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唇歯輔車  作者: akisira
3/58

(一)ノ3

 雨は上がっていた。

 アパートの二階に設けられた外廊下。鶴岡はドアシリンダーに差し込んだキーを捻りながら空を仰ぎ見た。

 濃色の青いパノラマが広がり、厚ぼったい積雲がまばらに浮かんでいた。

 これを紺碧の空と呼ぶにはいささか力不足か。夏が舞台袖で緊張しながら出番を待っている。そんな気配の空だった。


 視線を落とせば対照的に、アパートは影に潜んで仄暗い。

 積年の埃と雨垂れで汚れた外壁に、赤錆を覗かせる廊下脇の手摺。そしてその手摺から剥がれ落ちたペンキが、制服の肩に振り落ちるフケのように、モルタルの床を散らかす。

 鮮やかな空の下にあっても構う事なく、鬱々たる姿がそこにあった。


 ただ、そんな陰気な場景も、鶴岡にとっては常態化した日常でしかなかった。

 そこに感傷はなく、淡々とした様子でドアノブを回し引いて施錠を確認した。

 キーを握った手を、チノパンのポケットに突っ込みながら廊下を渡る。そしてそのまま続く鉄骨階段を下りきった。

 すぐに狭い生活道路へと出る。


 昨夜の雨は、明け方近くまで続いたようだった。住宅ばかりが立ち並ぶ景色は濡れており、大気は澄明ながらも雨の匂いを濃く残していた。

 黒く染められたアスファルト。鶴岡は所々に張られた水たまりを避けながらその道を歩き、そしてまた空を見上げた。

 夏には気が早く、まだ午前中だ。それでも陽はすでに強い。風はなく、湿り気を多分に含んだ空気が蒸されて不快だった。

 鶴岡はささやかな涼を求めて、開襟シャツの胸元をつまむ。ばたばたと風を取り込んでみるが、その効果は微々たるものだった。


 そうしながら鶴岡は、二十分ほど歩いた。国道沿いの本屋へと入る。

 店内の中央フロアーは空間が広く設けられ、太い柱を囲うようにソファーが円形に並べられている。そのいくつかに利用客が腰かけていた。

 皆が思い思いにくつろいだ様子で、売り物のであるはずの本や雑誌を広げている。

 それは最初こそ驚いた光景であったが、今ではもう見慣れていた。

 店内の本は、フィルム包装されたものなどの一部を除けば、自由に読む事が出来た。売り場の至る所に置かれた椅子やソファーはその為のものである。

 鶴岡の認識では、立ち読みは煙たがられる行為であったはずだが、時代が変わったのだろう。

 どうやら近頃は、このような営業スタイルの店が増えているようだった。


 そして鶴岡が本屋に通う目的も、この店における度数分布の最頻値であろう、立ち読みである。

 海外作家の書籍が並ぶエリアに入ると、そこは誰もいなかった。大抵がそうで、他の利用客とこの場で遭遇するのは稀であった。

 鶴岡は迷う事なく棚から一冊の本を選び出し、通路脇に置かれてある椅子に腰を下ろした。

 一昨日に記憶しておいた頁を開き、前回からの続きを読み始める。


 それはイギリスの女流作家の著書で、戦時中のロンドンを舞台にしたオムニバス形式の物語だった。

 兵役から逃れる為にわざと罪を犯し、獄中生活を送る少年や、久しぶりの休暇に家族の元へと帰省する青年兵士。それとドイツ軍の空襲の度にけが人の元へとはせ参じる救急隊員。

 そんな彼らの物語を、短い章ごとに区切りながら時系列に紡いでいく。

 中盤に差し掛かり、始めは完全に別々だった登場人物たちが、少しずつ同じ舞台に立ち絡み始めていた。そこがとても面白い。

 何気なく手に取った一冊ではあったが、鶴岡にとって当りの作品だった。


 この章の主人公は緊急隊員の若者だ。彼の性格は初登場時からは変質している。

 真面目で仕事熱心。一人でも多くのけが人を、一秒でも早く病院に送り届けようと、使命感に燃えていた。

 だが長引く戦争が、彼に多くの命の終わりを見せてきた。

 特にこの年は、『ザ・ブリッツ』と呼ばれる事となる八カ月間にも及ぶ大空襲の真っただ中で、ロンドンの街にも爆弾の雨が連日注がれた。死者の数だけで数万、被災者は百万を優に超える。

 手はいくらあっても足りず、一人一人に丁寧に構っていては際限がなかった。救えたはずの命が手遅れになっては意味がない。

 助けられる命と、そうでない命。見込みがないと判断したら、あっさりとその命を見捨てる。彼はそんな合理的すぎる考えを持つ人物となっていた。


 やがて彼を罵る者も出てくる。ある女性は「人でなし」と、石を投げつけてきた。

 女性の命は彼が救ったものだった。瓦礫の下敷きになっていたところを、わが身の危険も顧みずに助け出した。

 それにも係わらず、である。

 女性は救助される間「娘を先に」と、何度も懇願した。

 だが彼は、それを無視した。一瞥しただけで、救助を試みようともしなかった。

 娘は十歳くらいだった。息はまだあったが、腰から下がつぶれていた。

 どうせ死ぬ。すぐに決めつけ、無慈悲にそう伝えた。そして泣き叫ぶ女性を無理やり娘から引き放した。

 だからその女性は彼を憎んだ。


 ある日の夜に入った救難要請。その住所を聞いて彼は戦慄した。恋人の家がある地域だったのだ。

 身を守るため、普段から夜は地下鉄で過ごす者も多くいたが、彼女とその家族はそうはしていなかった。寝静まったであろう深夜の襲撃。警報に気付けず逃げ遅れたかも知れない。

