(三)ノ4
アパートのドアが開き、「ただいまあ」と真奈が陽気な声を上げる。
続いて「わっ、真っ暗」と言ったかと思うと、直後に大きな物音が響いた。
「痛ったあ」真奈が喚いた。
部屋にいた鶴岡は驚いた。急いで腰を上げて駆け寄った。玄関先でうつぶせに倒れ込んだ真奈の姿が、暗がりに見て取れた。
「おい、大丈夫か?」
「痛いって! なんなのよ、もう」
どうやら玄関の框に足を引っ掛けて転んだようだ。部屋が暗く、足元の段差が認識出来なかったのだろう。
とりあえず肩を抱いて起こしてやる。
「どこか擦りむいたか?」
「絶対、膝やった」
「案外トロくさいんだな」
少しだけ皮肉めいてみる。
「こんな真っ暗な部屋に馴染んでるそっちが異常だっつうの。コウモリか! アンタわ」
完全な八つ当たりが返ってきた。派手に転んだ気恥ずかしさからか、それとも思わぬ痛みに襲われた苛立ちからか、言葉使いが随分と乱暴だ。
「立てるか?」
「ん、大丈夫」
「待ってろ」
鶴岡は真奈のそばを離れ部屋に戻ると、座卓の上の懐中電灯を手にして照らしてやる。
よろけながら真奈が部屋に入ってきた。そして鶴岡の胸元に、「ほい」と手に掲げていたビニール袋を突き付けた。
その袋には有名な雑貨屋のロゴがプリントされており、中に入れられた箱により、二十センチ角に、そしてその倍ほどの高さの立方体となっていた。
「なんだこれは?」
「開けてみ」
促されるままに受け取ると、その場に腰を落としながら、袋から箱を取り出した。箱の一面が透明で、一目で何であるかが分かった。
それはランタンだった。
「懐中電灯じゃあ、不便だし、不経済でしょ?」
真奈は鶴岡の傍らに座り、片膝を立てて痛みがあるらしい膝頭を見つめながら言った。
鶴岡は懐中電灯の光を真奈の膝へと当てた。擦りむいて赤くなっているが、血は出ていない。大した事はなさそうだ。
「それ、災害用なの。だから電池は不要」
その言葉に、鶴岡は改めて箱を確認した。
「ああ、なるほど」
ランタンにはハンドルがついており、それを回すことで充電出来る仕組みになっていた。確かに乾電池が必要な懐中電灯より経済的だ。
早速箱から取り出す。円柱状の小ぶりなもので、チープな作りに見える。三千円はしないものだろう。
とりあえずスイッチを入れて、ハンドルを回してみた。すると、すぐに光が灯り始めた。
部屋全体を明るくするにはまるで力不足だが、それでも周辺の様子を知るには問題はなさそうだった。
直線的に限られた範囲を照らす懐中電灯と違って、ランタンを中心に白くぼんやりと明るく、雰囲気も悪くない。
「これ、どれくらい持つんだ?」
「たしか、一分間回したら三十分くらいイケるって書いてあったよ」
「随分と効率がいいんだな」
鶴岡は感心した。興が乗って、ハンドルを回す勢いが増してくる。見た目はおもちゃみたいでも、中々どうして大したものだった。
「ね、それよりもさ」
真奈は立ち上がると、「見て」とモデルのようにポーズをとって見せた。それで気付いたが、彼女は学生服を着ていた。
「それは?」
「コウナンコーの制服。ツテを頼って手に入れてみました。これさえ着ていれば、たとえチュー坊でも高校生に見える。でしょ?」
「なるほど、確かに」
鶴岡は頷いた。何の為にそんな恰好をしているのか。理由はすぐに分かった。
真奈は今日、西村の情報を求めて光南高校に潜入してきたのだ。
当たり前だが、私服より制服のほうが校内では溶け込みやすい。中学三年の真奈なら学年で言えば一年しか違わないし、どちらかと言えば彼女は大人びているので、違和感はなかったはずだ。
「でもさ」真奈は、鶴岡を挑発するかのような笑みを浮かべた。
「思ったよりスカートが短いんだよね、これ」
指先でスカートの裾をつまんで、軽く持ち上げる。
