(六)ノ1
ようやくだった。闇も明けきらぬ朝のコーヒーハウス。この日、西村がついに姿を見せた。
席を横切られる瞬間、真奈はミルクティーに口をつけて無関心を装った。そばに鶴岡はいない。それが、こんなにも寄る辺ない思いをさせるとは。
ただ、作業を分担しようと提案したのは真奈のほうだった。
鶴岡は早朝から西村の家の前での張り込み、そして尾行だ。西村の行動パターンの把握に努めている。
同じ時間、真奈は一人でこのコーヒーハウスで待ち伏せた。四日目、週末を挟んでいるので前回からいえば六日ぶりとなる。
殺害の決行はこの時間帯に決めていた。せっかくひと目がほとんどない時に、のこのこと出てきてくれるのだ。このタイミングを逃す手はなかった。
周期的には週に一度程度、月に四、五回ほど、東野恭子とこうして会っているのだろうか?
そうだとすれば、チャンスはそれなりにありそうだった。
その西村が席についた。前回と同じ場所だ。真奈はカップをソーサーの上に置いた。
半分ほど残ったミルクティーの、白濁色の液体が微かに波打つ。その揺らぎを見つめながら、昨夜の鶴岡との話を思い返した。
どうやって殺すか――。それはまだ決めかねている。ただ、ともかく西村の殺害をこの時間帯に決行したとする。
まずは東野恭子。彼女は待ちぼうけを食う形となる。
ただ彼女は、西村がこの店に来ないのは、単に都合が悪くなったからだと、最初はそう考えるだろう。
その後に異変に気付いたとしても、教師との不倫という後ろ暗さから、積極的に騒ぎ立てたりはしないはずだ。
次は学校の同僚教師たちと、西村の妻。遅刻すれば家に連絡がいく。
西村の妻は学校の用事で早朝出勤しているものとばかり思っていたはずだから、さすがにこれはおかしいとなる。
それでも、いきなり警察に届け出るとは考えにくい。まずは自分たちで心当たりを探す。夜になっても帰ってこなければ警察に行くか。
つまり、稼げる時間はその日の夜まで。だから真奈たちは、それまでに西村の体を隠ぺいして、『失踪者』にしてしまうつもりだ。
警察が捜査するとなると、まずは早朝出勤と嘘をついていたこの時間帯に、西村は何をしていたかを調べるはずである。
西村と東野恭子の関係を警察が掴み、この店で落ち合っていた事が判明すれば、真奈たちが捜査対象に入る危険があった。
店には防犯カメラが設置されている。そこには同時刻の利用客として真奈や鶴岡の姿も映っているからだ。
ただ、それについてはあまり心配する必要はない、と鶴岡は言った。
警察がそこまで捜査するのは、西村の失踪が事件だと断定された場合に限るからだと。
そして、その可能性は低い。
理由は行方不明者の人数だ。促されてスマートフォンで調べてみたら、驚いた事に、この国では年間十万件近い行方不明者の届け出があるらしい。これだけの数を一つ一つ丁寧に調べられるはずもなく、その為に、行方不明者届は受理された後に二つに分類されるとあった。
一つは『特異家出人』だ。これは子供や俳諧老人など、自らの意思による失踪とは考えにくい者であったり、状況的に事故や事件に巻き込まれた可能性が高いと判断されるとそうなる。
この場合は、かなり本格的な捜索が迅速に行われる。
だが、それはごく一部だ。
それ以外のほとんどが『一般家出人』として扱われる。こちらに分類されると、実質的な捜索は行われないと言って良かった。
巡回や交通取締りの際に“偶然”見つかればといった程度のものだ。
では西村の場合は特異か一般か、どちらに分類されるだろうか。
早朝出勤と自らが嘘をついて家を出たままの成人男性――
考えるまでもない。
つまり失踪者が失踪し続ける限りにおいては、自分たちの身の安全は、保障されたも同然だ。
だから、大丈夫だ。
真奈は自身に言い聞かせた。
ミルクティーの残りを一気に飲み干した。そして、静かに一つ息をつく。
いよいよだ。これでもう、後戻りは出来なくなる。
――行こう。
真奈は伝票を握り、席を立った。
静かな足取りで近づき、断りもなく西村と同じテーブルの向かいの椅子に腰を下ろす。
雑誌に落としていた男の視線が向けられる。切れ長の神経質そうな目。
真奈はテーブルに頬杖をついて、ニッコリと笑って見せた。
「オハヨ。おじさん、朝早いね」
目が泳ぎ、すぐにまた真奈へと戻る。
「キミは?」
「さあ? 誰でしょう?」
恍けてみせると、なぜか西村は勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「桜花中学だね。その制服は」
へえ、と真奈は大げさに目を見開いて、体を後ろに反らした。そして今度は逆に、テーブルに体を預けるように前のめりに西村へと顔を近づけて、声を潜めた。
「おじさん、よく知っているね。ひょっとしてマニア?」
「馬鹿を言え。職業柄さ」
「職業って、まさかおまわりさん? え、先生?」
後者だ、と西村が頷く。真奈はヤバっと表情をしかめながら姿勢を戻して距離を取り直した。
もちろん、演技だ。その演技が上手くいったのか、西村はふっと笑う。
「心配しなくていいよ。キミの学校の教師ではないし、他校の生徒が何時にどこに出入りしていようが、それを諌めるほど熱心でもない」