 彼は無事を祈りながら車を走らせた。

 到着して、そして見た光景に腰が砕けた。

 あるはずの建物がそこに無かった。闇に溶けて消えてしまったかのようだった。

 辺り一面に広がるのは瓦礫の山ばかり。

 それでも彼は僅かな希望に縋り、必死にその瓦礫を漁った。

 そして二人の被災者を発見する。恋人の両親だった。二人とも重傷で、意識も弱く非常に危険な状態だった。

 だが助かる命だ。急いで処置さえすれば――

 しかし彼は躊躇した。さりげなく周囲の様子を伺う。同僚達にはまだ気付かれていない。

 だから見なかった事にした。取り除いた瓦礫を、そっと元に戻して隠した。この二人の救助の為に割かれてしまう人手と時間を惜しんだ。

 まだ見つかっていないのだ。彼らよりずっと優先したい命。まだ探し当てられていない恋人。

 ただひたすらに、その姿を求めた。


 章はそこで区切られた。鶴岡も一息ついた。息をついた事で現実に戻った。

 もう少し読み進めようかと迷い、試しに続きを目で追ってみる。しかし駄目だった。文字が上滑りして頭の中に入ってこない。

 どうやら読み疲れたらしい。読書の習慣が元々なかったからか、長く読み続けるのは苦手だった。

 焦って読み進める必要はない。時間だけはたっぷりとあるのだ。鶴岡は本を棚の元の位置に戻すと、その場を離れた。


 フロアーの中央付近に立ち、レジカウンターの背面の壁掛け時計に目をやる。

 もう少しだけ、ここに居たい気持ちもあった。金も職も持たない四十男は、ただ時間を持て余して本屋に通っているにすぎない。

 だがいつしか体が冷えていた。店内の空調は適度ではあるが、長くあたり続けると堪えてくる。これも年齢からくるものなのだろうか。

 外は不快なだけの天気と知りながらも、何故だか恋しい。鶴岡は早朝のトカゲのように、日を浴びて体を温めたくなっていた。


 出るか――

 鶴岡はそう決めて、出口へと向かおうとした。と、後ろから手首を掴まれた。

 そしてその腕が、ぐいと引っ張られる。反射的に力のかかったほうへ振り向いた。

 下へと向けた視線が、切れ目の中の大きな瞳とぶつかった。

 少女と形容するのが正しいのだろう。年頃は十代半ばと思しく、幼さを残しながらも整った顔立ちをしていた。

「助けて」その少女が訴えてきた。

「ん?」

 鶴岡は気付いて、少女の背後へと目を向けた。


 高校生のようだ。制服を着崩し、髪を派手な色に染めた男子が三人。それぞれの恰好の差異は些細なもので見分けが難しく、それは性能の悪い機械でコピーしたかのように似通っていた。

「なあ、どういう事だよ?」

 三人のうちの一人が少女に向けて不満を口にした。彼らの様子に攻撃性はなく、むしろ戸惑っているように見えた。

 少女に視線を戻す。すると、おびえた表情を浮かべてみせた。思い出したかのように、造ったものだった。


 鶴岡は小さく息をつくと、握ってきた少女の腕を緩くつかみ、ゆっくりとほどいた。

 そして何も言わずに、くるりと背を向けて、出口へと向かった。

 双方の様子を見るに、どうやら少女が一方的に絡まれていたわけではなさそうだ。認識にちょっとした行き違いがあったのだろう。

 ならば大人の出る幕ではない。若者同士で話し合い、その認識のズレを修正すれば済む事だ。

 要するにさわらぬ神に祟りなしである。

 鶴岡は巻き込まれるのは御免と、その場から離れる事にした。

 途端に、臀部に強烈な衝撃が走った。


「はうっ!」

 思わず情けない声がこぼれた。体が伸びあがり、反動で腰が落ちて、片膝をついた。

 そっと後ろを振り返り、仰ぎ見る。

 腰に手をやり、仁王立ち姿で少女が見下ろしていた。

「助けてよ」

 先ほどと同じセリフだが、声色に凄みが加わっている。そして妙に板についたシニカルな笑みを浮かべていた。

 どうやら応以外の返答を、受け付けるつもりはないらしい。

 鶴岡はもう一度息をついた。諦めて立上り、痛みの残る尻をさすった。そして胸中で思った。

 それだけ強烈な蹴りをお持ちなら助けなんか必要ないのでは? と。

「外に、出ようか?」

 明らかに戸惑いの色を強くした三人に鶴岡はそう提案した。

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