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唇歯輔車  作者: akisira
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(七)ノ3

 あーあ、と肩を並べて歩く秀美が、声にため息を交じえた。

「楽しかったなあ。あの頃は。こうして社会に出ると、つくづく思いますね」

「当時は当時でそれなりに嫌な事もあっただろうに。過ぎ去っていったものは案外、記憶が補正されて美化されやすい。懐古の情とはそういったものだよ」

「それは、まあ、そうかもしれませんけど」

 それを言っちゃいますか、と秀美は口を尖らせた。

「でもやっぱり私はあの頃に戻れたなあ、って思いますよ。ねえ、マスターもそう思いません?」


 どうだろうか――、鶴岡は顧みる。もちろん鶴岡にしても、店をやっていた頃が一番充実していたと思う。

 念願だった自分の店を持てて、将来を考えられるほどの愛する恋人がそばにいて、スタッフにも恵まれた。

 とても幸せだった。だが……


「もし、あの頃に戻ったとしても、その先でまた、オレは由布子を失うのかな? それならもう、たくさんだ」

 鶴岡は、独り言のように呟いた。表情は見なかったが、傍らで秀美が息を飲むのが伝わった。

 彼女に口が過ぎたと後悔させたかもしれない。そう気付いて、鶴岡は言ってから後悔した。


 差し掛かった横断歩道が赤になった。

 鶴岡と秀美が立ち止まると、待ちかねていたのか、巣を攻撃された蜂たちが飛び出すかのように、次々と車が勢いよく走りだした。

 原付スクーターがやけに攻撃的に、鼻先をかすめそうなほどすぐ目の前で通り過ぎる。その風と耳をつんざくけたたましいエンジン音が不快で、鶴岡は顔をしかめながらスクーターの男を目で追った。


「マスター」秀美がぼそりと言う。先ほどまでの調子とは異なり、意気消沈としていた。

「由布子さんの事。まだ、こだわりを捨てられませんか?」

「捨てられない」鶴岡は迷いなく応えた。

「捨てられないし、捨てる気もない。これかもずっとそうだろうな」

「一生?」

「ああ、一生だ」

「そう、ですか……」

 秀美はうつむいて黙った。二人とも無言のままでいると、やがて信号が青に変わった。

 鶴岡は、秀美を促してから歩き始める。


「小山真奈という子を知っているね。キミがオレに会うように差し向けた」

 鶴岡はようやく本題に入った。だが秀美は黙ったままだった。聞こえなかったのだろうかと心配になった。

 横断歩道を渡りきった所で、「あの子が、そう言ったのですか?」と返ってきた。

 鶴岡は頷いた。

「名前は知らないと、真奈は言っていた。しかし由布子に妹はいない。状況からキミしか考えられなかった」

「バカな子」

 聞こえるか聞こえないかの小さな声で、秀美はつぶやいた。内緒だと念を押されていたらしい。

「キミがなぜそうしたのかは問わない。でも、教えてほしい。キミは由布子の件で、オレに何かを隠していないか?」


 秀美は、また無反応に前を見据えたまま歩き続けた。若干、足早になっていた。

 由布子の妹が、真奈を鶴岡へと引き合わせた。理沙の部屋で手帳を読んだ後、真奈からそう聞かされた。

 鶴岡には、それが藤井秀美だとすぐに分かった。そして秀美は、まだ何かを知っていると思った。

 でなければ彼女がどうしてわざわざそんな事をする必要があったのか、その行動原理に説明がつかない。

 そして推測した。


 小山理沙の手帳に記載されていた二人の名前。西村と、そして由布子。当時、二人が男女の関係にあった事は先日、秀美から聞いていた。

 その二人の名前があったのだ。これは、ただの偶然だろうか?


