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唇歯輔車  作者: akisira
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(五)ノ2

 本屋を後にしたが、やはりすることが思いつかない。鶴岡は結局、観音山公園の、いつものクスノキの麓で、芝の上に寝そべった。

 何かが、おかしかった。

 時間が過ぎ去る。それをただ見送るだけの生活。いままでそうしてきたはずだ。

 なのに、同じ事をしようとしているだけなのに、何故だか時間を上手く消化出来ない。


 鶴岡は目を閉じた。徹夜明けなのだから眠くないはずがない。しかしどうしても睡魔がやってこない。

 その理由に、鶴岡は気付いていた。

 あの子だ。鶴岡の閉じこもっていた殻を突き破り、遠慮なく入り込んできた中学生の女の子。

 最初、鶴岡はそれを鬱陶しく思い、今も戸惑いは消えていない。それでも受け入れている。

 真奈が傍にいるのを。

 だから少女が、今どうしているのかが気になった。

 光南高校に潜入している最中だろうと、予想はつく。鶴岡の報告を待たずに勝手にそうしたのは不満だが、それも登校の時間帯を逃したくなかったからだと、気付いて納得した。


 いつ、戻ってくるのだろうか?

 昼食代を置いて行くぐらいだ。少なくとも夕刻以降になりそうだ。

 鶴岡はため息を鼻から抜いた。それまで、まだたっぷりと時間が残っているからだ。

 無理にでも他の事を考えようと、先ほどまで読んでいた本の内容を、反芻してみる。


 あの本の前半部分は、戦時中の殺伐とした中、それでも懸命に生きようとする者たちの物語だった。

 彼らは皆、弱い立場で翻弄されつつも真っ直ぐで強く、とても純粋で美しかった。

 だが中盤から後半に向けて、様相が変わってきている。

 ある女性は、母親を見殺しにした恋人に愛憎を抱き、居場所を失った青年は家族を恨み始める。そしてその弟は、目に映るものすべてを唾棄した。


 鶴岡が真奈と出会ってから、物語の中の人物が急激に変質し始めている。

 まるで、西村に対して心を濁らせる鶴岡に呼応するかのように。

 もちろんこれは、こじつけだ。

 物語の中の、『憎む』や『復讐』といった言葉に敏感になりすぎて、勝手に共時性を抱こうとしているだけだ。

 理屈では理解している。

 しかし感情の部分で、作り物の登場人物に過ぎない彼らに、強い思い入れを抱くようになっていた。

 本の中でしか存在しない架空の者たち。これからどうなっていくのだろうか。どのような結末を迎えるのか。

 鶴岡はそこに今の自分を重ねて、今までとは少し違った意味で、その続きを読みたくなっていた。


 ただどうやら、今の鶴岡は眠れそうになかった。諦めて起き上がると、アパートに戻る事にした。

 ここで時間を潰すよりも、部屋で真奈の帰りを待つ方がマシに思えたのだ。

 鶴岡は途中で、コンビニに寄った。メロンパンがあった。

 初めて真奈に会った時に貰ったものと同じ包装だった。それを一つ手に取り、少し考えてからもう一つ。

 レジの脇で目についた携帯灰皿と、それからフリーペーパーの就職情報誌にも手を伸ばした。


 部屋に戻る。少しばかりの期待を込めて玄関ドアを開けたが、やはり無人だった。

 小さな落胆をため息で誤魔化し、中に入る。

 閑散として、空気が滞っていた。

 座卓の上に就職情報誌を広げ、頁をめくる。鶴岡の年齢で、未経験の業種には抵抗があった。

 そうなってくると飲食関係だろうか。調理の経験ならある。自分で店を持つ前は洋食屋の料理人だった。


 だがそれも十年近くも前の話だ。その後はパスタを中心とした所謂カフェ飯で、レパートリーは決して多くない。そしてここ二年は、包丁もフライパンすらも握っていなかった。

 今の状態の知識や技術では、もはや料理人と呼ぶにはあまりにも心もとない。

 そんな中年を雇いたいだろうか。字面を眺めながら思いを巡らせ、鶴岡の心は憂鬱に沈んでいた。

 働きたい、と思ったわけではない。だが、このままでは駄目なのだと感じている。

 中学生の女の子に食事の世話になるのは、やはり惨めだった。


 最後の頁をめくり終えると、ため息をついて畳の上で仰向けに寝転がった。後ろ頭の位置で手を組んで枕代わりにし、木目がプリントされた天井を眺める。

