(七)ノ1
少女が姿を見せたのは玄関先だった。差し込む光が彼女を照らした。輝いて見えた。
藤井秀美はその場に居合わせた。これは本当にただの偶然。独り療養する由布子の母親の見舞いに訪ねていたのだ。
十台半ば、あるいは前半かもしない。まだ幼さを残す少女と言っていい年頃。
長い黒髪と白い肌の美しい子だった。でも切れ目の中の瞳が憂いに沈んでいるようにも見える。
少女は『小山真奈』と名乗った。
真奈は、由布子に会いたいと言った。でも彼女はもう、二年近く前に亡くなっている。それを知らないようだった。
由布子の母親は、「ここにはいない」とだけ応えた。
真奈は、どこに行けば会えるかと食い下がった。それでも母親は、静かに首を横に振るだけだった。娘の自殺を、素性の知れぬ突然の訪問者に告げる気がないようだった。
なおも真奈は何かを訴えかけたそうに口を開いたが、結局それは飲み込んだ。
そうですか――
ただそれだけを言い、頭を下げて去っていった。
秀美はこの少女が気になった。気付いたら家を出て、小山真奈の背中を追いかけていた。
張りつめた顔だった。由布子がいないと聞いたとき、その表情はほとんど変わらなかった。
しかし明らかに落胆していた。すごく思い詰めていた。
追いついて、目的を訪ねた。真奈は応えなかった。
だが秀美も引き下がらなかった。このままこの子を帰したくなかった。どうしても気になるのだ。
だから強引に目についたカフェに連れ込んだ。そして少女とテーブルを挟んで向かい合った。
これは出過ぎた行為だと自覚はしている。それでも秀美は、由布子がすでに亡くなっているのだと告げた。
そうですか――、と少女はまた言った。そしてやはり表情は変えないままに、深く落胆していた。
やはり何かある。秀美は自分が由布子の妹だと嘘をついた。
由布子がもうこの世にいない事、そしてその身内だという嘘が、効果あったようだ。
少女の頑な心が、少しだけ綻びを見せた。
そして、ポツリ、ポツリと口数少なく話してくれた。
小山真奈は、数カ月前に起こった一家心中事件で、唯一残された子だった。地元での事件だっただけに、そのニュースは秀美も知っていた。
でも、何故? どうして姉さんを訪ねてきたの?
「光南高校の西村という教師を、知っているはずだから」
真奈の返答に秀美は驚いた。まさか、と息をのんだ。少女の口から、その名前を聞かされるとは思いもしなかった。
どうして、あの男を――。
真奈は語らなかった。だがそれでも、わざわざこうして面識もない相手を訪ねてくるぐらいだ。彼女の家族の心中に、西村が深く関わっているのだと確信した。
「このままになんて、絶対にしない」
少女は初めて強い感情を見せた。
あの男が、どのような経緯でこの少女の家族を不幸にしたのか。秀美にはその繋がりが見えてこない。
報道では、何と言っていただろうか。もう何カ月も前だ。正直、地元の事件だから少し印象に残っていただけで、その内容についてはもう記憶が薄い。
ただ、あの男の名前は出ていなかった。それは確かだ。もしその名前を耳にしたならば、秀美の中で強い衝撃とともに残るからだ。
それで、どうしたいの?
少女の言葉に不穏なものを感じて、秀美は問いかけた。真奈は黙って首を横にふった。
心の綻びをまた縫い合わせてしまったようだ。
秀美は思案した。真奈は秀美には心を開きそうにない。
しかし西村の名を口にした以上は、この少女を放っておくという選択肢が秀美にはなかった。
だってあの男が――、『彼』をあんなにしたのだから。
そして一つの考えが、浮かんだ。
付いてきて、と秀美は少女の腕を取り、観音山公園へと引っ張った。
やはりだ。今日もいた。大きなクスノキの麓で寝そべっている。
伸び放題の髪に、無精ひげ。見るたびにやつれていく。死神に魅せられている事に本人は気付いていない。
どうにかしたい。どんなにそう思っても、秀美の言葉は彼に届かない。
なんでもいい。きっかけがほしい。
真奈の家族の心中があの男のせいならば、少女は彼と同じような傷を負っている。
だからこの少女は特別だ。
少女が彼に自分の傷を見せれば。
真奈の声ならば、彼に届くのかもしれない。
あの人はね――
秀美は、真奈に教えた。彼がどういう人で、そしてどうしてあんな状態になっているのかを。
そして話しているうちに、これまで起伏の少なかった少女の表情が変化した。暗く沈んでいたはずの目が怪しく光った。
おや? と思った。
少女の目の光の中に、何か違うものを感じた。
気のせいだろうか? まさか、また、間違えたのだろうか?
そんな不安がよぎった……
*
あれから、二カ月が経つ。
小山真奈は彼に寄り添っていた。そして彼もまた、それまでの生活から変化を見せていた。先日は驚いた。彼のほうから連絡をくれたのだ。
これはいい傾向。事態は好転している。今度は間違っていない。そのはずだと自分に言い聞かせる。
なのに、どうしてだろうか?
拭いきれない不安が、常に心のガラスに薄い筋を引いて残った。
何だろう、この漠然とした嫌な感じは……
傍らの男の声が耳障りだった。
職場の上司だ。上司とはいっても、まだ三十になるかならないかの程度で、そこまで年が離れているわけでもなかった。
最近やたら馴れ馴れしく、その上にしつこかった。職場での人間関係を考慮して愛想良く振舞っていたのだが、どうやらそれが間違いだったようだ。
胸中で辟易しながら、オフィスビルの外に出た。
日は長くなり、まだ暗くはなっていなかった。市の中心部に位置し、駅から徒歩数分と近い為、表通りの人や車の往来はやたらに多い。
ふと、視線を感じた。街路樹の麓、ガードパイプに寄りかかっている男が、こちらを見ている事に気付いた。
誰だろうかと、目を凝らす。
まさか、と思った。
先ほどまで頭の中に思い浮かべていた彼が、そこにいた。
ヒゲをそり、髪も短くした彼。こうして改めて見れば、先日に面と向かって会った時とは印象が変わった。
心臓が跳ね上がる。傍らの男の存在など、どうでもいい。
考える事もなく、秀美は駆けだしていた。




