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唇歯輔車  作者: akisira
21/58

(四)ノ2

 張り込みが始まった。

 しばらくは買い物帰りらしき主婦や、犬を散歩させる学生などとすれ違った。それから日が完全に暮れても、この辺りの住宅街は案外、人の往来が多かった。

 日課としているのだろう。ランニングやウォーキングをする人たちの姿を頻繁に見かけた。

 体力の衰え、健康への不安が切実となるのか、ほとんどが鶴岡よりも年配者だった。


 その間、西村の家に出入りがあったのは一度だけだ。今朝に見た西村の息子だった。クラブ活動にしては遅すぎるので、塾通いなのかもしれない。

 彼が帰宅してからすぐに、家の二階の一室に電気が灯り、そしてまた程なくして消えた。そこが息子の部屋のようだ。

 一階のリビングと思しき大きなテラス窓からは、相変わらず光がカーテンを透かしている。


 変化のない時間が、只々退屈に過ぎていく。

 鶴岡は時計を持っていないが、感覚的には張り込み開始から四時間ほどが過ぎたように思えた。もうとっくに食事は終えただろう。

 これから飲みになど出かけるだろうか?

 翌日が休みならともかく、今からでは遅過ぎる。今晩に限ればその可能性は低く思えた。

 つまりここからも、変化がないままに続くのだ。

 そうなってくると一ヵ所に長い時間、ただ留まり続けるというのはどうしても飽きが襲ってくる。

 それは真奈も同じようだった。


 小腹が空かないか、と聞いてきた。鶴岡は首を横にふった。

 学校の正門前で待ち伏せる前に、弁当で食事は済ませてある。弟の義行が昨日置いていったものを、真奈と一つづつ分けあった。長い間、最低限の食事に体が慣れているので、それだけで充分だった。

 だが食べ盛りの少女は違った。ワタシは空いたのだと、コンビニに出かけてしまった。

 どうやら真奈も、今夜はもう動きがないと考えているようだ。


 独りになると、時間はより退屈に、そして緩慢になっていく。気分を紛らわせようと、真奈の前では遠慮していた煙草に火を点ける。

 二階の一部屋に、電気が再び灯った。息子が家族の団らんを終え、自室に戻ったようだ。リビングはまだ明るいままだった。


 やがて煙草は、すっかりと短くなった。ストレスや退屈な疲労感からか、美味いとは感じなかった。

 アスファルトに落として、靴底で火種を踏みつける。しばらく考えてから吸殻を拾い上げ、開襟シャツのポケットに落した。

 外で吸うには、携帯灰皿が必要のようだ。


 ようやく真奈が戻ってきた。一時間近く過ぎたように思う。一番近くのコンビニなら十分とかからない距離にあるはずなので、立ち読みか何かで時間を潰したのだろう。

 真奈は鶴岡に倣って家の塀を背にすると、西村の家のほうを気にしながら「ツルさん、ホシの動きは?」と、作った声色を潜めた。

「ツルさん? ホシ?」

 鶴岡は怪訝な声で聞き返しながら、刑事ごっこの冗談だと気付いた。

「まだ、ないな。人の出入りもまったくだ」

 すぐに調子を合わせ、与えられた役を演じて見せる。

「そうっすか」

 やはり真奈は芝居口調を続けた。手に提げたコンビニの袋を漁る。

「これ、どうぞ。差し入れっす」と、何かを手渡してきた。


 鶴岡は受け取ったものを、暗がりに目を凝らした。アンパンと紙パックの牛乳だった。

 古い刑事ドラマの定番のイメージだ。思わず苦笑した。ビン牛乳でないのは、コンビニに置いてなかったのだろう。仕方ない。

 早速、紙パックにストローを突き刺し、牛乳で口の中を湿らせた。自覚がなかっただけで、水分を欲していたらしい。

 先ほどの煙草よりも体がすんなりと受け入れて、隅々にまで染み渡るかのようだった。


 ほっと息をつき、傍らの真奈へと目をやる。

 彼女はその場でしゃがみ込んでいた。

 ペットボトルを地面に置き、何かの包みを取り出した。暗くてよく分からないが、それがアンパンと牛乳でないのは確かだ。

 視線を感じたのだろう。真奈は鶴岡を見上げ、「なによ」と聞いてきた。

「なんだそれは?」

「見て分かんない? ああ、見えないか。サンドイッチと紅茶。ワタシ、牛乳もアンコも苦手なのよね」

 そう応えて、悪びれた様子も見せずにサンドイッチを頬張る。

「せっかくの雰囲気が台無しじゃあないか」

「文句ある?」

 いや、と鶴岡は首を横にふった。

「立場はわきまえているよ。文句なんてとんでもない」

「あら、そうでしたか」

「でも……」鶴岡は手にしたアンパンに目を落とした。

「いいのかな?」

「ん?」

「オレはキミから食べ物をもらってばかりだ。気が引ける」

「でも今日は、ワタシもツルちゃんにご馳走になったけど?」

「あれは弟が持ってきてくれたものだ。オレは何もしていない」

「いやなの?」

「そうじゃあない。感謝している。ただ、キミは中学生だ。そんな子供のヒ――、いや、真奈に毎回、食事代を支払わせているのは、さすがに……」

 真奈は、ふうんと口の中でつぶやきながら、サンドイッチの一切れを食べた。それからペットボトルの紅茶をゴクゴクと飲んだ。

「別になんとも思わないけどなあ」真奈は背にしていた塀伝いに、腰を上げ立ちながら言う。

「ワタシは、今ツルちゃんと一緒にいたいから、そうしているんだし。お金持ってないみたいだもん。まあそれを世間ではヒモと言うのだろうけどさ」

 さすがに中学生相手に『ヒモ』という言葉を使われるのは抵抗があったが、状況的にはその通りだ。鶴岡は反論を堪えた。

「大丈夫なのか? その、お小遣いは」

「うん、まだ気にしなくていい。大判振る舞いは無理だけどね。でもツルちゃん一人ぐらいなら、当分はワタシが食べさせてあげるよ」

 その言葉は、ますますヒモ男めいてしまう。鶴岡の胸中に、わだかまりが渦巻いた。

「ねえ、ツルちゃん」

「なんだ?」

「眺めても美味しくないでしょ? 食べたら?」

 鶴岡は思わず苦笑した。そうだな、と頷いた。

 わだかまっても腹は満たされない。その通りだ。

 鶴岡は袋を破り、アンパンにかぶりついた。

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