 時間が流れるのを、ひたすらに待った。時おり、横目でチラリと玄関ドアへ視線を移す。

 ガチャリと開かないかと期待する自分がいる。 帰りの遅い子供を待つ、親の心境に似ているのかもしれない。

 だが誰かの親になった経験はないが、それでもそれとは少し違うようだ。

 本当に親子なら、親の権限として大いに心配が出来るが、鶴岡はあいにく真奈に対してそんな立場にない。

 その為、自分の感情を抑制させる必要があった。それが余計にやきもきとしたものを増幅させている。そんな気がした。

 目を閉じた。眠くはないが、それでも眠ろうと思った。あきれ顔の真奈に起こされる事を期待して。


   *


 朝になった。昨夕に一度、目を覚ましたが、真奈は帰ってきておらず、それから短い睡眠と覚醒を繰り返しながら、そのまま朝を迎えていた。

 のっそりと起き上がり、流し台の上の引違い窓をそろりと開く。外廊下には誰もいない。アパートが面した細い路地にも人の姿はなかった。

 とりあえずシャワーを浴びた。浴び終えると煙草を吸い、昨日の就職情報誌を読み返しながら時間をやり過ごした。


 昼も過ぎたころ、さすがに空腹感が強くなった。一昨日の夜から何も食べていない。メロンパンの包みを開けた。端の方を千切り、口に運ぶ。

 公園で食べた時と同じ味がした。だが、あの時ほどの感動はない。こんなものだっただろうか。何故だか味気なさを感じる。

 座卓の上に置いたままのメモに目をやる。これを食べ終えたら公衆電話からかけてみようかなどと思っていると、何の前触れもなく、突然玄関のドアが開いた。


「ただいまあ」

 にぎやかな声が響いた。真奈だ。遠慮なく部屋に入ってくる。鶴岡は停滞していた空気がにわかに動き出すのを感じた。

「よう」

 鶴岡は真奈のほうに一瞬だけ目を向け、ぶっきらぼうに言った。

 複雑な思いがあった。ようやく帰ってきた事を単純に喜び、特に変わった様子がなさそうなので安堵した。

 だが、丸一日音沙汰がなかったのには腹が立った。そしてそれを咎める権利を持っていない自分に苛立った。それらの感情のどれを一番前に出して迎えればいいのかが、咄嗟には分からなかった。


「どうしたのさ?」

 真奈は部屋の入口あたりで立ち止まり、怪訝そうに尋ねる。

「なにが、だ?」

「機嫌、悪そう。あ、寂しかった?」

「ばかをいえ」

 真奈の茶化した物言いに、鶴岡は思わず苦笑し、それと同時に小さなわだかまりのようなものを吐き出せた気がした。

「どうしてたんだ?」

 鶴岡は気を取り直し、真奈に顔を向けて尋ねる。

 ん? と真奈は肩に掛けていたボストンバックを手に持ち、軽く掲げて見せた。

「着替えを取りにね。あと、たまには顔を見せとかないと、さ」

「ああ」鶴岡は納得した。


 家出少女とはいえ、ずっと出っ放しというわけにはいかないようだ。たまにふらっと家に帰って親を安心させる。

 元気でさえあればいい。そんな親も世の中には多くはなくとも、しかし確実に存在するのだ。

 おそらく真奈の家もそのような感じなのだろう。


 真奈の視線が動かない。鶴岡は自分の手元が注視されているのだと気付いた。正確には手に持つメロンパンに。

「昼飯、食ったのか?」

 んーん、と真奈は首を横にふる。

「食ってない」

 鶴岡は座卓の上に置かれたコンビニの袋からもう一つのメロンパンを取り出すと、真奈に向かって放物線を描くように投げる。真奈はそれを両手でキャッチした。

「飯だ。食え」

「ツルちゃん、パン一個で足りるの?」

「同じものを二つ続けて食べようとは思わんさ。それはもともと真奈の分だ」

「なるほどね」鶴岡の口癖を真似て、真奈は薄く笑う。

「待っててくれたんだ。帰ってくるのを」

「ここに居座らせろと脅してきたのはどこのどいつだ?」

 はて、誰だろうね? と真奈は恍けてから陽気に笑う。そして、カバンを畳の上へと下ろすと、鶴岡の隣で座卓に向かい腰を下ろした。

 包みを破り開け、メロンパンに勢いよくかぶりつく。

「美味い」

 口の中をもごもごさせながら感想をもらした。鶴岡も倣って、かぶりついた。先ほどと同じ味がする。

 しかしもう、味気なさは感じなかった。

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