(六)ノ3
玄関の上に設けられた庇は、それはもう申し訳程度の小さなものであった。それでも引き戸を背に立つ鶴岡の体を、午後の容赦ない日差しから辛うじて守ってくれていた。
ここは細い路地に面した一つの建物の前だった。店舗兼用の住宅で、もう随分と年季が入っている。
駅の裏手にあたる北口から歩いて五分ほどの距離だが、この辺りはまだ、再開発の手が及んでいなかった。
路地を挟んで両側は、古めいた建物が前庭もなく、そして隣との隙間もないに等しく犇めきあっている。それぞれの建物の間口は狭く、京町家などで見られる『うなぎの寝床』と俗称されるもののように奥へと長細い。
もっともあちらは紅殻格子に虫籠窓と、その街並みに風情を見せてくれるが、今、目に映るものは飾り気はなく、ただ古いだけだ。
ひび割れたモルタルの外壁。窓下に設けられた花台は錆びて変色しており、元がどんな色かも伺え知れない。
一帯が同時期に建てられたものなのか、どれも似たり寄ったりの面構えで、同じような具合で痛んで草臥れていた。
鶴岡は、朝からここにいた。辛抱強く待った。
駅前とは比べ物にならないほどひと気は少ないが、それでも時折、近所らしき人が不審そうな目を向けて通り過ぎていく。最初は笑みを携えながら会釈していたが、やがてそれも面倒になった。
立っているのもしんどくなり、その場にしゃがみ込んだ。日差しは時間の経過とともに角度を変えていく。
ついに庇は役に立たなくなった。刺すように強い熱気が体の奥へと犯していく。
「中年には堪えるな」
年齢を重ねる毎に、熱さに弱くなっていく気がする。夏はまだ先のはずだが、今年もまた猛暑を予感させ、ウンザリとした気分になった。
時刻は、そろそろ昼下がりといったところか。ただじっとしているだけなのに、体力は少しずつ確実に削られていく。
そして人の気配がした。誰かが鶴岡の目の前に立つ。足元の姿だけで若い女性と分かる。鶴岡は顔を上げた。
ようやく待ち人来たるだ。
真奈が、盛大にため息をついた。
*
鶴岡は、カウンターの木製椅子に腰を掛けた。店内は奥行があるせいか、間口の狭さから想像していたよりかは広く思えた。
古さはあるが、安っぽさはない。木をふんだんに用いた和の様相は、経年経過で趣のある空間となっていた。
引き戸の脇には、腰下高の電飾看板が控えている。営業時に路上に出す為のもので『小料理こやま』とレタリングさせていた。真奈の姓が『小山』である事を連想させた。
使い込まれた白木のカウンターは、L字型で十脚程の椅子が並べられてあり、畳敷きの小上り席が四つ、壁に沿って設けられている。三十人ほどは集客出来そうだ。
鶴岡のかつての店より倍の大きさとなるが、ここしばらくは営業をしていない様子だ。少し埃ぽかった。
ただ空気が淀んでいないので、人の出入りがあるのは伺い知れる。
「それでそっちはどうだったんだ? 西村と会ったのか?」
鶴岡は、小上り席の縁に腰を落とす真奈に尋ねた。
「うん、まあ、一応ね。話はした」
「そうか」鶴岡は頷く。
「それで、どうだ?」
「ん?」
「いや直接会って、何か思う所はあったのか?」
「どうかな」曖昧に首をかしげた。
「ちょっと、まだ、実感はない気がする」
ねえ、と真奈は立ち上がった。
ん? と聞き返す。
「いや、何か飲む?」
言いたい言葉を飲み込む真奈に、大丈夫だ、と断りかけて思いとどまり「水を一杯もらえるか?」と頼んだ。
日差しに長時間晒されたので、体内の水分が随分と失われていた。
真奈は、了解と、カウンターの内側の厨房に入り、業務用冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して手渡してくれた。
受け取ったその容器は、よく冷えていた。水道水をグラスに注いでもらえればそれで充分だったのだが、せっかくなので素直に甘える事にした。
キャップを捻り開けて一口飲むと、やはり乾いていたのであろう、下ろし立てのタオルのごとく体が水を吸い込み、あっという間に五百ミリリットルを飲み干した。
その様子に真奈は、もう一本いる? と申し出てくれたが、それには、首を横にふり、空になった容器をカウンター越しに真奈に返す。
「なに? それ」真奈の表情が、少し鋭くなった。
「その手」
容器を渡す時に手のひらが見えたのだろう。鶴岡は、ああ、と言って、広げた手を真奈の顔の前に突き出す。
080ーで始まるその数字の並びを見て、何を意味をするものかはすぐに理解したようだ。
「スケコマシ!」不愉快そうに眉根を寄せて、空の容器を乱暴にゴミ箱へと投げつける。
「足止めだけで良かったのに。なに調子に乗ってデートの約束までしてんのよ」
「そんなんじゃないぞ。断じて。向こうが勝手に書いただけだ。なぜかは知らんが」
「ほーん、それはそれは」ジト、と冷めた目。