「そう、それは良かった」真奈が表情を緩めようとすると、ただ、とそれを遮ってくる。
「すまないが、席を外してもらえないか?」
「待ち合わせ?」
知っていて聞く。西村は一瞬、逡巡してから小さく頷く。
仕掛けるならここだ。真奈は不敵な笑みを浮かべた。
「それってさ、髪をボブにした子? ワタシよりかは少しお姉さん、かな」
西村は目を見開いた。声をあげなかったのは大人としての自制心か。それでも浮かべた表情は、十分に驚愕と言えた。てきめんの効果だ。
「ワタシもさ、この店よく使っているからね。人って無関心そうでも、実は意外と見てたりするものよ」
「キミは」西村の目が、鋭く刺してくる。
怖い、と思った。だが怯む様子をおくびも出すわけにはいかない。テーブルの上で両肘をつき、組んだ手の甲に顎を乗せる。
「ねえ」と、目を細める。
「ワタシにいくら払う?」
「何を、言っているんだ」
「ちょっと見ただけでこんな事を言うのは、その子に悪いけどさ。負けているとは思えないんだよね、ワタシ」
向かいあった男は真意を探ろうと厳しい目を向けてきた。真奈は内心の恐怖と戦い、あくまでも悠然と取り繕う。
さて、どう返してくるか。怒りだすかもしれない。教師と言う立場から、補導すると言い出す可能性もある。
ただ真奈には目算があった。西村とて、この場で目立ちたくはないだろう。だから事を荒立てるような真似は避るはずだ。
厳しかった西村の表情。それが変化した。声に出さずに、ああ、と言った。
それは記憶が何かと繋がったという感じだった。
違和感を覚えた。
なぜ、このタイミングでそんな表情になったのか。
そして西村の態度が落ち着いた。すっと、テーブルの中央付近に手を伸ばす。指を二本立てた。二万円、という事だ。
「いいよ」真奈は承諾した。
経験がないので相場を知らない。二万円は中学生からみれば大金だが、自分の体の値段として果たして妥当なのか分からない。
ただともかく、ここまではほぼ筋書き通りだった。
「出ようか」
西村は雑誌をたたむと、カバンに仕舞い込む。そして椅子を引いて立ち上がった。
一刻も早くこの場を立ち去りたい、東野恭子との鉢合せを避けたい思いが見え見えだ。
しかし真奈は構わない。この場から動こうとはしなかった。
西村が、どうした? という目を向けてくる。
「ごめん、今日はダメだった。いま、思い出した」
「駄目?」
「うん、ダメ」
「どういう事だ」
「月のものが……。だから、ちょっとね」
西村は肩で息をして、落胆して見せる。そして浮かした腰を再び元の椅子の上に落とした。
「何をいまさら」
「うん、ごめん。じゃあ今度、ね。それまでガマンして」
「今度? またここで声をかけてくるつもりか?」
西村は、さりげなく辺りの様子を伺いながら、声を潜める。明らかに迷惑そうだった。
少ないとはいえ、客の出入りはある。それに店員ももちろんいる。こんなところで、中学の制服を着た女子とこそこそと話している姿を、たびたび見られるのは確かに好ましくないだろう。
「だったらケイタイ、教えてよ」
「すまないが、それは出来ない。理由は、分かるだろ?」
まあ、そうね、と頷いて見せた。
「じゃあ、どうやって連絡とろうか?」
「キミの番号を教えてくれ。記憶する」
「覚えられる?」
「こう見えて、普段生徒には数学を教えているんだ。数字を覚えるのは得意だ。こっちから連絡する。公衆電話からかかってきたら、僕だと思ってくれ。それでどうだ?」
なるほど、と思った。自分にも相手にも一切の証拠を残さない、そういうやり方だ。
「悪い先生だね」
躊躇いはあるが、ここで西村と切れるわけにはいかない。真奈は自分の番号を口にした。
「じゃあ、連絡まってるよ」
立ち上り、自分の分の伝票を指でつまんでヒラつかせ「これ、お願いしていい?」と小首を傾げる。
「手付金としてさ」
西村は苦笑交じりに頷く。
「ありがと、ごちそうさま」
伝票をテーブルの上に置き、その場を後する。振り向かずとも西村の視線を背中に感じた。
店を出て辺りを伺う。まだ薄暗い世界。人の気配はなかった。
東野恭子の姿は見えてこない。鶴岡が担ったもう一つの役割も、どうやら上手くいった様子だ。
ほう、と息を吐き、その場にしゃがみ込んだ。緊張からようやく解放された。立てた両ひざを抱きかかえ顔を埋める。
初めて西村の顔を正面から見据えた。初めて西村の声を聞いた。ようやくあの男を、生身の存在として自分の心に刻む事が出来た。
あの男を殺す。西村を殺す。鶴岡の為ではない。己の恨みを晴らす為に。
顔を上げてもう一度、辺りを見渡す。やはり鶴岡の姿はない。
会いたい気持ちと、会いたくない気持ち。その二つが心の占有権を巡って争っている。後ろめたさが後押しして、今は会いたくないが有利な展開か。
誘惑しないという約束を破った。一度きりという約束も最初から守るつもりがなかった。
会うべきではない、と彼は言った。一度は承諾したのに、今朝も諫めてきた。
真奈が傷つく。そんな気がするのだと。彼はそればかりを心配していた。
「ワタシは、嘘つきなんだよ」
本人には面と向かっては言えない言葉。こんな自分を、あんなにも気にかけてくれる。そんな値打ちなどありはしないのに。
そう思うと、なんだか、泣けてきた。