「それで、どうだったんだ?」
鶴岡はそれには興味を示さず尋ねた。チュー坊の太ももよりも、西村の件のほうがずっと気になる。真奈はつまらなそうに口をすぼめた。
「ま、中は短パン穿いてますけどね。みたいな」
遠慮なく裾を捲りあげ、デニムのショートパンツを堂々と見せつけた。それを見て鶴岡は、小さく笑った。
「真実は知らないままのほうが神秘的だったな」
「あーつまんないの」
真奈はストンと腰を落とした。思惑通りに鶴岡を揶揄えなかったのがご不満のようだ。
むくれ顔のまま、先ほどのとは別のビニール袋から薄いプラスチックの容器を取り出し、鶴岡に手渡してきた。
今度はコンビニ弁当だった。玄関先で転んだからだろう。中身が随分と片側に寄っていた。
「お腹、空いたでしょ? ごめんね、またお弁当なんだけど」
コンビニ弁当であることに問題はない。しかし、またエビフライ弁当なのはどうにかならなかったのだろうか。
一瞬そんな思いがよぎったが、もちろんそれを言えた立場でないのは百も承知だ。
よほど真奈がエビフライが好きなのだろうかと思ったが、弁当はどうやら一人分しか用意していないようだ。
それを訝ると、真奈は「ワタシはもう食べてきたから」と言った。
「そうか」
「うん、校内で男子をナンパしたの。それで放課後にカラオケ二時間。ゴハン、オゴってもらっちゃった」
鶴岡は息を飲んだ。それが何を意味するのか。食事などもうどうでも良くなり、手にした弁当を脇の座卓に置いた。
「まさか、つまりそれは、西村は今も光南高にいた――、のか?」
放課後にまで相手したという事は、その男子生徒が西村を知っていた。そういう事だ。
「うん」
真奈が頷くのを認めると、鶴岡は体がジワリと熱くなるのを感じた。
「意外、だな」鶴岡は興奮を抑えながら言った。
「てっきり、とっくの昔に他校に転勤になっているかと思っていた」
「だよね。あっさりと分かっちゃってワタシも拍子抜けした。なんかいっぺんどっか違う学校に行ってたみたい。けど何年か前にまた戻ってきたんだって。家がね、一軒家らしいんだけど、コウナンコーから近いから希望してたとか、って、どうしたの? ツルちゃん」
よほど呆けた顔をしていたのだろう。真奈の視線に気付き、鶴岡は気恥ずかしくなって表情を引き締めた。
「いや、昨日の朝まで名前も知らなかったのに、こう、なんていうか」
「急すぎて、なんだか現実味がない感じ?」
真奈が鶴岡の言葉を引き継いだ。
「まあ、そんなところかな」
鶴岡は微苦笑を浮かべながら気を取り直して、続けてくれ、と先を促した。真奈は頷くと、それでね、と言った。
「数学の教師だってさ、あいつ。現在四十歳。ツルちゃんの一個上かな? 割と厳しいらしいけど、生徒の評判は、まあ悪くないみたい。顔も見たよ。素材の良さならツルちゃんの勝ち。清潔感では向こうの圧勝」
「会ったのか! 西村に」
鶴岡は驚きの声を上げた。
「うん、と言っても遠くから見ただけ。んで、もう一個、収穫があるよ」
真奈が言い、鶴岡は目だけで先を促した。
「西村の住んでいる家も分かった」
「すごいな、キミは」
鶴岡は、心底感心して言った。
今も光南高校に勤めているとは思っていなかったのもあり、正直、真奈の情報収集にはさほど期待していなかった。
それがまさか、たった一日でここまで分かってしまうとは――
まさに予想外の展開だった。
「まあ、ワタシの色香に惑わされた男子に教えてもらっただけだけどね。そのお礼にカラオケに付き合ってあげたんだから、彼らにしても役得もんでしょうけど」
真奈は冗談めかして笑い、それで、と言葉を続けた。
「どう? ツルちゃんも相手の顔を拝んでおきたくない?」
「ああ」鶴岡は頷いた。
「もちろんだ」