 理沙が調べていた七不思議の一つ『夕刻の神隠し』

 その話の起因となったであろう『土井薫』の失踪。


 土居薫にとって、西村は学校の教師で、由布子は一番に名前が挙がるほどの友人。どちらも浅からぬ関係だ。

 ならばその失踪に絡んでいるのでは? と疑念が生まれた。

 そして秀美は、何らかの理由でその辺りの事情を知っている。だから真奈を鶴岡の元へと導いた。

 由布子が鶴岡に見せまいとしていた影の部分が、それがここに繋がるのではないか。そんな気がするのだ。


「なんで教えなくてはいけないのです?」

「ん?」

 衛星通信をしているかのような時間差で、秀美は挑むように言った。彼女は判断に迷うような事柄に直面すると、反応が遅れがちなる癖があったのを思い出した。

 その強い口調とは裏腹に、間違いのないように慎重に言葉を置きにきたのだ。


「私は由布子さんの事を、何もかもマスターに話さなくてはいけないのですか?」

「いや、そうではないが……」

「そもそも、いまさら知ったところで、それでどうなるというのです」

 秀美は言ってから、急に立ち止まった。反応が遅れた鶴岡は、数歩先に進んでから歩みを止めて振り返った。

 そこには、キッと睨みつけてくる秀美の厳しい顔があった。

「いい加減に……、してください」抑えきれない感情が、低く震えた声になってその口からこぼれた。

「由布子、由布子、由布子って――。由布子さんは、もう死んだんです。分かってよ」


 往来の真ん中で立ち止まった二人を、邪魔な障害物として迷惑そうな目を寄越しながら人々が横を通り抜けて行く。だが、今はそれを気にするだけ余裕が鶴岡にはなかった。

 思いもよらぬ秀美の剣幕。鶴岡は戸惑い、たじろいだ。


「分かっている、つもりだが……」

「いいえ、分かってない」秀美は首をゆっくり横にふる。

「とにかく由布子さんはもういない。それはどうしようもないの。それでも、そんな世の中だとしても、あなたはっ! ――生きていかなくてはならないの」

 声を荒げたわけではない。それでも、それは切実な思いを込めた彼女の心からの叫びだった。

「キミの言うとおりだ。だからこそなんだ」

 秀美の真摯な思い。それに虚実を混ぜて返す。鶴岡の声は自然と大きくなった。

「オレは由布子の事を知りたい。知って、受け止めて。そして向き合おう。そう思っているんだ」

 秀美は厳しい表情のまま、また首を横にふった。

「そうでしょうか? 私には、由布子さんへの思いに、ただしがみつきたがっているだけのようにしか見えない」

 やはり鶴岡の嘘は簡単に見抜かれる。小さく苦笑した。その通りだった。

 受け止めるとか、向き合うとか、そんなのはどうでもいい。

 知りたい。由布子をとにかく知りたい。そして由布子への強いこだわりの中に、どっぷりと浸っていたい。ただ、それだけだ。


 秀美は息を吐いて、歩き出した。拒絶のオーラを身に纏いながら鶴岡を追い越し、その横を通り過ぎる。

「待ってくれ」

 彼女の背中を呼び止めた。まだ何も由布子の話を聞いていない。鶴岡は、後ろから秀美の肩に手を掛けた。

 それは即座に払われた。だが、立ち止まってはくれた。

「言いたくありません。私だって、私にだって見栄はあるんです。だから、言いたくない。あなたには教えません」

 秀美は拳を強く握り、背中を向けたまま言った。

「たのむ」


 鶴岡は頭を下げた。秀美は振り返らなかった。こちらを見ようともしない。それでも少しだけ、鶴岡の気持ちを汲んでくれた。

 でも、と秀美は言葉をつないだ。

「私なんかよりも、知っている人がいます。思い返して下さい。そもそも由布子さんは、どうしてマスターのお店で働くようになったのです?」

 鶴岡は頭を上げて、その言葉の意味を探った。そしてすぐに思い至った。

 そうか、いた。当時の事情を知る可能性のある人物が。

「もう、このへんで」

 秀美は背中を向けたままで、そう告げた。

 彼女は歩き出し、鶴岡から離れていく。これまで協力的だった秀美が、何に対して頑なになったのか、鶴岡には分からない。

 それでももう、これ以上は彼女を追い詰めるような事はしたくなかった。だから、呼び止めはしかった。

「ありがとう」

 代わりに鶴岡は、静かにそう告げて彼女の背中を見送った。

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