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唇歯輔車  作者: akisira
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(三)ノ5

 鶴岡は歩きながら、自分の口の周りを撫でてみる。この行為を家を出てから何度も繰り返した。

 やはり、すっきりしていた。あるべきものがなく、何だか落ち着かない。伸びた髭の、ザラザラとした感触に慣れていたからだ。

 そんな鶴岡の思いを見抜いてか、傍らを歩く真奈は横目で見上げて「だから、悪くないって」と、含んだ笑みを浮かべる。

 だからあ、と鶴岡は心の中で訴えた。彼女のその表情が、余計に落ち着きを失わさせるのだ。


 今朝、真奈は鶴岡が目覚めるより早くコンビニに出かけ、シェービングムースとT字剃刀、歯ブラシを買って戻ってきた。

「とりあえず、髭を剃ろうよ。それだけでも大分違うからさ」

 彼女の言葉に従い、鶴岡は洗面台で丁寧に髭を剃り、歯をしっかりと磨いて、勢いよく顔を洗った。

 久しぶりにさっぱりとした爽快感があった。顔を上げて、鏡に映る自分の顔を覗き込む。

 ずっと髭面だったからか、何か違う気がした。

 こんなにあっさりとしていただろうか? ティアドロップのメイクをし忘れたピエロのような物足りなさだ。


 鶴岡はなんだか気恥ずかしく、うつむき加減で部屋に戻った。

「ちゃんと見せなさい」真奈の強い言葉に、諦めて顔を上げる。

 真奈はじっくりと十秒ほど鑑賞してから「いいじゃん」と、満足気に声を弾ませた。

「若返ったよ。まあ、あとはその長ったらしい髪だけど、とりあえず勘弁しといてあげる」

「そいつはどうも」

 鶴岡はざらつきのない顎に手をやりながら応えた。

「よし、じゃあ、行こっか」

 真奈は踵を返し玄関に向かう。行先は決まっている。西村の家だ。


 一時間近く歩いただろうか、鶴岡のアパートがある所よりも真新しく、明るい雰囲気の住宅街の一角だった。

 真奈は一軒の家を指し示した。

「あそこよ、あの赤っぽい屋根のお家」

 二階建ての、やや小ぶりな家だった。

 オレンジ色の洋瓦を葺いた切り妻の屋根。壁はクリーム色で、コテを押し付けた痕をあえて残して塗られていた。

 プロヴァンス風と言えばいいのだろう。ただ、庭を占領するメタリック色の国産SUV車は、この家にはミスマッチのように思えた。


 いったん家の前を通り過ぎる。最初の交差点を曲がり、すぐに塀の陰に身を潜めた。ここで待ち伏せて西村のご尊顔を拝する算段だ。

 程なく通りの向こうから、小型犬を連れて散歩する中年の女性が近づいてきた。

 鶴岡は気まずさから、うつむいて目を合わす事なくやり過ごそうとした。すると隣の真奈が、「おはようございます」と元気よく声をかけた。

 中年女性は表情を緩め、挨拶を返しながら通り過ぎていった。


「大丈夫よ」

 遠ざかる中年女性の背中を見つめながら、真奈は悠然と言う。

「堂々としていれば怪しまれないから」

「安心した」

 真奈は、なにが? という目を向けてくる。

「やたらと素直そうな感じで挨拶をする子がいたので、一瞬見知らぬ女の子に間違って付いてきたのかと勘違いしそうになった」

 皮肉めくと、真奈はフンと鼻を鳴らす。

「ツルちゃん一人ならすぐにでも通報されたかもね。怪しいおじさんうろついていますって。ワタシがいるから大丈夫なのよ」

 そこんところ分かってる? という表情を、十人が見たら十人ともに悟らせるほど見事にしてみせる。

「少し年の離れた兄妹に見えるのか?」

「あつかましい」

 真奈は呆れた感情を露わに、言葉を吐き捨てた。

「あのね、いくつ違うと思っているのよ。親子よ。お・や・こ」

 確かにその通りではあるが、あまりに無慈悲な物言いだ。

 だが鶴岡は知っている。彼女は口ほどには心音は悪くない。

 そのおじさんの怪しさを少しでも減らそうと、わざわざ早起きしてまで、髭剃りを用意してくれたのだから。


 鶴岡はまた、自分の頬を撫でてみた。

 やはり物足りない。指先に引っかかるあの感触が懐かしい。

 正直に言えば、ただ髭を剃ったぐらい、それは汚職疑惑の政治家の釈明会見みたいなものだ。

 つまり怪しいものは怪しい。


「まあ、それはともかくさ」真奈はこのやり取りが面倒くさいのか、打ち切る様に言って、スマートフォンを取り出し待ち受け画面を表示させた。

「そろそろのはずよね」

