い顔をしかめた。

「すみません、中に入って少し休んでいってもらえますか?」

「ん?」

 鶴岡は思わぬ申し入れに戸惑った。

「飼い犬に襲われたとなると、少しお話を伺わせて頂きたいもので。もし飼い主さんが分かれば対処も出来ますから。あ、怪我は。お怪我とか、されてませんか?」

「あ、いや」

 鶴岡は慌てて立ち上がった。何やら面倒な事になってきた。

「ノラ……、野良犬だったかも」

「え? しかし、さっき飼い犬と――」

「そんな気がしただけです。でもよく考えたら、首輪をしていたわけでもないし」

 苦し紛れの言い逃れに、警察官は「はあ」と違和感を露わに返事をした。

「そう、ですか。あの、それでお怪我のほうは?」

「してない。まったく」


 やはり若い警察官は、納得しかねる様子だ。つぶらな小さな目に不信の色を漂わせ、腰が引けまくった中年男を値踏みしている。

「本当に無事なんだ。ほら、この通り何ともない」

 鶴岡は背筋を伸ばして、両手を広げて見せる。

 それで警察官は、仕方なさそうに小さく頷いた。とりあえず事件性はないと判断したようだ。

「では、せめて大きさとか、犬の種類とか分かれば教えて下さい。少し注意を払っておきます」

 真面目な警察官なのだろう。そんな彼にこれ以上嘘を重ねるのは気が引けるが、鶴岡も答えない訳にもいかない。

 何の犬種にしようかと考え、反射的に「スピッツ」と言いかけて思いとどまった。

 体が小さく、キャンキャンと吠える姿があの三人と重なったのだが、小型犬に襲われて逃げ惑う中年男の姿はあまりに滑稽だ。

「柴。たぶん。あまり詳しくないので、自信はないけど」

「柴犬ですね。それで、大きさはどうでした? あと毛の色とかは」

「茶かな」三人の髪色を思い返しながら言った。

「体はあんまり大きくはなかった」

「なるほど」


 警察官は頷いた。そしてさらに何かを聞きたそうに口を開いたので、鶴岡は両手のひらを突出し、押しとどめるようなジェスチャーをした。

「もう、ホント、大丈夫なので。このへんで」

 そう言って、一歩後退りをした。

「あ、でも」

「いや、本当に。もう」

 さらにもう一歩後退する。とにかく鶴岡は、一刻も早くこの場を立ち去りたかった。

「お水か何か飲まれますか? 喉が渇いてるでしょう。汗がすごいですよ」

「あ、頂きます」

 ベルが鳴ると涎を垂らす犬のような条件反射で頷いた。この場を去るのは水分補給してからでも遅くはない。

 喉が、ごくりと鳴った。

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