「おモテになる事で」
「キミほどじゃあないよ」
真奈はフンと鼻を鳴らし、厨房からフロアに戻ってくると、また先ほどと同じ小上り席の縁に腰を下ろした。
やけに絡んでくるのは、東野恭子との事を嫉妬したからではないだろう。単純に苛立っているだけだ。
この場所で、真奈を待ち伏せていたから。
鶴岡は少し踏み込んでみる事にした。
「今もまだ、ここで暮らしているのか」
「まあ半分は、そう、かな」
一瞬、虚を突かれたような表情を浮かべた真奈だったが、すぐに気を取り直してそう応えた。
「半分?」
「うん、ワタシ、親戚の家に居候中なの。別にシンデレラみたいに苛められているとか、そんなんじゃあないよ。むしろすごく気を使ってくれる。ただそれがね、微妙に余所者感というか、なんか居場所がない感じがしてさ」
「だから、居付けずに家出娘になっているという事か」
「向こうもね、最初は心配して探してくれたりしていたの。でもまあ、大抵の行先がここだったから。落ち着くまでは無理に連れ帰るのもどうかとか、あっちもさ、どう接したらいいのやら、探り探りなんだろうね」
「そうか」鶴岡は納得した。
中学生の少女が、何故あまり家に帰らずに好き勝手しているのか、その理由がここにあった。
「ねえ、ツルちゃん」
真奈は、意を決したように言った。
「なんだ?」
「よく、分かったね。ここ」
ようやくその言葉を口にした。まっさきに問いたかった事だろう。
「驚いちゃったよ」と、真奈は薄い笑みで、口元を引きつらせた。
「その制服さ」
タネを明かすと、真奈は自分の体に目を落とした。それは桜花中学のものらしい。ある学生から聞いて、鶴岡は初めて知った。
「今朝、駅前でボーとしてたら、真奈と同じ恰好をした学生がそこかしこに通り過ぎて行った。見かける度に、かたっぱなしに声を掛けたよ」
「通報されなかったの?」
「そうされなかっただけ、ましだったな。だが六組目まではけんもほろろだ。無視されたり、走って逃げたり、露骨に胡散臭そうな目を向ける子もいたな」
「まあ今のご時世、それは当然だと思うよ」
「六組目に逃げられて、心が折れかけたとき、男の子がね、向こうから遠慮がちに話しかけてきてくれたんだ。『真奈』という名前が耳に入ったようだ。その子はキミの事を知っていて、教えてくれた。おかげである程度は分かってきた。知っているかい? 制服というのはどこのだれべえかを、主張して歩いているようなものなんだ」
以前に、東野恭子の後をつけていた時の彼女の言葉をそのまま引用した。真奈も気付いたようで、あきれたような笑みを漏らした。
「でもワタシ、借り物って言ったはずだけどな」
「確かに言った。だが、似合っていた。少なくとも光南高校の制服よりかはね。だからひょっとしたらと思ったんだ」
真奈は真っ直ぐに鶴岡を見つめた。鶴岡も見つめ返す。
大きな瞳。白い肌。真っ直ぐに長い黒髪。
美しい子だと改めて思った。
斜めに下ろした両足の膝を揃え、その上に両手を重ねて背筋をぴんと伸ばしている。その姿勢の良さが、整った顔の造作と相まって、さらに美しさを際立ださせていた。
「案外」真奈は、息を抜きながら言った。
「見てくれているのね。間が抜けていそうなのに、カンが働くっていうのか」
「これでも、キミよりかはやたら長く生きているんだ。多少は見る目も養われているさ」
「参りました」
真奈は軽く両手を上げて、降参のポーズをとって見せた。
「それで、ワタシの事を知る、おせっかいな告げ口くんはなんて言ったの?」
「告げ口くんはヒドイな」鶴岡は顔をしかめた。
「彼は本気で心配しているようだったぞ。ロクに学校に行っていないのだろう? 彼からオレに声を掛けたのも、何かキミの近況が聞けるかもと思ったからのようだし。とにかく、随分と気にしていた。実は恋心を抱いているのかもしれないね。身に覚えは?」
真奈は宙を見ながら顎に手を添えて、うーん、と悩みだした。
「どいつだろう?」と、ボソリとつぶやく。心当たりがありすぎるようだ。
ただ茶化す気にはなれない。その男の子は小柄で色は白く、丸みを帯びた輪郭は朝の陽光に産毛が透けるようだった。中学生らしく幼い。
その男の子と同級生だというのなら、目の前の少女は大人びていたし、綺麗だった。
もちろん、四十男の鶴岡から見れば、真奈も子供でしかない。
だが同じ年頃の男子ならどうだろうか? 魅力的で、そして好意を抱いてもなんら不思議は無いと思えた。
「まあ、そんな事よりもさ」真奈は視線を鶴岡に戻した。
「つまり、ワタシの家族の事も聞いたんだよね? 無駄に惚れてる、その哀れな子羊から」
整った顔に、小さな笑みを浮かべていた。しかしその表情には、あきらかな無理があった。
鶴岡は神妙な思いで、ゆっくりと頷く。
「ご家族は心中したと」
無理な笑みのまま、真奈は目を閉じた。




