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唇歯輔車  作者: akisira
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(一)ノ2

「メロンパン……」

 鶴岡はもらい損ねた施しへの未練に、思わずつぶやいた。

 携帯の灰皿を持たないので、他に選択肢があったようには思えないが、手のひらで消せとでもいうのか。そんな芸当は、タネを仕込んだ手品師でもなければ無理な話である。

 ただ、もう仕方がない。鶴岡はため息とともに、メロンパンへの思いを断ち切った。


 気を取り直して両手を芝の上でつき伸ばし、腰を浮かせて体を横へ移動させる。それを三回ほど繰り返して、クスノキが落とす影の中へと入り直す。

 この影が薄暗い世界と同化するぐらいまでは、ここに居続けるつもりだ。

 鶴岡はもう一度仰向けに寝そべり、また目を閉じる。


 諦めたはずのメロンパンの味の記憶が舌の上で蘇る。やわらかい生地の甘さや、さっくりとしたクッキーの香ばしさ。

 咥内に涎が溢れて、それを飲み込む。

 何の味もしない。

 その当たり前の事実に小さく落胆し、ため息を鼻からぬいた。


 とにかく思考を鈍くさせる事に努める。すると偉いもので、もうやって来ないと思っていた睡魔が、ぬるりと覆い始めてきた。

 このまま眠ってしまおうと、そう思った矢先に「はい」という声がすぐ近くで聞こえた。

 落ちかけた意識を無理やり引っ張り起こす。目を開けると、メロンパンが鼻先に突きつけられていた。

 先ほどの少女が、また鶴岡の傍らで腰を下ろしていた。


「戻ってきたのか」

 意外に思った。鶴岡は上体を起こし、メロンパンを受け取りながら尋ねると、少女は、うん、と頷いた。

「案外、ないもんだね、ゴミ箱。けっこう歩き回ったよ」

「不敬な輩のせいだよ」

「ん?」


 少女は鶴岡の言葉に首をかしげた。分別が複雑な家庭ゴミを、公園などの公共施設に備えつけられたゴミ箱に捨てる者が増えていたらしい。

 その対策としてゴミ箱が姿を消してしまったわけだが、ただそんな話よりも今はメロンパンだ。

 鶴岡は、メロンパンの包装袋の端を左右から引っ張るようにしてつまんだ。


「いいのか? 本当に貰っても」

「どうぞ」

 了解を得られ力を込めて袋を開けると、ふわりと甘い香りが立ち上がった。

 たまらずにかぶりつく。

 先ほど思い返していた味が、口の中で現実のものとなり、軽い陶酔感に襲われる。

「美味い」

 思わず口からこぼれた。実際に美味かった。菓子パンのような甘いものを食す事が、随分と久しかった。

 すぐに二口目、三口目と頬張った。


「食いっぷりがいいねえ」

 少女は緑茶のペットボトルを取り出して、フタを開けて手渡してきた。鶴岡はそれを受け取り、口に含んで咥内の水分を補給する。そして、またメロンパンにかぶりついた。

 それを数度繰り返すと、あっという間に無くなった。

 ペットボトルの中身も一気に飲み干し、ふうと息をついた。


「どう?」

「美味かった。恩にきるよ」

「でも、まったく足りてなさそうだね」

 少女は言ったが、鶴岡は黙して応えなかった。

 もちろん物足りなさはあった。

 だが、そうと応えれば少女はどうするのだろうか。また何か食べ物を施すつもりのように思えた。

 メロンパンは本屋での件の謝意だろうと、素直に受け取る事が出来た。しかしこれ以上となると、何かその行為に裏があるよう感じてしまう。

 少女はそんな鶴岡の警戒を見透かしたのか、ニヤリと笑った。


「おじさん、家族は? こんなところで油売ってて奥さんに怒られない?」

「いや、独り者だ」

 ふうん、と少女は口をすぼめた。

「じゃあ、おウチは? 近いの?」

「まあ、近いと言えばそうだが……」

「住まいはどんな感じ?」

「アパートだが……。 オンボロの」

 あ、アパートなんだあ、と少女は目を輝かせた。

「ねえ、今から遊び行っていい?」

「は?」

「いや、いずれ一人暮らしするつもりだから、後学のために見ておきたいんだよね。ワタシも最初はオンボロなところからのスタートだろうしさ」


 家出少女か、と鶴岡は気付いた。今夜の宿を決め損ねて声をかけてきた。そんなところかと値踏みした。

「寝るところがないなら、ネットカフェにでも行けばいい。それくらいのお金はあるのだろ? それか友達に頼み込んだらどうだ? ああ、その友達が男の子の場合はあまり感心はしないが」

「食べたよね。メロンパン」

「ん? ああ」

「タダであげたつもりはないけど」

 不敵な笑みを浮かべる少女に鶴岡は、ちょっと待て、と抗議の声を上げた。

「あれは、本屋での件の詫びのつもりだったのでは?」

「その分はそっち」

 少女は芝生に置かれた煙草の箱を指さした。

「おじさんの代わりに吸殻を捨てに行くサービス付き」

 ぐっ、と鶴岡は声を詰まらせた。ポケットに手を突っ込み確認したが、パン代を突き返せる小銭を持ち合わせていなかった。

「ちなみにおじさん」少女はそんな鶴岡の反応を楽しむかのように声を弾ませる。「パン食べたあと、ワタシになんて言った?」

「――美味かった」

「そのあとよ。あと」

「お」

「お?」

「恩に、きる」

 不承不承ながらの鶴岡の応えに、少女は満足そうに頷いた。

「受けた恩は返さないとねえ」


 鶴岡は一つ息をついた。所詮は子供の屁理屈だ。まともに取り合う必要などどこにもない。

 適当にあしらうか、怒鳴りつけて追い払うか。

 ただそうした場合、どうなるだろうか。

 こちらが一を言えば十を返してきそうな子だ。不毛な言い争いになるのは目に見えていた。

 あまり口が立つほうでないと自覚している。それに、そんな気力もない。

 つまり鶴岡は面倒だった。

 それに、ただ寝るだけの部屋だ。一人増えたところで、さして変わりがないようにも思えてきた。

 親子ほどの年の差で、鶴岡に少女性愛の趣味はない。変な気を起こす心配はまずなかった。本当に、ただ寝泊りするだけで済むだろう。

 そう考え、了承する事にした。


「一晩だけだからな」

 本来なら親に連絡するなどして迎えに来てもらうのが、常識ある大人の対応だというのは分かっている。

 しかし鶴岡は、そんな気にならなかった。この少女の様子からして、素直に連絡先を教えるとは思えなかった。

 それに家庭環境も知らないし、知る気もない。

「あらあ」と、少女が芝居じみて不満そうに声を上げる。

「なんだ?」

「タバコ一箱吸い尽くすまでは、相手してくれるんじゃあないの?」

「調子にのるな」

 鶴岡は指先で、少女の頭を軽く小突いた。

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