(四)ノ6
店を出て、すぐに横断歩道を渡った。
向かいの店は、テイクアウト専用の弁当屋だった。開店前で、人の気配はなさそうだ。
鶴岡と真奈はその店の塀の内側に入り、身を隠した。この場所からなら、コーヒーハウスへの人の出入りが見て取れる。
辺りはまだ、薄暗さを残していた。ただ店に入る前と比べれば格段に明るく、無理なく物の識別が出来る程度までにはなっていた。
「展開としては、まず先に西村が店を出ると思う。女性のほうは、しばらく間をおくはずだ」
見張りを真奈に任せ、鶴岡は塀を背もたれにその場でしゃがみ込んだ。
真奈は塀の上からわずかに顔を覗かせていた。通りの向こうの、店の出入りを伺う。
「同じテーブルに着かなかったもんね。でも、どうしてだろ?」
「奴は妻帯者だ。誰に見られるか分かったもんじゃあない。外では他人のふりを演じるつもりなのだろう」
「ああ。え、いや、でもさ、それならわざわざ、あの店で待ち合わせする必要ないよね? どうせ行くの、ラブホでしょ」
中学生の女の子の身も蓋もない物言いに、鶴岡は思わず苦笑した。
「まあ、慎重なんだろ」
「うん?」
「これはもちろん推測だが、二人はおそらく、普段はケイタイで連絡を取り合っていないと思う。メールなんかは証拠が残るし、消す前に誰かに見られる危険だってある。電話もそうだ。かけるタイミングを誤るとアウトだ。だから予め、待ち合わせを決めておく。曜日か日付か。ともかく示し合わせた日に、このコーヒーハウスに行く。どちらかが都合が悪く来られなければ、コーヒーを飲みながら適当に時間をつぶしてから登校すればいい。万が一誰かに見咎められてたとしても、ホテルに出入りしている所よりかはよほど言い訳はたつ」
「なるほどね。この店は中継ポイントって事だ。あとは別々に出て、ホテルで落ち合う算段ね」
真奈は納得の声を上げてから、それにしても、と呆れてみせた。
「相手の人、若かったよね? あれ、たぶん高校生だよ」
鶴岡は頷いた。複雑な思いがあった。かつて由布子も、高校時代に西村と関係があったと知った。
由布子もあの女性と同じように、ああして西村と落ち合っていたのだろうか。
どうしようもなく不愉快だった。その不愉快さを吐き出そうと、息をつく。息をついて、そういえばと気付いた。
先日に見た西村の妻の姿が思い浮かんだのだ。彼女も高校生の子供を持つにしては、随分と若いようだった。
あるいは彼女も、元は西村の教え子だったのかもしれない。
つまり西村は、常に生徒に手を出す悪癖の持ち主の可能性があった。
「あ、出てきたよ」
真奈が言った。鶴岡は立ち上がり、そっと塀の向こうを覗いた。やはり西村一人だった。西村はうつむき気味で、早足にその場を立ち去った。
「十分かそこいら。相手もそのうち出てくる。つけるのはそっちでいいだろう」
「了解」と真奈は頷いてから、「でも、なんで?」と聞き返してきた。
「ここで西村をつけると、後から出てきた彼女にオレたちを見られるかもしれない。西村の様子を気にしている姿をね」
「ああ、確かにそうだね。なっとく」
そしてその女性が姿を見せる。十五分ほどが過ぎていた。彼女もまた西村が消えた同じ方向へと歩いていく。
「ここまではツルちゃんの言うとおりね。行こ」
真奈に促され、相手の女性の尾行を開始する。
「やっぱりラブホかな」
歩きながら真奈が問いかけてくる。
「だろうな」鶴岡は応えた。
「こんな朝っぱなから?」
「朝を選ぶのは、それが奴にとって都合がいいからだろう。夕方に、その、そういう事をしてから帰宅すれば、まだ時間がさほど経っていないから痕跡からバレやすい。それに人の往来も多いから、ホテルからの出入りを誰かに目撃されるリスクも高くなる。かと言って夜中にやたら抜け出すのは家族に怪しまれる。だが早朝なら学校の用事でなどと言い訳も可能だ。多少の違和感を覚えたとしても、まさか早すぎる出勤を浮気の為とまでは考えないだろう。痕跡も夕方まで時間が稼げるので消えるだろうし」
「パチパチパチ」真奈は手は叩く真似だけで、口で拍手をした。
「なんだ、それは?」
「いや、あまりに見事な分析だったもので。身に覚えが?」
何か面白くなさそうに、口元を歪めている。
「バカを言え」鶴岡は一笑に付した。
そういえば、由布子を最後にしばらく女性を抱いていない。甘美な記憶は遠くに霞がかってしまっていた。
「それで」真奈が尋ねる。
「相手の女性は、どう見る?」
鶴岡は改めて、前方で小さくなった女性の後ろ姿を値踏みする。
背は高くない。真奈のような華奢な印象もなく、肩がしっかりしていた。そういえば日に焼けていた。歩調も速い。なにかの運動部に所属しているのだろうか。
ワンピース姿。店で見た時に淡い水色と認識している。
ただ正直、似合っているとは思えなかった。Tシャツにジーンズ、スニーカーと言った出で立ちのほうが、彼女らしくありそうだ。
無理にいかにもな女性らしい恰好をしている、そんな印象を受けた。
