(四)ノ3
それからさらに夜は更け、近所の家の灯りが一つ、また一つと消えていく。町はその度に闇へと溶けていった。
そして、ついに西村の家の灯りもすべて消えた。日付が変わったあたりだろうか。
「寝た、かな?」
鶴岡が言うと、真奈は、うーんと曖昧に首を捻る。
「さて、と」
鶴岡は首筋を揉み解しながら、肩を回し、強張った体を伸ばしていく。
「さてと、なに?」
少女の声は冷たかった。
「ん? 今日の張り込みは終わりだ。帰って寝よう」
「なに、寝ぼけた事を言ってるの?」
「いや、確かに眠気はあるが、寝ぼけてはいないつもりだ」
「あのね」
真奈があきれた表情を浮かべる。暗闇で実際には見えていないが、そういうのは不思議と分かってしまうものだ。
退屈な疲労に苛立っているのか、真奈の声はさっきから険がある。
「センセを殺っちゃうために、まずワタシたちがしなければならない事は?」
「西村の生活パターンの把握。その為に、尾行をして帰宅後は張り込みもした」
「その通りよ」
「奴はもう寝たようだし、今日のところは動きがなかった。だから張り込みも終わり。何も間違っていないように思うが?」
「もう寝たってなんで分かるわけ?」
「だって、電気消えたし。家、真っ暗だぞ」
「そんなの、家族が寝静まるのを待ってから、何か行動を起こすかもしれないじゃない」
「は?」
鶴岡は思わず聞き返した。さすがにそれはどうだろうか。
「何の為に?」
「そんなん知らん」
「ほほう」
「で、でも、可能性はなくはないわ」
「限りなく低い気がするが」
「低いだけよ。ゼロではない。何も起こらなかったとしても、それはただの結果。その一つの事実を知るのが大事なの」
ふむ、と鶴岡は指で顎を掻いた。せっかくきれいに剃った髭が、少しだけ伸びてザラついた。
何をそんなに意地になっているのか。鶴岡は、真奈の言動に違和感を覚えた。
何も起こらないのを知るのが大事と言いながら、やっぱり何も起こらない現実に苛立っているだけ、なのか?
あるいは単に、負けが込んだギャンブラーのように、引き際を見失っているのかもしれない。
どちらにしても、今の真奈の言い分には無理があった。
ただそれでも、鶴岡は「分かった」と応えた。
理屈よりも、感情を優先してしまいがちの年頃だ。ならば彼女のやりたいようにさせようと思った。
それで真奈の気が済むのなら、それでいい。
「え、あ、そう?」
真奈はあっさりと引き下がった鶴岡に、少し拍子抜けしたようだ。
「それじゃあ、うん、もうひと踏ん張りね。よし、ツルちゃん、頑張ろう」
ただ自分の意見が通ったので、満足はしたらしい。真奈は口調は、苛立ちを収めたものへと変わった。
なのにそれも、ほんの三十分程度しか持たなかった。
時間の経過とともにまた不機嫌さが露骨になり、鶴岡が話しかけても邪険な態度であしらってきた。
張り込みを続けると、意見を押し通したのは彼女のほうだ。
なのになぜ、こんな不当な扱いを受けなくてはならないのか。鶴岡のほうにも当然の不満が募る。
それに真奈はまだマシだ。
スマートフォンでゲームをしたり、誰かのブログを覗いたりと、時間をつぶす方法を持っているのだから。
鶴岡には何もない。本当に手持ち無沙汰だ。
だから真奈に話しかける。いかにも面倒そうに拒絶される。苛立ちが増す。この悪循環。
険悪な空気が漂う。ギスギスと居心地が悪い。
相手は中学生。大人気ないとは思う。
だが鶴岡にだって感情がある。聖人君子を気取るつもりもない。とにかく不愉快で仕方なかった。
それでも一つ、分かったものもある。それは苛立つにも元気が必要だという事だ。
ずっと真っ暗だった空。それがその黒さに水で薄めた墨汁のように微かな透明さを見せ始めた頃。
もう、二人ともすっかりと気力を失っていた。
「なあ、今何時だ?」
鶴岡はアスファルトの上で胡坐を組んで、がっくりとうなだれた体勢で訪ねた。
反発する気力がなくなった真奈も、塀に体を預けて両足を投げ出していた。気だるそうにスマートフォンを持ち上げる。
「うーんと、五時ちょい過ぎ」
「もう、いい加減、そろそろ」
鶴岡は声に、切実さを込めた。真奈は間を空けてから、そうね、とあくびをかみ殺して頷いた。
「さすがに登校までの時間を考えると、もう何もないよね。これ以上粘っても意味ないか」
その言葉に鶴岡は、啄木鳥のように素早く何度も頷く。それを横目で見ながら真奈は、疲れ切った表情の口元を吊り上げた。
「いいわ、昨夜すれ違ったオバサンとかにまた出くわしたらさすがに怪しまれるし。今日のところは引き上げましょ」
「よし!」
不思議なもので、終わりと分かると、少し元気が戻ってくる。鶴岡は素早く立ち上がると、両手を組んで空へと突き上げた。
体を伸ばして体を解きほぐす。最近はすぐに凝り固まって仕方がない。
その辺りは若さの勝利か。真奈のほうは軽やかに立上り、遊び半分で鶴岡の真似をして伸びをするが、動きに余裕があった。
「さて、帰るか」
「うん」
二人横に並んで、僅かに白み始めた空を背景に帰路につく。
「ツルちゃん」
「ん?」
鶴岡は目を向けるが、真奈はうつむいていた。
「その、なんていうか、ゴメン」
言いにくそうに、謝る。何に対する謝罪なのだろうか。
意地になって張り込みを強要したからなのか、苛立ちをぶつけたからか。
真奈はうつむいたままなので、見えるのは頭頂部だけ。どんな表情になっているのかは伺えない。
鶴岡は何も言わず、ただその頭頂部を優しくポンポンと叩いた。
真奈が小さく笑った。そんな気がした。




