(五)ノ4
そして一通り、髪を切り終えたらしい。真奈はおもむろに立ち上がった。
少し距離を取ると、鶴岡の周りを衛星軌道のようにぐるりと回り、あらゆる角度から観察を始めた。若い子に、じっくりと値踏みされるのは、どうにもすわりが悪く落ち着かない。
うーん、と難しい表情を浮かべながら首をかしげる様子に、燻っていた不安が増幅される。
「どうなんだ?」恐る恐る尋ねてみる。
「ビートルズみたい」
「おーい」
「冗談よ。でも揃えすぎたかなあ。もうちょっと、なんか、こう、ざっくりした感じにしたいよね」
十台の少女にしては例えが古い。どうやら真奈も、イメージ通りの仕上がりにならなかったようだ。
彼女は流し台に行くと、またタオルを濡らし直して戻ってきた。
そして再び鶴岡の背後で膝立になると、髪を乱暴に拭いて湿らせた。
「もう少し優しくしてくれ。年代物で壊れやすいんだ」
首の力を抜いて、されるがままにしてみた。頭が右に左へと大きく振れる。
アハハと、真奈は声を上げて笑った。笑いながら、さらに乱暴になる。基本、この少女にはサドっ気がある。
それでも、髪を櫛で梳くときは意外と丁寧だ。今度は先ほどよりかは慎重な様子で、はさみを入れていく。
「まあ、思ったほどライバルの情報は集められなかったけど、とりあえずはいいかな」
「ライバル?」
「うん、考えたんだけどさ。ワタシ、西村センセと会ってみようかと思って」
意外な言葉に、鶴岡は思わず振り返った。
「どういう事だ?」
固い口調で聞き返す。強い視線で睨み付けたが、その反応を予想していたのだろう。真奈は悠然とした笑みで見返してきた。
「動くんじゃあないの」
ほら、前向いて、と両手で鶴岡の頭を挟んで向き直させる。そして髪を手で撫でながら整えて、また散髪を続ける。
「誘惑してみようかなって。あのセンセ、ロリコンみたいだし。いけそうな気しない?」
「ばかな事を」
鶴岡はすぐに真奈の意図を理解した。
この少女は大胆不敵に見えて実は慎重だ。決して玉砕覚悟で突撃を敢行する無鉄砲な兵士ではない。
西村に関する情報を得たいのだ。西村の悪癖。自分の生徒に手を出すような男だ。近づくチャンスはいくらでもありそうと、そう考えたのだろう。
「反対?」
「当たり前だ」
リスクがありすぎた。警察には捕まりたくない。そう言ったのは真奈のほうで、それを前提とするのならば、西村の周りに自分たちの存在を極力排除しておくのが絶対である。
「まあ、そうだよね」真奈は苦笑した。そして「うん、分かった」と言った。
「誘惑するのは、やめる」
「するのは?」
思いのほかあっさり引き下がったのと、その限定的な物言いが引っかかった。
「うん、後ろはいい感じになった」
真奈は鶴岡の後ろ髪を櫛で整えながら、納得の声を上げた。続けて鶴岡の横側に移動して髪を引っ張り、長さを確認する。
「一度だけ」
「まだ言うか。ダメだ」
「お願い」
案外、真剣な口調だった。目的は情報ではないのか。鶴岡は見えたつもりの彼女の真意が分からなくなった。
「どうして、そんなに会いたがる?」
鶴岡の裸の肩にかけた彼女の手に、一瞬力が入る。
「人を殺すのよ」真奈は静かにそう言った。
「もちろん、分かっている」
うん、と真奈は頷いて、でも、と続けた。
「ワタシは本当は分かっていないのかもしれない。物を壊すわけじゃあない。命を奪う。この手で。それがまだ、どうしても実感にならない。だから自覚したいの。西村と会って、これからこの男を殺すんだっていう。その自覚が」
いつもの冗談めかした口調はなく、少女は切実だった。
覚悟を決めたい。
そういう事なのだろう。
最初はどこか、絵空事のように思っていた。それが西村という男を実際に目にし、人を殺すという行為が、いよいよ現実味を帯びてきた。
プログラムで形成されたキャラクターを撃ったら消える、ゲームの世界ではない。
人を殺す。誰かの人生を自分の手で終わらせる。その覚悟。
では、自分は?
己の心に問いかけてみる。覚悟は決まっているのか?
殺すつもりだ。
つもり?
本当にそんなもので覚悟と言えるのか?
死んだ恋人への思いに浸っていたから、だからそう言っているに過ぎないのではないのか?
分からない――
そんな自分に、覚悟を決めようとしている少女を妨げる権利があるのか?
浅く、息をついた。
「手口は、考えているのか?」
鶴岡は考えがまとまらぬまま、しぶしぶ言った。
「いいの?」
「一度、だけだ。約束だ」
うん、と真奈は頷く。再び鶴岡の背後に移動して、両横の髪を引っ張った。左右の長さのバランスを確認しているようだ。
「ねえ、ツルちゃん」と言った真奈の口調は、先ほどの真剣さなどマジシャンの手の中のコインのように消えて、いつもの調子に戻っていた。
「ワタシに襲いかかってきてよ」
またこの子は突拍子もない事を。鶴岡がウンザリとした表情を浮かべると、「西村センセの目の前でね」と付け加えてきた。
一瞬、考えてから、なるほど、と鶴岡は理解した。
「教師として、人としての倫理観が勝つか、はたまたロリコンのスケベ心が勝つか、どっちにしても助けようとするはずよ」
「西村を正義のヒーローに仕立て上げて、それをきっかけにするつもりか」
「そういう事」
「真奈がオレに対して仕組んだみたいに?」
「何よそれ」
間髪入れずに鋭い声が返ってきた。それからすぐに、バカね、と苦笑を交じえる。
「ツルちゃんに助けてもらったときは、ホントに絡まれていたのよ」
「そうか」
「そうよ」
動揺の色は殆ど見せなかった。だが、何の気もなく言ったそれが、口にしてみて真実なのだと、鶴岡は気付いた。
「はい、おしまい」
真奈は鶴岡のむき出しの背中をパチンと叩いた。
「シャワー浴びて流してきて。ここ、ワタシが片付けておくから」
「へいへい」
鶴岡はのっそりと立ち上がり、水に濡れた犬のように乱暴に頭を振った。
「もう! ぶるぶるしないの。散らばるでしょうに」
中学生に叱られて、背中を丸めながら逃げるように浴室に入る。
鶴岡は着ているものすべてを脱ぎ、シャワーの蛇口をひねった。
頭から真水を浴びる。意識が鋭く冴えてきた。不明瞭だった部分が洗い流され、そこに一つの事実が残った。
真奈が鶴岡に声をかけたのは偶然ではない。偶然を装って近づいてきた。その事実が。
何の為に?
答えにはすぐに行き着いた。
西村を殺す。その為だ。それしかなかった。
下調べをして、まずは情報を持ちたがる性格。真奈は予め鶴岡を調べていたのだ。
そして唆せば、鶴岡が西村を殺す為の共犯者になりうる立場にあると知った。だから近づいてきたのだ。
真奈は、覚悟を決めたいと、そう言った。あの真剣さ、鶴岡の為?
いや、違う。
もちろん、憶測にすぎない。
だがそれはもう、鶴岡の中では確信だった。




