(一)ノ3
雨は上がっていた。
アパートの二階に設けられた外廊下。鶴岡はドアシリンダーに差し込んだキーを捻りながら空を仰ぎ見た。
濃色の青いパノラマが広がり、厚ぼったい積雲がまばらに浮かんでいた。
これを紺碧の空と呼ぶにはいささか力不足か。夏が舞台袖で緊張しながら出番を待っている。そんな気配の空だった。
視線を落とせば対照的に、アパートは影に潜んで仄暗い。
積年の埃と雨垂れで汚れた外壁に、赤錆を覗かせる廊下脇の手摺。そしてその手摺から剥がれ落ちたペンキが、制服の肩に振り落ちるフケのように、モルタルの床を散らかす。
鮮やかな空の下にあっても構う事なく、鬱々たる姿がそこにあった。
ただ、そんな陰気な場景も、鶴岡にとっては常態化した日常でしかなかった。
そこに感傷はなく、淡々とした様子でドアノブを回し引いて施錠を確認した。
キーを握った手を、チノパンのポケットに突っ込みながら廊下を渡る。そしてそのまま続く鉄骨階段を下りきった。
すぐに狭い生活道路へと出る。
昨夜の雨は、明け方近くまで続いたようだった。住宅ばかりが立ち並ぶ景色は濡れており、大気は澄明ながらも雨の匂いを濃く残していた。
黒く染められたアスファルト。鶴岡は所々に張られた水たまりを避けながらその道を歩き、そしてまた空を見上げた。
夏には気が早く、まだ午前中だ。それでも陽はすでに強い。風はなく、湿り気を多分に含んだ空気が蒸されて不快だった。
鶴岡はささやかな涼を求めて、開襟シャツの胸元をつまむ。ばたばたと風を取り込んでみるが、その効果は微々たるものだった。
そうしながら鶴岡は、二十分ほど歩いた。国道沿いの本屋へと入る。
店内の中央フロアーは空間が広く設けられ、太い柱を囲うようにソファーが円形に並べられている。そのいくつかに利用客が腰かけていた。
皆が思い思いにくつろいだ様子で、売り物のであるはずの本や雑誌を広げている。
それは最初こそ驚いた光景であったが、今ではもう見慣れていた。
店内の本は、フィルム包装されたものなどの一部を除けば、自由に読む事が出来た。売り場の至る所に置かれた椅子やソファーはその為のものである。
鶴岡の認識では、立ち読みは煙たがられる行為であったはずだが、時代が変わったのだろう。
どうやら近頃は、このような営業スタイルの店が増えているようだった。
そして鶴岡が本屋に通う目的も、この店における度数分布の最頻値であろう、立ち読みである。
海外作家の書籍が並ぶエリアに入ると、そこは誰もいなかった。大抵がそうで、他の利用客とこの場で遭遇するのは稀であった。
鶴岡は迷う事なく棚から一冊の本を選び出し、通路脇に置かれてある椅子に腰を下ろした。
一昨日に記憶しておいた頁を開き、前回からの続きを読み始める。
それはイギリスの女流作家の著書で、戦時中のロンドンを舞台にしたオムニバス形式の物語だった。
兵役から逃れる為にわざと罪を犯し、獄中生活を送る少年や、久しぶりの休暇に家族の元へと帰省する青年兵士。それとドイツ軍の空襲の度にけが人の元へとはせ参じる救急隊員。
そんな彼らの物語を、短い章ごとに区切りながら時系列に紡いでいく。
中盤に差し掛かり、始めは完全に別々だった登場人物たちが、少しずつ同じ舞台に立ち絡み始めていた。そこがとても面白い。
何気なく手に取った一冊ではあったが、鶴岡にとって当りの作品だった。
この章の主人公は緊急隊員の若者だ。彼の性格は初登場時からは変質している。
真面目で仕事熱心。一人でも多くのけが人を、一秒でも早く病院に送り届けようと、使命感に燃えていた。
だが長引く戦争が、彼に多くの命の終わりを見せてきた。
特にこの年は、『ザ・ブリッツ』と呼ばれる事となる八カ月間にも及ぶ大空襲の真っただ中で、ロンドンの街にも爆弾の雨が連日注がれた。死者の数だけで数万、被災者は百万を優に超える。
手はいくらあっても足りず、一人一人に丁寧に構っていては際限がなかった。救えたはずの命が手遅れになっては意味がない。
助けられる命と、そうでない命。見込みがないと判断したら、あっさりとその命を見捨てる。彼はそんな合理的すぎる考えを持つ人物となっていた。
やがて彼を罵る者も出てくる。ある女性は「人でなし」と、石を投げつけてきた。
女性の命は彼が救ったものだった。瓦礫の下敷きになっていたところを、わが身の危険も顧みずに助け出した。
それにも係わらず、である。
女性は救助される間「娘を先に」と、何度も懇願した。
だが彼は、それを無視した。一瞥しただけで、救助を試みようともしなかった。
