(六)ノ7
真奈は、机の一番上の引出しを開けた。そして冊子を取り出す。大きさからして手帳のようだ。それを鶴岡に差し出してきた。
読め、という事だろう。鶴岡は受けとってから、「見ても?」と一応確認した。
真奈は小さく頷いた。話が一段落ついたからか、彼女の表情は落ち着いており、完全ではないにしても普段の調子を取り戻しているようだった。
ボルドーというのか、深みのある赤茶の表紙をめくる。
白無地の頁の下隅に、「小山理沙」とやや丸みを帯びているが、丁寧な文字で書かれていた。これが姉の名前なのだと伺い知れた。
次の頁をめくるとまたも白無地で、今度は中央付近に「取材メモ」と記載されていた。
鶴岡が小首を傾げると、「お姉ちゃんは、新聞部だったのよ」と頭上から降ってきた。
「また、そんな風変わりな部活を」
「そうかな? 将来はジャーナリストになるからって大学は、えっと、社会学部? なんかそういうの選択するって言ってたし」
ジャーナリストになるのにどこの学部とかはあまり関係ないが、中学生相手にそう説く気もない。
ともかく真奈の姉は、社会学を身に付ける事にした。目指すものにどう向かって進むかを決めていた。
将来設計のしっかりと出来る、そういう子であったのだろう。
鶴岡は気を取り直して頁をめくる。
一月から始まるその手帳は、一頁で一週間分、見開きで二週間分の日付が刻まれており、一日ごとに四、五行程度の短い文章が書きこめるように欄が設けられていた。
一月には何も記述がない。二月五日の「七不思議・夕刻の神隠しの真相究明について」が最初の書き込みだ。
「七不思議って……」
「ほら、よくあるでしょ。誰もいない音楽室でピアノ演奏が始まるとか、トイレの個室から女の子のすすり泣く声が聞こえるとかさ、そういうの」
「いや、それは分かるが、なんでそんなものを調べようと。ネタに困っていたのか?」
「割りと定番じゃない? 学校の七不思議をネタにするのって。まあ、いいから先を読んで」
なんとも学生らしいと言えばその通りかもしれないが、なんだって急に真奈は、これを読めと言い出したのか。先ほどまでの話と何かしらの繋がりがあるからのはずだが、ともかく黙って読み進める事にした。
真奈の評価通り、姉の理沙は確かに真面目できっちりとした子だったようだ。短いながらも毎日のように何かしらの文章がそこにあった。
それらを読み集めると、光南高校に伝わる七不思議の一つである『夕刻の神隠し』とは、いくつかのバリエーションが存在する。その内容に随分とばらつきもあるが、ある程度の整合性を持たせつつ、彼女なりにまとめたのが次の通りだ。
放課後、二人の女子生徒が一緒に下校しようとしていた。校門を出ようとしたところで、一人が忘れ物に気付き、取ってくるから待っててと引き返した。残された女子生徒は、すぐに戻るだろうと言われたとおりにその場で待った。
ところが十分経って、二十分が過ぎても彼女は姿を見せない。
校舎の時計に目をやると、十七時五十五分。女子生徒はあと五分だけ待つ事にした。
だが結局、彼女は戻ってこなかった。女子生徒は諦めて、一人で帰宅した。
そして翌朝の教室。そこに彼女の姿はない。クラスメイトに彼女がどうしたのか知らないかと尋ねた。クラスメイトは小首を傾げてこう告げた。
「ダレ? それ」
最初はふざけているのかと思った。だが、他の生徒も同様の反応だった。朝のホームルームが始まり、出欠を取る担任教師も彼女の名前を飛ばした。机は確かにあるのに。
彼女の存在が、クラスメイトの記憶から消え去っていた。ただ一人、彼女が戻ってくるのを待っていた女子生徒を除いて……
以来、今もその女子生徒は彼女を探し彷徨う。夕刻に正門から教室へと引き返したまま戻ってこないその彼女の行方を求めて。誰か知る者はいないかと。ずっと、今、この瞬間も。
「あの子、見なかった?」
ある日突然、そう尋ねて姿を見せるという。
それが、光南高校に伝わる七不思議の一つ『夕刻の神隠し』の内容だ。
なぜ理沙が、この神隠しについて調べようとしたのか。理由も分かった。
それは、これが他の七不思議と違い、実際に起こった事が話の元になっていると実しやかな噂があったからだ。しかも、どうやらそれほど昔の事でもないらしい。
つまりきっかけは興味本位。そして彼女の中のジャーナリズムに火が点いた。
理沙が、真剣に取り組んでいたのだと分かる。
手帳に書かれたその文章の一つ一つは短いものの、夢中になれる事への熱意が伝わってきた。
まず理沙は、実際に失踪者がいて、それが光南高校の生徒ではないかと推測している。
調査を開始した当初、二月の間は地元の図書館に足繁く通っており、データ化された過去の新聞記事をパソコンで熱心に調べていた。
だが、それは三月に入る前にはぱったりとやめている。特に事件や事故にもなっていないのなら、その失踪者が新聞記事に載る事はないと気付いたようだ。
今度は卒業を控えた三年生から、大学生の先輩を紹介を受けていた。神隠しについて尋ねてみるが、概ね今に伝わっているものと違いがなかったとある。
そこでその先輩に、かなり上の卒業生に聞いてみてほしいと頼んだ。結果、その人は神隠しの話を知らなかった。
つまり理沙からみて、二十年ほど上の世代には存在しない話だと分かった。
ではいつこの話が生まれたのか。今度はもう少し下の年代の人を紹介してもらい、直接会って話を聞いている。その人も神隠しについては知らなかった。
