(五)ノ3
メロンパンを食べ終えると、真奈ボストンバックの中を漁りだした。
タオルを一枚取り出し、流し台の水に浸して軽く絞る。それから座卓を部屋の端へと寄せた。
そして、どこから持ってきたものなのか新聞紙を畳の上へと広げる。部屋の真ん中に二畳分ほど、数枚重ねで敷かれた。
「うん、こんなもんかな」
「で、一体、何をするつもりなんだ?」
しばらく黙って様子を見ていた鶴岡は訝りながら尋ねる。人の部屋で何を勝手に、という感情はもはや湧き上がってこなかった。
真奈はくるりと顔を向け、ニヤリと笑った。嫌な予感しかしない。
「脱いで」近づきながら真奈は言う。
「は?」
「いいから」
焦れた声になった真奈が腕を伸ばし、鶴岡のシャツのボタンを外しにかかる。
「ちょっ、おまえ、こら」
「ええい、ジタバタしない。おとなしくせい。大丈夫、痛くしないから」
「ま、待て!」
鶴岡は腕を振りほどき、素早く距離を取った。
「どういうつもりだ」
「髪を切るのよ」真奈は細い腰に手を添えて応えた。
「かみ?」
「そう、髪。鬱陶しいもん。その長いの。だから切ってあげようと思って」
「だったら、ちゃんとそう言えよ」
当然の抗議に、いやあ、と悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。それで理解した。要は鶴岡の反応で遊んでいたわけだ。
髪を切ると決めた彼女に抵抗するのも面倒なので、鶴岡は観念して素直に従う事にした。
開襟シャツを脱いで、上半身だけ裸になった。広げられた新聞紙の上で胡坐を組む。
「失礼しまーす」
作った声色は美容師のつもりなのだろう。背後で膝立になった真奈は、濡らしたタオルで鶴岡の頭を擦って全体を湿らせた。
それから櫛で丁寧に髪を梳かすと、文房具用のはさみで、大した迷いも見せずにいきなり切り始める。
「まあ、あまり短くはしないでおいてあげるよ。素人だしさ」
その割にはバッサリと切られた髪の束が新聞紙の上に落ちる。鶴岡はそれを横目で見ながら、「それでどうだったんだ?」と尋ねた。
「ん、なにが?」
「いや、ただ家に帰っていただけではないのだろ? 調べたのか、あの子の事」
ああ、うん、まあね、と真奈の歯切れが悪い。
「どうした?」
「いや、確かに調べには行ったんだよね。またコウナンコーの制服着てさ。でも、大した成果は得られなくて」
「校内で彼女を見つけられなかったのか?」
「ううん、いたいた。でも、授業時間に校内ウロついてたら、先生に見つかっちゃって」
「先生?」
「うん、最悪。ゴリラみたいにごっついおっちゃんなの。学年と名前言えって、詰め寄られたのよ」
「それで、逃げ出したと」
「はい、面目ない」
真奈のその言い方が可笑しく、鶴岡は小さく笑った。と、後ろ髪が乱暴に引っぱられる。
「ツルちゃんの髪って、結構柔らかいよね」
「そうか?」
「うん、それに無駄に綺麗。どうせ手入れなんかしないくせに」
憎ったらしい、くそう、という言葉と共に、ザクリと髪の束が切られる音が耳元を震わす。
続けて、この、この、という言葉とザクッ、ザクッ、と刃が入る音。
何やら、妙な感情を込められている。まともな仕上がりになるのだろうか? 不安になってきた。
「まあ、そんなわけでさ」と、真奈は話を本題に戻す。
「分かったのは名前だけね。ヒガシノキョウコっていうらしいよ、彼女」
「キョウコちゃん、か」
「うん、字はこうね」
真奈はそう言って、鶴岡の裸の背中をはさみの刃先でなぞる。刃物のひやりとした感触を辿ると、『東野恭子』だと分かった。
「なるほど」と鶴岡は頷く。
「また、男をひっかけて聞き出したのか?」
「まあね」と、真奈はあっさり認めた。
「見た感じ三年かなって思って、休憩時間にかたっぱなしに教室を覗いていったのよ。そしたら五組だったかな、いたわ。彼女。だから入り口傍にいた男子に声をかけたってわけ。あの先輩の事を聞きたいんですけどって。顎を引いて上目づかいで。ちょろいもんよ。可愛く生まれてホント良かったわ、うん」
「大したもんだよ、キミのそのクソ度胸だけは」
「ホントはもっと聞きたかったんだけど、チャイムが鳴っちゃってさ。しょうがないから次の休憩に改めてと思って、それまでどうしようかとウロついていたときに」
「ゴリラに遭遇した、と」
「そういう事です」
真奈ははさみの取っ手部分で自分の頭をコリコリと擦りながら、「でも、まあ」と続けた。
「ちょっと見ただけの印象だけど、クラスでそんなに目立つタイプではなさそうかな? 独りでポツンって席についてたし。聞いた男子も、え、アイツの事って、意外そうな表情になったしね。わりと孤立気味なのかも」
ふーん、と鶴岡は呟き、コーヒーハウスで見た彼女の顔を思い返した。
美人とは言い難いが、醜女でもない。ただ、顔の造作は関係なく人好きするタイプではなさそうだ。
とくにヘの字に歪めた口元が、なんだか不機嫌そうだった。人を寄せ付けない雰囲気が東野恭子にはあった。
ただ、もしクラスで孤立気味だとしても、本人はそれを気にするだろうか? していないだろうなと、思った。
教師との不倫関係。その秘密は、自分が精神的に大人びていると錯覚させるものだろう。
「でも、まあ」と、鶴岡は言った。
「彼女のほうは、クラスメイトがガキに見えてどうでもいいって思っていそうだけどな」
「かもね」
後ろ髪は切り終えたのか、真奈は鶴岡の正面へと移動してきた。
前髪を引っ張りながら、長さを確認する。思いのほか顔が近くになり、鶴岡は思わず目を閉じた。
「引っ張ると顎下より長いよ。どのくらいにするかな」
「鼻の頭くらいでいいんじゃないか?」
「長すぎない?」
「いいんだよ。長いほうが好きなんだ」
おーおー、と真奈が囃すように唇をすぼめた。
「色気づきよってからに。一丁前に」
「あのなあ」
「ほら、動かない。眼球突き刺すよ」
「怖いな」
鶴岡は背筋を真っ直ぐに姿勢を正す。フフン、と真奈が鼻を鳴らした。
少女は、鼻歌を交えながら、軽妙に迷いなく髪を切り落としていった。




