(六)ノ5
店の奥には沓脱場の土間があり、そこから流し台とガスコンロを備えた狭い居間を抜けると、薄暗く急こう配な階段が続いた。上がった先の廊下には、片側の壁に扉が二枚、奥に一枚。
「姉の部屋よ」
真奈はそう告げて、そのうちの一つを開けた。
中を見渡すと六畳ほどの広さで、元は和室だったようだ。畳に敷かれたカーペットの上に勉強机とマットレスを乗せたスチールベッド。木目柄の収納ボックスが二つ並んでいる。
その他の家具や小物類は取り去られた後のようだが、それを差し引いても、あまり女の子らしい部屋という印象はなかった。
室内へと足を踏み入れる。空気がむっといきれていた。
壁面に設けられた唯一の窓はカーテンで閉じられていたが、それでも陽光の熱をしっかりと溜めこんでいた。先ほど補充した水分が汗となり、じっとりと肌を湿らせた。
「窓、開けるね」
真奈はカーテンを寄せて、引違いのガラス窓を開放した。
吹き込んだ風が、端に寄せたカーテンの裾を遠慮がちに持ち上げる。遅れて鶴岡の頬をぬるくなでてきた。
涼しさは欠片もない。それでも、空気が動くだけまし、といった程度には効果があった。
座って、と促され、鶴岡はベッドのマットレスの上に腰を下ろした。ギシリと小さくきしむ音がした。
「ワタシの家族が、心中したのは半年ほど前の事よ」
机の天板に半分座るように体重を預けながら、真奈は語り始めた。少し、長い話になるのだな、と鶴岡は気構えした。
「お姉ちゃんはね、コウナンコーの生徒だったの。結局、やめちゃったけどね」
胸中で、なるほどと鶴岡は頷いた。真奈の姉から西村につながるようだ。
「すっごく優秀で優等生で、実直でさ。嫌味もないし、その上美人ときた」
「それはまた――。なら、自慢の姉なんだな」
「どうだろ」真奈は曖昧に首をかしげた。
「正直、ワタシがお姉ちゃんに勝てるところってないからね。劣る者としては比較対象が傍にいるのも、キツイもんよ。でもまあ、両親からすれば間違いなく自慢の娘よね」
「仲が悪いのか?」
「ううん、そんな事ないよ。優しいもん、お姉ちゃん。そりゃあ、ケンカしたりはさ、よくあるけど」
鶴岡は、小さく頷いた。真奈は姉の人となりを過去形で話さない。だから鶴岡も過去形では聞き返さなかった。
彼女の中で、姉の死が受け入れられていないのだと察したからだ。
「そんなお姉ちゃんがね、ある日から、不登校になっちゃてさ」
「不登校?」
「うん、真面目な優等生のお姉さまがよ。お父さんも、お母さんもそりゃあ戸惑うよね。理由を言わないんだもん。だから親は学校に行ったの。そして知った。カンニングがバレたみたい」
「カンニングって、テストのやつか?」
「うん、そう。中間考査のね。ともかくその事を知った親は、お姉ちゃんを叱った。していない、お姉ちゃんは懸命に訴えた。でも、学校側の話を鵜呑みにしてしまった親はその言葉を信じなかった。なじったの。お姉ちゃんが積み上げてきた努力を、そして人格を否定した。ショックだよね。それから壊れちゃったんだ。うちの家庭はさ」
突風が、ふいに部屋に入り込んだ。カーテンが大きくまくれ上がり、暴れた。
それは一流れだけだった。後に続いたのは、また元の無駄に空気を混ぜるだけの頼りない風が一つ。
なにかこの部屋主の残した思いが、真奈の言葉に反応したかのようだった。
真奈は机から体を離すと、空っぽの収納ボックスの前へと移動した。そして二つ並んだその収納ボックスを横にずらす。
背後に隠れていた壁が、姿を見せる。
壁には穴が大小と三つ開いていた。何か棒状のもので殴りつけたような、そんな穴だった。
なぜそれを鶴岡に見せたのか。その理由をすぐに理解した。
「それは、お姉さんが?」
真奈は頷く。
家庭内暴力。カンニング行為を両親に咎められ、真奈の姉は傷つき、荒れた。この部屋に小物類が一切ないのは取り去られたからではなく、すべて壊されてしまったからなのかもしれない。
「そこまでになるという事は、お姉さんはカンニングを本当にしていなかった。そんな気がするが?」
「誇り高い人よ。優秀なのは、相応の努力をしてきたから。そんなお姉ちゃんが、ズルい真似なんてするはずないよ。でも、誰もそうは思ってくれなかった。クラスメイトも先生も、親でさえも」
「カンニングをしていないのにもかかわらず、その行為を咎められ、それをきっかけに学校での居場所を失った、と。だが、たかがカンニングだ。そんな程度で不登校になるのは」
「あのさ」真奈はくるりと鶴岡の方へ向き直り、睨み付けてきた。
「ツルちゃんと違って、お姉ちゃんは真面目なの。優秀なの。そんな人が、今まで成績が良かったのも、カンニングしていたせいだって、聞こえよがしな陰口をされるようになってみなよ。それまでの頑張りを否定され、蔑まされたんだよ。耐えきれなくなったって仕方ないじゃない」
真奈の突然の剣幕に、鶴岡は唖然として押し黙った。
「ツルちゃんがコウコ―セーだったのって、いつぐらい前?」
「ん? それはもう二十――」
「だよね、そんな未熟者だった頃の事なんてもう、昔過ぎて忘れちゃってるよね。分かんない? 学校って、学生にとっては結構なウエイトを占めているのよ。生きていく社会そのものなの。お姉ちゃんはそこから急にはじき出された。居場所を失った。それがどれほどの事か。その上、お父さんと、お母さんまで、お姉ちゃんを……」
これまで、冷静に話そうと努めていたのだろう。急に高まった感情を、真奈自身も持て余した様子だ。
目の縁に貯まった涙を、流すものかと懸命に堪えていた。
真奈は嫌だったのだろう。姉を否定的に言われるのが。
やはり姉が好きなのだ。
口ではどうだろう、と言いながらも、自慢の姉だったのだ。
そんな美人で優秀な優等生が、学校でどんな評価を受けていたのか、鶴岡は想像してみた。
人気者であったかはともかく、少なくとも周囲から、注目を浴びる存在ではあろう。
ただそれは、どこか妬みや僻みを押し隠した上でのものかもしれない。そういった危うい土壌で何かに躓けば、あっと言う間に転げ落ちる。
彼女にそれが起こった。
そして彼女は学校での居場所を失った。両親までもが彼女を守らなかった。
どれほどの孤独であったか。
理解は出来なくとも、察するべきだった。なのに鶴岡は、たかがカンニング程度でと、軽く考えてしまった。
確かに真奈の言うとおりだった。子供の心を大人の物差しで安易に測ってはいけない。そんな当たり前を失念していた。
配慮に欠けた失言だった。鶴岡は反省した。
「すまなかった」鶴岡は頭をさげた。
「年を取るというのは、若い子にとって、どうにも無自覚に嫌な奴になりやすいようだ」
ううん、と真奈は首を横にふった。それで会話が途切れ、沈黙が訪れた。




