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唇歯輔車  作者: akisira
34/58

(六)ノ5

 店の奥には沓脱場の土間があり、そこから流し台とガスコンロを備えた狭い居間を抜けると、薄暗く急こう配な階段が続いた。上がった先の廊下には、片側の壁に扉が二枚、奥に一枚。

「姉の部屋よ」

 真奈はそう告げて、そのうちの一つを開けた。


 中を見渡すと六畳ほどの広さで、元は和室だったようだ。畳に敷かれたカーペットの上に勉強机とマットレスを乗せたスチールベッド。木目柄の収納ボックスが二つ並んでいる。

 その他の家具や小物類は取り去られた後のようだが、それを差し引いても、あまり女の子らしい部屋という印象はなかった。


 室内へと足を踏み入れる。空気がむっといきれていた。

 壁面に設けられた唯一の窓はカーテンで閉じられていたが、それでも陽光の熱をしっかりと溜めこんでいた。先ほど補充した水分が汗となり、じっとりと肌を湿らせた。


「窓、開けるね」

 真奈はカーテンを寄せて、引違いのガラス窓を開放した。

 吹き込んだ風が、端に寄せたカーテンの裾を遠慮がちに持ち上げる。遅れて鶴岡の頬をぬるくなでてきた。

 涼しさは欠片もない。それでも、空気が動くだけまし、といった程度には効果があった。

 座って、と促され、鶴岡はベッドのマットレスの上に腰を下ろした。ギシリと小さくきしむ音がした。


「ワタシの家族が、心中したのは半年ほど前の事よ」

 机の天板に半分座るように体重を預けながら、真奈は語り始めた。少し、長い話になるのだな、と鶴岡は気構えした。

「お姉ちゃんはね、コウナンコーの生徒だったの。結局、やめちゃったけどね」

 胸中で、なるほどと鶴岡は頷いた。真奈の姉から西村につながるようだ。

「すっごく優秀で優等生で、実直でさ。嫌味もないし、その上美人ときた」

「それはまた――。なら、自慢の姉なんだな」

「どうだろ」真奈は曖昧に首をかしげた。

「正直、ワタシがお姉ちゃんに勝てるところってないからね。劣る者としては比較対象が傍にいるのも、キツイもんよ。でもまあ、両親からすれば間違いなく自慢の娘よね」

「仲が悪いのか?」

「ううん、そんな事ないよ。優しいもん、お姉ちゃん。そりゃあ、ケンカしたりはさ、よくあるけど」

 鶴岡は、小さく頷いた。真奈は姉の人となりを過去形で話さない。だから鶴岡も過去形では聞き返さなかった。

 彼女の中で、姉の死が受け入れられていないのだと察したからだ。


「そんなお姉ちゃんがね、ある日から、不登校になっちゃてさ」

「不登校?」

「うん、真面目な優等生のお姉さまがよ。お父さんも、お母さんもそりゃあ戸惑うよね。理由を言わないんだもん。だから親は学校に行ったの。そして知った。カンニングがバレたみたい」

「カンニングって、テストのやつか?」

「うん、そう。中間考査のね。ともかくその事を知った親は、お姉ちゃんを叱った。していない、お姉ちゃんは懸命に訴えた。でも、学校側の話を鵜呑みにしてしまった親はその言葉を信じなかった。なじったの。お姉ちゃんが積み上げてきた努力を、そして人格を否定した。ショックだよね。それから壊れちゃったんだ。うちの家庭はさ」


 突風が、ふいに部屋に入り込んだ。カーテンが大きくまくれ上がり、暴れた。

 それは一流れだけだった。後に続いたのは、また元の無駄に空気を混ぜるだけの頼りない風が一つ。

 なにかこの部屋主の残した思いが、真奈の言葉に反応したかのようだった。


 真奈は机から体を離すと、空っぽの収納ボックスの前へと移動した。そして二つ並んだその収納ボックスを横にずらす。

 背後に隠れていた壁が、姿を見せる。

 壁には穴が大小と三つ開いていた。何か棒状のもので殴りつけたような、そんな穴だった。

 なぜそれを鶴岡に見せたのか。その理由をすぐに理解した。


「それは、お姉さんが?」

 真奈は頷く。

 家庭内暴力。カンニング行為を両親に咎められ、真奈の姉は傷つき、荒れた。この部屋に小物類が一切ないのは取り去られたからではなく、すべて壊されてしまったからなのかもしれない。

「そこまでになるという事は、お姉さんはカンニングを本当にしていなかった。そんな気がするが?」

「誇り高い人よ。優秀なのは、相応の努力をしてきたから。そんなお姉ちゃんが、ズルい真似なんてするはずないよ。でも、誰もそうは思ってくれなかった。クラスメイトも先生も、親でさえも」

「カンニングをしていないのにもかかわらず、その行為を咎められ、それをきっかけに学校での居場所を失った、と。だが、たかがカンニングだ。そんな程度で不登校になるのは」

「あのさ」真奈はくるりと鶴岡の方へ向き直り、睨み付けてきた。

「ツルちゃんと違って、お姉ちゃんは真面目なの。優秀なの。そんな人が、今まで成績が良かったのも、カンニングしていたせいだって、聞こえよがしな陰口をされるようになってみなよ。それまでの頑張りを否定され、蔑まされたんだよ。耐えきれなくなったって仕方ないじゃない」

 真奈の突然の剣幕に、鶴岡は唖然として押し黙った。

「ツルちゃんがコウコ―セーだったのって、いつぐらい前?」

「ん? それはもう二十――」

「だよね、そんな未熟者だった頃の事なんてもう、昔過ぎて忘れちゃってるよね。分かんない? 学校って、学生にとっては結構なウエイトを占めているのよ。生きていく社会そのものなの。お姉ちゃんはそこから急にはじき出された。居場所を失った。それがどれほどの事か。その上、お父さんと、お母さんまで、お姉ちゃんを……」


 これまで、冷静に話そうと努めていたのだろう。急に高まった感情を、真奈自身も持て余した様子だ。

 目の縁に貯まった涙を、流すものかと懸命に堪えていた。

 真奈は嫌だったのだろう。姉を否定的に言われるのが。

 やはり姉が好きなのだ。

 口ではどうだろう、と言いながらも、自慢の姉だったのだ。

 そんな美人で優秀な優等生が、学校でどんな評価を受けていたのか、鶴岡は想像してみた。


 人気者であったかはともかく、少なくとも周囲から、注目を浴びる存在ではあろう。

 ただそれは、どこか妬みや僻みを押し隠した上でのものかもしれない。そういった危うい土壌で何かに躓けば、あっと言う間に転げ落ちる。

 彼女にそれが起こった。

 そして彼女は学校での居場所を失った。両親までもが彼女を守らなかった。

 どれほどの孤独であったか。

 理解は出来なくとも、察するべきだった。なのに鶴岡は、たかがカンニング程度でと、軽く考えてしまった。

 確かに真奈の言うとおりだった。子供の心を大人の物差しで安易に測ってはいけない。そんな当たり前を失念していた。

 配慮に欠けた失言だった。鶴岡は反省した。


「すまなかった」鶴岡は頭をさげた。

「年を取るというのは、若い子にとって、どうにも無自覚に嫌な奴になりやすいようだ」

 ううん、と真奈は首を横にふった。それで会話が途切れ、沈黙が訪れた。

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