(七)ノ2
「あれ、マスターどうしたのです? こんなところで」
行き交う人々の合間を縫いながら、藤井秀美が小走りに駆け寄ってきた。そして彼女は、息を軽く弾ませながら近づくや否やそう言った。僅かな距離であったはずだが、頬は上気し赤みが差していた。
「キミを待っていた」
鶴岡は素直にそう告げた。秀美の目元に一瞬だけ、喜色が浮かんだように見えた。
先日会った時に貰った名刺を頼りに、駅にほど近いこのオフィスビルの前で、鶴岡は秀美を待ち伏せた。
秀美と一緒にビルから出てきた男性も、遅れて近づいてきた。秀美よりかは年上のようだが、襟足の長さやスーツの着こなしにはまだ、若者への未練を残していそうである。
鶴岡がそちらに目線を動かすと、つられるように秀美も背後を振り返る。
「また、今度にしようか」
男はごく軽い感じで、陽気な物言いをした。しかしその不自然さは、内心の苛立ちを無理に押し隠そうとしたからだろう。
「すみません」秀美は丁寧に頭を下げた。
男は気にするなと、鷹揚に頷く。そして鶴岡に値踏みするような目を向けてきた。
ただ男は鶴岡には何も言わずに、そのまま黙って去って行った。
「まずかったかな」
鶴岡は、その男の背中を見送りながら尋ねた。
「いいんです」怜悧とも聞こえる口調だった。
「職場の上司なんですけど。しつこいんですよ。助かっちゃった」
「オレとの事を勘違いしたかもしれない」
「構いませんよ。そのほうが、今後あまり誘ってこなくなるかもしれませんし」
「そうか」鶴岡は言ってから、「少し、いいかな」と確認する。秀美は、ええ、と頷いた。
「あまり時間は取らせない。帰りながらで構わないのだが、ええっと、キミはまだ親御さんと一緒に?」
秀美が鶴岡の店をバイト先に選んだ理由の一つが、家から近いからだというのを思い出しながら尋ねた。それならここから一駅隣だ。
「いいえ」秀美は首を横にふる。
「今は一人暮らしです」
「遠いのか?」
「ええ、電車通いです。千年のほうに住んでます」
「千年? なんでまたそんな離れたところにわざわざ」
ここから四つ先の駅名を告げられ、鶴岡は意外そうに言った。
「あの、マスター」秀美は不服そうに唇を尖らせる。
「私のような若造が、どんな薄給でコキ使われているか知らないからそんな事を言えるんですよ。この辺りの家賃の相場、分かってますか? びっくりしますよ、ホントに。私なんぞに借りられるとお思いで?」
「そ、そうか」
鶴岡は、応えながらさりげなくポケットの中をまさぐった。手持ちの小銭では、電車は四つ先の駅まで運んでくれそうにない。
そんな鶴岡に目をやり、クスリと秀美は笑う。そして「さあ、いきましょう」と歩き出した。だが駅とは反対方向だ。
鶴岡が戸惑っていると、秀美は立ち止まり振り返る。
「どうかしました?」
いや、と口ごもりつつ、鶴岡は駅の方向を指さす。ああ、と秀美はまた笑みを浮かべた。
「千年までわざわざご足労させるのは心苦しいですから、一駅分歩きましょう。それでたぶん、四駅電車に乗るのと同じくらいの時間になりますよ」
「しかし、一駅と言っても歩くと結構な距離だぞ?」
「大した事ないですよ。最近運動不足気味なのでいい機会です。ああ、そうか。マスターには少々キツすぎましたか?」
鶴岡は苦笑した。そんな事はないと、ガードパイプから体を離し、秀美に追い付くと、肩を並べて歩き始めた。
「仕事のほうはどうなんだい?」
興味があるわけではなかった。そもそも秀美の仕事がどのようなものなのかすら知らない。本題に入るきっかけを掴むために、ただ尋ねただけにすぎない。
「どうなんでしょうね」秀美は少し考えてから、「まあ、それなりに」と応えた。
「順調か?」
「どうしようもないトラブルを抱えているかとか、そういうレベルでいうのなら、順調かもしれませんね。そりゃあ、不満は一杯ありますよ。任される仕事がいつまでも雑用レベルだとか、隣の席の先輩の香水がもう、食欲も失せるくらいに強烈だとか、さっきの上司みたいにこっちが断り辛い立場なのを分かっていてしつこく誘ってきたりとか、そういうのは上げればキリが無いくらいですが」
「そいつは、すまなかった」
「どうして、マスターが謝るのです?」
怪訝そうに横目を向けてくる。
「いや、オレも以前、キミたちスタッフを色々と誘っていたものだから、断りにくかったのかな、と」
アハッと秀美は短く笑った。
「あの時のとは違いますよ。マスターや他の人たちとも仲良かったし。なんか職場の上司と部下というよりも、仲間って感じでしたからね、みんなが。だから大丈夫です、マスター。全然、嫌でなかったですよ」
「そうか」
「ええ」
秀美は少しだけ前に歩み出ると、体を捻って鶴岡へと顔を向け、後ろ歩きをしながら悪戯じみた笑みを浮かべてきた。
「なんか、マスターって偉そうにしなかったですもんね。ちょっと頼りない感じ」
「ああ、まあ、確かにそうだったかもな」
鶴岡が当時を思い返しながら認めると、ほら、と秀美は声を弾ませた。
「そういったところです。無駄に偉ぶらない。だから男女問わずに母性が刺激されるんですかね。周りのスタッフは、もうしっかりしてって、ぼやきながらもフォローをして。マスターはそんな空気を許容して守ってくれている。社会に出た今だから分かるのですけど、それって結構すごい事だと思います」
「いや、でも実際、頼りなかったと思うし。キミらの助けなしでは、やっていけなかったからね。そりゃあ、そういう態度にもなるさ」
「でも、私は好きでしたよ。あの感じ。もちろん、マスターの事も」
その言葉に鶴岡は、はっとして立ち止まった。数歩前で後ろ向きに歩く秀美の笑みが消え、一瞬ひどく真剣な表情に変わった。そして「ま、昔の事です。そのまま忘れておいて下さい、あれは」
そう言って、冗談めかした笑顔になって、体ごと前へと向き直った。
かつて一度だけ、鶴岡は秀美から真剣な告白を受けた事があった。しかし、その時にはもう由布子と付き合っていた。
それもあって、秀美の気持ちには応えられなかった。
翌日から気まずい思いをするのではないのか、ひょっとしたらバイトを辞めてしまうのではないのかと気を揉んだが、秀美はそれからもシフトをきちんとこなしてくれた。
「忘れて下さい」と、その時の言葉通り、少なくとも彼女のほうは、それからそういう態度をおくびにも出さなかった。
だから気が抜ける思いをしたのを覚えている。若い子の一時的な気の迷いが覚めたのだろうと、鶴岡はそう思う事で当時は納得した。