娘は十歳くらいだった。息はまだあったが、腰から下がつぶれていた。
どうせ死ぬ。すぐに決めつけ、無慈悲にそう伝えた。そして泣き叫ぶ女性を無理やり娘から引き放した。
だからその女性は彼を憎んだ。
ある日の夜に入った救難要請。その住所を聞いて彼は戦慄した。恋人の家がある地域だったのだ。
身を守るため、普段から夜は地下鉄で過ごす者も多くいたが、彼女とその家族はそうはしていなかった。寝静まったであろう深夜の襲撃。警報に気付けず逃げ遅れたかも知れない。
彼は無事を祈りながら車を走らせた。
到着して、そして見た光景に腰が砕けた。
あるはずの建物がそこに無かった。闇に溶けて消えてしまったかのようだった。
辺り一面に広がるのは瓦礫の山ばかり。
それでも彼は僅かな希望に縋り、必死にその瓦礫を漁った。
そして二人の被災者を発見する。恋人の両親だった。二人とも重傷で、意識も弱く非常に危険な状態だった。
だが助かる命だ。急いで処置さえすれば――
しかし彼は躊躇した。さりげなく周囲の様子を伺う。同僚達にはまだ気付かれていない。
だから見なかった事にした。取り除いた瓦礫を、そっと元に戻して隠した。この二人の救助の為に割かれてしまう人手と時間を惜しんだ。
まだ見つかっていないのだ。彼らよりずっと優先したい命。まだ探し当てられていない恋人。
ただひたすらに、その姿を求めた。
章はそこで区切られた。鶴岡も一息ついた。息をついた事で現実に戻った。
もう少し読み進めようかと迷い、試しに続きを目で追ってみる。しかし駄目だった。文字が上滑りして頭の中に入ってこない。
どうやら読み疲れたらしい。読書の習慣が元々なかったからか、長く読み続けるのは苦手だった。
焦って読み進める必要はない。時間だけはたっぷりとあるのだ。鶴岡は本を棚の元の位置に戻すと、その場を離れた。
フロアーの中央付近に立ち、レジカウンターの背面の壁掛け時計に目をやる。
もう少しだけ、ここに居たい気持ちもあった。金も職も持たない四十男は、ただ時間を持て余して本屋に通っているにすぎない。
だがいつしか体が冷えていた。店内の空調は適度ではあるが、長くあたり続けると堪えてくる。これも年齢からくるものなのだろうか。
外は不快なだけの天気と知りながらも、何故だか恋しい。鶴岡は早朝のトカゲのように、日を浴びて体を温めたくなっていた。
出るか――
鶴岡はそう決めて、出口へと向かおうとした。と、後ろから手首を掴まれた。
そしてその腕が、ぐいと引っ張られる。反射的に力のかかったほうへ振り向いた。
下へと向けた視線が、切れ目の中の大きな瞳とぶつかった。
少女と形容するのが正しいのだろう。年頃は十代半ばと思しく、幼さを残しながらも整った顔立ちをしていた。
「助けて」その少女が訴えてきた。
「ん?」
鶴岡は気付いて、少女の背後へと目を向けた。
高校生のようだ。制服を着崩し、髪を派手な色に染めた男子が三人。それぞれの恰好の差異は些細なもので見分けが難しく、それは性能の悪い機械でコピーしたかのように似通っていた。
「なあ、どういう事だよ?」
三人のうちの一人が少女に向けて不満を口にした。彼らの様子に攻撃性はなく、むしろ戸惑っているように見えた。
少女に視線を戻す。すると、おびえた表情を浮かべてみせた。思い出したかのように、造ったものだった。
鶴岡は小さく息をつくと、握ってきた少女の腕を緩くつかみ、ゆっくりとほどいた。
そして何も言わずに、くるりと背を向けて、出口へと向かった。
双方の様子を見るに、どうやら少女が一方的に絡まれていたわけではなさそうだ。認識にちょっとした行き違いがあったのだろう。
ならば大人の出る幕ではない。若者同士で話し合い、その認識のズレを修正すれば済む事だ。
要するにさわらぬ神に祟りなしである。
鶴岡は巻き込まれるのは御免と、その場から離れる事にした。
途端に、臀部に強烈な衝撃が走った。
「はうっ!」
思わず情けない声がこぼれた。体が伸びあがり、反動で腰が落ちて、片膝をついた。
そっと後ろを振り返り、仰ぎ見る。
腰に手をやり、仁王立ち姿で少女が見下ろしていた。
「助けてよ」
先ほどと同じセリフだが、声色に凄みが加わっている。そして妙に板についたシニカルな笑みを浮かべていた。
どうやら応以外の返答を、受け付けるつもりはないらしい。
鶴岡はもう一度息をついた。諦めて立上り、痛みの残る尻をさすった。そして胸中で思った。
それだけ強烈な蹴りをお持ちなら助けなんか必要ないのでは? と。
「外に、出ようか?」
明らかに戸惑いの色を強くした三人に鶴岡はそう提案した。