 どうやら時刻を確認したようだ。鶴岡も時間が気になり、今何時なんだ? と覗き込もうとする。

「わ、バカ、見るな。スケベ」

 真奈は慌てた様子で、胸に抱くようにスマートフォンを隠した。

「スケベって、あのな」

 鶴岡としては大いに心外だが、チラリと見えた感じでは猫モチーフの有名なキャラクターがホーム画像として設定されていた。

 中学生の女の子らしく結構だと思うのだが、そういうのが子供っぽいからと恥ずかしいのだろうか。


 そんな事をしていると、庭の門が開いた。二人とも即座に口を紡ぎ、意識をそちらへとやる。

 ただ、目的の人物とは違った。

 息子なのだろう。小柄な男子学生だった。顔立ちは平凡ながらも、どこか理知的な印象を受けた。

 それは彼が身にまとっているブレザーの制服が、偏差値で語られる事が多い地元の有名な高校のものだからかもしれない。


 彼は道路へ出ると、こちら側へと向かってきた。真っ直ぐに前を向いて歩く。

 交差点の陰にいる鶴岡たちに気付いていないのか、あるいは気付いてはいるが知らぬふりを決め込むつもりか、とにかく特に気にした様子は見せずに目の前を横切って行った。

 その姿が遠くに小さくなると、二人の間で張りつめた緊張が緩む。だが、もう無駄口はきかなくなった。

 固唾をのんで、次に動きがあるのを待つ。


 すると、五分ほどして再び門扉が開かれた。

 男が姿を見せる。中背で痩躯。ノータイのジャケット姿に、革製の薄い鞄を手に提げていた。

 長い鼻梁に薄い唇。目は一重瞼で切れ長。細いフレームのメガネが、神経質そうな印象をより強調させている。

 年は、四十がらみと見て取れた。


 鶴岡は真奈を見た。真奈は真剣な面持ちで頷きを返した。鶴岡はもう一度、その男に目をやる。

「あの男か」

 無意識に言葉が口からこぼれた。

 あれが西村――

 鶴岡から由布子を奪い、そしてすぐに捨てた男。

 西村は、先ほどの息子とは反対側、つまり鶴岡たちの前を横切る事なく遠ざかっていく。その背中を見つめた。


 あいつが、由布子を追い詰めた――

 胸の中がざわつき、こぶしを握った。爪が手のひらに深く食い込むほどに力を込めた。

 その腕に、真奈がそっと触れた。

「分かっている」

 鶴岡は息を深く吸い込み、そして吐き出した。大丈夫だと、自分に言い聞かせる。

 心は平静に堪えた。

「つけなくていいのか?」

「行先はどうせ学校でしょうに」

「そう、だな」


 鶴岡は西村の背に目をやったまま応えた。

 背筋をピンと伸ばし、足早な歩調。小さくなった背中は、やがて交差点で方向を変え、その陰に消えていった。

 傍らで真奈が、ほう、と息をついた。それを合図に鶴岡も気持ちを緩めた。

「どうだった?」真奈が感想を求めた。

「なるほどな、と思ったよ」

「なにがさ?」

「いや、随分と違うものだな。オレと奴とでは」

「ああ」真奈は納得の声を上げた。

「ツルちゃんとはね。うん、それは確かに」

 鶴岡は苦笑して、また通りへと目を向けた。今はもう見えなくなった西村の姿を思い返す。

 確かに違う。みすぼらしい中年へと成り果てた男と、社会的な信頼を得ているであろう男。同年代でこうも違うものか。

 認めるには抵抗はあるが、責任を受け止めながら年月を積み重ねてきた大人の男の顔だった。

 少なくとも表面上はそう見て取れた。

 あの男に由布子は惹かれたのだ。鶴岡を捨てて、不倫関係になるのを承知してまで。

 男として負けた。悔しいが、そういう事だった。


 そして門扉が、三度開かれる。

 今度は女性が子供を連れて姿を見せた。三十をいくらか過ぎただけのように見えた。

 美人というほどではないが、上品な雰囲気を持っていた。

 子供のほうは、服装から幼稚園児だと分かる。やんちゃ盛りの男の子だった。

 二人はつないだ手を大きく振りながら歩き、何やら一緒に歌っている。

 西村の妻子だろう。とても微笑ましい光景であった。

 不意に女性が「あら」と、声を上げた。そして、ほら急ごうと男の子を促す。二人は鶴岡たちの目の前を、小走りに通り過ぎて行った。


 鶴岡は交差点の陰から身を出して、二人の姿を目で追った。

 通りの向こうに数組の母子と送迎バスが止まっている。女性は「すみませーん」と、声を大きくしてそちらへ駆けて行く。

「なるほど」鶴岡はつぶやいた。

「これが、西村の家庭か」

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