ただ、自分たちが卒業した次の年に、学校で行方不明になった子がいて、ちょっとした騒動があったと記憶していた。その後にどうなったかは知らないそうだ。
理沙は、この行方不明の件に狙いを絞った。その世代の複数の卒業生に聞き込みをしている。
確かに光南高校の在校生で、失踪したままの子がいたようだ。
そして『夕刻の神隠し』は、その数年後から生まれているのも分かった。つまりこれが、話の起因になった可能性が高い。
四月に入ると失踪者の名前と住んでいた家の住所も判明した。『土居薫』という子がそうだった。
理沙はさっそく土居薫の家に行き、母親に話を聞いている。この行動力はやはり姉妹だ。真奈と相通じるものを感じる。
土居薫の母親は、周囲の勧めで、この時にはもう娘の死亡届を出していた。そうする事で気持ちの整理をつけたのだという。
母親の思い出話に、もらい泣きをしたと、感傷的な文章があった。
ただ、次に続いた言葉――
鶴岡は目を見開いた。
「えっ!」と声に出した。思わぬ名前が、そこにあった。
由布子だ。
なんと、理沙の手帳に、由布子の名前が記されていたのだ。
鶴岡は驚愕した。
土居薫の母親から、娘と一番仲の良かった友人として挙げられた名前。それが由布子だった。
鶴岡は顔を上げ、真奈を見た。どこを読んだか理解したのだろう。真奈が深く頷いた。
ここを見せたかったのだと、鶴岡は真奈の意図を理解した。
理沙は神隠しについて調べていた。そしてそれは、なんと由布子へとつながったのだ。
まったくもって予想外の展開。鶴岡は勢い込んで続きを目で追った。
理沙は、由布子の家にもすぐに尋ねていた。ただ、結局会えずじまいとあった。
考えてみれば当たり前だった。これは今から一年程前の事だ。その頃にはもう、彼女はこの世にはいないのだから。
会えなかったとあるだけなので、理沙は由布子がすでに亡くなっているとは思っていないようだが、結局ここで少し行き詰っているのが分かる。この頃から少しずつ、空白の日が増えはじめていた。
「真実はもう目の前なのに」と、もどかしい胸の内を短い言葉で明かしている。
由布子ついての記述を期待する鶴岡も、焦れる思いで頁を捲っていった。
理沙は学校の図書室で、土居薫の年の卒業アルバムを何度も閲覧している。そして五月に入って、ようやく新たな発見をした。ある数学教師の姿がアルバムに映っている事に気付いたのだ。
そう、西村だ。
「驚いた! 西村先生は失踪事件があった時も、ここで教鞭をとっていた!」
停滞気味の中、新たな発見に興奮したのかもしれない。文字がやけに力強く、踊っていた。
もちろんすぐに西村に取材の申し入れをしているが、タイミングが悪かったらしい。なかなか実現していない。
二週間以上もその記述ばかりが続いた。結局、その月の終わりに差し掛かり、ようやく西村と放課後に会う約束をしたとある。
だが会ったはずの日の欄には何もなく、さらにその次の日に、今度は随分と乱暴な文字で、「悔しい」とあった。
「抱きつかれた。押し倒されそうになった。触られた。気持ち悪い。絶対に許さない。学校に言ってやる。でも、たぶん、どうにもならない……。悔しい」
そう書かれてあった。そしてこれが、理沙の最後の記述だ。
おそらく会ったのは、二人きりでだったのだろう。
会いたいと執拗に言ってきた理沙に、西村は自分に気があるとでも思ったのか、悪癖が顔を覗かせた。襲ったのだ。
しかし彼女は拒絶した。そして理沙は、これを表沙汰にすると啖呵をきった。
だが頭の良い子である。同時にどうにもならないと、すでに察していた。それはその通りだろう。
二人っきりだったのだから証拠がない。ならば事を荒立てたくない学校は、西村の言い分を信じる。
それを理沙は理解していた。つまり泣き寝入りするしかないと。
この時点で、西村は何かをする必要はなくなっていた。しかし理沙が諦めている事を知らない西村は、ちょうど中間考査の期間に入っていたのを利用したのだ。
カンニング行為をでっちあげ、理沙を陥れた。
この手帳の記述を読めば、それが真実なのだと分かる。
理沙は彼女の主張通り、カンニングなどしていない。西村という卑劣な教師の姦計に嵌められただけだ。
鶴岡は深く、長い息をついた。
この手帳を両親が見る機会があれば良かったのに、と思う。
理沙が不登校になったとき、学校でカンニング行為があったと知ったとき、とにかく両親が理沙を叱る前に、この手帳を読んでさえいたなら、きっと娘の言葉を信じただろう。
一緒に学校側と戦えたかもしれない。少なくとも、家庭が壊れるような事態にはならなかった。そのはずだ。
残念だ。真奈が孤独にならずに済む道があったはずなのに――
「ツルちゃん?」
真奈が呼び掛ける。鶴岡は小さく頷いて応えた。だがこの手帳は、と鶴岡は思った。
真奈を自分の元へと連れてきてくれた。
手帳に由布子の名前があった。ただ、あった。それだけだ。
由布子の事でなにか知れるのではないか、一度は期待を膨らませただけに、多少の肩透かし感は否めない。
しかし、真奈と出会わせてくれた。繋がる事が出来た。
真奈は手帳に記載された由布子の名前だけを頼りに、こうして鶴岡の元にたどり着いてくれたのだ。
だから理沙が、手帳に由布子の名前を記載した事は、とても大きな意味がある。
この手帳がなければ、鶴岡は真奈を知らないままだった。一緒に復讐を遂げようと、手を取り合う事も出来なかった。
今のこの状況を生み出したのは理沙、彼女の導きによるものなのかもしれない。
何か、得体の知れない不思議な感覚に触れながら鶴岡は、そっと手帳を閉じた。