「年恰好から言って、真奈の見立て通り、高校生だろうな。おそらく」
「うん、そうだね」
「西村の勤め先や、かつての由布子との前例も考えれば、同じ光南高校の生徒だと思う」
「同感ね」
「彼女が私服なのは、人の目を気にしての事だろう。早朝でひと気は少ないが、制服でウロつけばどうしても目立ってしまう。大き目のバックを彼女は提げている。おそらく制服はその中だ。ホテルを出る前に着替えて、後は素知らぬフリで登校するつもりなのだろう」
「おしい」真奈は言った。
「矛盾しているよ。入るときは私服で気を付けているのに、出る時に制服のほうがよっぽどマズイじゃん。あと一時間もすれば結構な人通りよ。制服姿なんて、どこのだれべえか証明して歩いてるようなものだからね。簡単に通報されるわ。そうなったら二人の関係もバレてパアーよ」
「なるほど」
言われてみれば、確かにその通りだった。
「出てくるときも私服よ。着替えるのはそうね、おそらく公園とかのトイレじゃないかな」
「恐れ入ったよ」
鶴岡は顔の横で軽く両手を上げて、降参のポーズをして見せた。実際、中学生と侮るなかれだ。
前方を行く女性が、道を曲がった。一つ入った路地へと歩みを進める。道が狭くなり、車も人の通りもなくなる。
景色は鮮明なものとなり、朝を迎えたと形容していい。
鶴岡たちは距離を詰めすぎないように、慎重に後を付けていった。
「でも」辺りが静かになったからだろう、真奈は先ほどよりも声を潜めた。
「もし、ツルちゃんの言うとおりだとしてさ。本当に普段は連絡を取合わないのかな? じゃあ、二人の関係って、ホテルでして、ただそれだけって事?」
「ん?、まあ、そうなんじゃないか」
「付き合ってるんだよね? あの二人。なんか、それつまんないよね」
「つまらない?」
「うん。つまんない」真奈は頷く。
「それだけの関係なんてさ。なんていうか、こう」そう言いながら真奈は、鶴岡の腕を取って絡ませてきた。
「腕を組んで歩いたりさ。美味しいものを分けっこしたり、一緒に遊んではしゃいでさ。そうやって、いろんな思いを共有するのが、恋かなって。そう思うのだけど。それともワタシ、お子様かな? 夢を見ているだけ?」
いや、と鶴岡は首をふる。
「十人十色だけどな。でもまあ、大多数の人がそういう付き合い方を望んでいるんじゃないか? 現にオレはいい年したおっさんだが、真奈の恋愛観に一票だ」
「そう? なら安心した」
真奈は言って、鶴岡に絡めていた腕をほどいた。何気ない口調のようで、実は照れクサかったのだろう。表情が僅かに崩れていた。
「しかし、奴の場合は不倫だ。そんな大ぴらな真似は出来んだろうさ」
「しのぶしかないもんね。でもセンセのほうはともかく、相手の子はなんでこんな不自由な恋を選んだんだろ」
「選んでするものじゃあないからな。真奈、キミなら多少、分かる部分はあるんじゃあないか? ほら学校の格好いい先生に憧れたり、とか」
肉体の結びつきは、心のつながりとも密接だ。ましてや不倫ならば、背徳感の共有が、愛し愛されていると気持ちの高揚をより後押しするだろう。
肉欲が強ければ、それだけで満足してしまう。そんな愛の形も、世の中にはあるにはある。
だが、さすがにそれを中学生相手に口にするのは憚られた。
なので鶴岡は矛先を少し変える為に、話を真奈にふったのだが、その真奈は、うーん、と歩きながら手を顎に当てて、しばらく悩んでいた。悩むくらいなので、ないのだろうと答えは想像ついた。
案の定、ない、と返ってきた。
「それって、マンガやドラマの世界だけじゃない? 少なくともワタシはそんな気持ちになった事ないわ」
「そうか」鶴岡は頷いた。
なんとなくだが、この子らしい答えだと思った。
そんな会話を交わしているうちに、前を歩く女性がある建物の中に入って消えた。
三角定規をなぞるかのように、唐突に角度を変えた。
そこは予想通りであった。ファッションホテルなどと、濁した看板を掲げてはいるが、要するにラブホテルである。
「入っちゃったね」
立ち止まった真奈が、建物を見上げながらつぶやく。
「そうだな」
「結局、センセの姿が見えなかったけど?」
「一緒に出入りするなんて危険を冒すわけがない。中に待ち合いぐらいはあるさ。そこで落ち合うんだろ」
鶴岡は不機嫌に応えた。彼女の姿が、由布子と重なってしまったのだ。
高校生だった頃、そして大人になってからも。由布子は先ほどの彼女と同じようにしていたのだろうか。
想像したくない。だが、このような場面を目の当たりにすれば、どうしたって頭の中に入り込んでくる。
胸の中がざわつく。鶴岡は大きく息を吐いた。
すると真奈が、どう? とホテルの入り口を指さした。
「ワタシたちも中に入る?」
冗談めかす中学生に、鶴岡は思わず苦笑した。
「十年後に言ってくれ」
まあ、と真奈は大げさに見開いた目を向けて抗議する。
「失礼ね」
そう言って唇を尖らせた。




