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唇歯輔車  作者: akisira
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(六)ノ6

 鶴岡は先を急がせたりはせずに、彼女の感情が落ち着くのを待った。時計すらないこの部屋では、静寂に刻む秒針の音もない。

 しばらくは少女が繰り返す荒い息遣いと、時折、緩くなった鼻を啜る音だけが部屋に響いた。

 長く感じたが、それでも時間にすれば五分程度のものだろう。

 真奈は、「うん」と何とか感情を押さえつけ、小さく頷いた。それからまた、話し始めた。


「お姉ちゃんはね、部屋に籠るようになったの。たまりかねた親が小言を口にすると、暴力で返してきた。最初が良くなかったのよ。お姉ちゃんを信じなかったから。だからお姉ちゃんも親を信じなくなった。敵になった。お父さんも、お母さんもひどく後悔した。でももう遅いよね。どんなにお姉ちゃんが暴れても、ただ耐えるしかなった。ワタシは怖かった。あんなに優しかったのに……。とても怖くて。自分に累が及ばないようにって、ただ息を潜めるだけ。もう、お姉ちゃんも、親も、限界が近いのは見ていて分かった。でもワタシは!」


 言葉を詰まらせた。せっかく抑えつけた感情が、またすぐに反発したのだ。紅潮した頬がひくついている。

 その様子に、鶴岡は酷な事をさせていると心を痛めた。

 真奈の姉は両親と、心中したのだ。限界が近いという事は、次はその部分の話になるのだ。このまま真奈に続けさせていいものかと、迷いが生じてくる。

 それでもそんな鶴岡を置いていき、真奈はもう一度、感情を抑えつけた。

「そんな生活が何カ月か続いてね」と、懸命に平気そうな声で話を再開させる。


「ある晩、お姉ちゃんは寝静まった両親の寝室に忍び込んで、殴りかかったの。それまでのお姉ちゃんの暴力は、あくまで何かを言ってきたときの返答に過ぎなかった。なのにこの日、初めて自分から暴力を振るったの。それでお父さんも、お母さんも、張りつめていた糸がぷっつりと切れちゃったのね。それから何日かした朝、ワタシは家に独りだけだった。三人とも帰ってこなかった。次の日に店の車が河川敷で発見されて、車内に三人が……。なんかね、練炭自殺だってさ。その時はちょっとしたニュースになってたみたい。ツルちゃん知らない?」


 鶴岡は首を横にふった。半年程前の事なら、鶴岡もまた自閉の生活だ。テレビも新聞もネットなく、人との関わりも絶っていたので、知る由もなかった。

 そう、と真奈は言って、それから、と話を繋げる。

「警察の人が来てね、色々調べてたけど、引きこもりの娘の暴力に苦しむ両親という構図があったから、あっさりとしたもんだったよ。無理心中の動機としては充分だもん。お姉ちゃんの首には手で絞められた痕があったから、たぶんこの家で先にお姉ちゃんを――」

「もういい!」


 考えるより先に、手を伸ばしていた。鶴岡は真奈の腕をつかむと、引っ張り込んでその体を抱きしめた。

 健気さに心が苦しくなった。無理やり感情を殺しながら、懸命に話をする少女の姿が痛々しく、見ていられなくなった。

 細い体だった。華奢な子だとは知っている。だが、実際こうして腕の中で抱き止めると、これほどなのかと少なからず驚いた。

 なんて頼りなさだ。こんな子供がこれまで独りで耐えてきたのか。

 そう思うと堪らなくなった。

 鶴岡は真奈の事を知りたいと願った。真奈はそれに応えてくれた。

 そこに触れてしまえば、また心の傷が抉られる。痛みを伴うのだと分かっていながら。話してくれた。

 だから、もういい。充分だ。


 だが真奈は、鶴岡の抱擁を拒絶した。鶴岡の胸を手で押して、スッと腕の長さの分だけの距離を作った。

「大丈夫だよ。ワタシ話すって決めたから。まだ途中だってば」

 いや、と鶴岡は首を横にふった。

「分かったから。もういいんだ。お姉さんのカンニング行為を、間違って咎めたのが西村だった。そういう事だろ?」

 今度は、真奈が首を横にふる。

「違う、そうじゃあない。ただの見誤りや勘違いなら、怒りはしてもどこかで諦めもついた。こんなふうに恨んだりはしないよ」


 鶴岡は眉根を寄せた。勘違いではない? なら、どういう事か。過失ではないのなら、あとは――

「それは、まさか、つまり……」

「うん、でっちあげられたの。お姉ちゃんは西村に」

 真奈は鶴岡の腕の中からするりと抜けると、元いた机のそばに寄り、天板の上を指先でそっと撫でた。


 でっちあげたという言葉に、鶴岡は少なからず衝撃を受けた。教師が一人の生徒をわざと陥れた。真奈はそう言ったのだ。

 しかしなぜ? 当然のようにその疑問が浮かび上がってくる。

「どうして、そんな事を」

 一度はもういい、と言っておきながら、そう問わずにはいられなかった。

「先日の東野恭子ちゃんもそうだし、西村の趣味なのかな? こうなってくるとさ」

 その言葉の意味を、鶴岡はすぐに察した。

「なら、お姉さんも? 西村と、その……」

 鶴岡が言いにくく言葉を濁すと、真奈は小さく口元を吊り上げて、「違うよ」と言った。

「拒否をしたのよ。迫られて。ただ拒否しただけなら、西村もそこまでしなかったのだろうけど、お姉ちゃんは真面目でちょっと融通の利かないところがあるからね。学校側に訴えるって、そう啖呵を切ったみたい」

「ああ」と、鶴岡は思わず声を漏らした。合点がいった。

「そんな事をされれば、西村は間違いなく身の破滅だ。だから保身の為に、問題提起される前にカンニング行為をでっちあげて、お姉さんを陥れた」

「そういう事」真奈は頷いた。

「ちょうど、テスト期間中だったからね。西村は上手くそれを利用したの」

「なんという事だ」

 鶴岡は言葉を吐き捨てた。

 由布子と西村の件については、人としての倫理に反する不貞行為ではあるが、男女間の話だ。理屈や理性では押えきれない感情がそうさせたのだと分かる部分もある。だから鶴岡のこの状況は、フラれ男の哀れな逆恨みに近い。


 だが、真奈の姉にした西村の行為は、自分の保身の為に陥れるという明確な悪意があった。これは絶対に許されるものではない。

 その結果、姉は病み、両親は心が折れ、家族は崩壊した。そして真奈は独りになった。

 西村もここまで大事になるとは考えなかったのかもしれない。しかし、それでも今現在も教師を続けて、性懲りもなく生徒に手を出しているのだ。

 罪の意識をどれほど持っているのか。

 真奈の憎しみは増すばかりだろう。恨んで当然だと思った。

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