(三)ノ3
義行の車が走り去るのを見送り、鶴岡は歩き出した。
この辺りは、市の中心街から一駅隣の郊外である。
久しぶりとは言っても、たかだか二年。劇的に変わるものではなく、そこにある街並みは、記憶の中のものと違和感なく重なった。
それでもその二年の空白は確実に存在した。
些細な違いに気づく部分もあった。例えば、かつてそこにあったコンビニは、今では携帯ショップへと掲げる看板を変えており、通りを挟んだ向こう側の角は更地になっていた。
ただ以前にどのような建物が在ったかまでは思い出せない。
わざわざ更地にするのだから、次の用途は決まっているだろう。何が出来るのだろうか? などと思いを巡らせながら、鶴岡は歩いた。
やがて在来線の駅舎が姿を見せる。
なんら装飾性のない、簡素な造りの橋上駅。その陸橋を渡る。駅の南から正面口にあたる北側へと抜けた。
駅前はぐるりと一周できるサークル状の道となっており、中心には大きなケヤキがシンボルツリーとしてそびえる。
そこから放射線状に駐輪場、その外側がロータリーとなっていた。そして真っ直ぐに歩道を備えた二車線の道路へとつながり、両脇には平屋もしくは二階建ての低層の建物が並ぶ。
ここは、かつて毎日のように通った道だった。
古くからそこにあるもの、比較的新しく建て直されたもの。住宅や店舗が入り混じり、色も形もばらばらで、何の統一感もない街並みが続いている。
鶴岡は一本奥の小道へと入り、さらにもう一度、曲がった。
そうすれば、ほら、あの建物が目に入る。少しだけ距離を残して、立ち止まった。
平屋建ての小さな店舗。
かつてそれを、鶴岡はカフェと唄ったが、趣は昭和の喫茶店のほうが近い。実際、鶴岡の前は老夫婦が経営する純喫茶だったと聞いている。
積上げられた赤レンガの外壁が気に入り、即決で契約した居ぬき物件だった。
二年ぶりの対面。外観上の見た目の変化は些末なものだ。
短いアプローチに埋められた枕木。その脇に茂るシマトリネコ。飴色に艶めく重厚なドアと、赤レンガの壁に嵌められた格子窓。
今も変わらずに、その姿があった。
ただ、真新しくなった緑色のオーニングは、見知らぬ店名が白字で抜かれていた。
どうやら洋菓子屋になっているようだ。
それとシマトリネコが、随分と茂っているのが気になる。選定作業はしっかりやっているのだろうか。
この常緑樹は放っておくと、際限なく大きくなってしまうので、手入れはこまめにしておいたほうがいいのだが――
ふと気付いて、鶴岡は自嘲した。
そんな事を気にしても、もう意味がなかった。此処はもう、なんの関係もない場所なのだから。
三十を過ぎて、ようやく持てた自分の店だった。
取材を受けた雑誌に『隠れ家』と評されるだけあって、目立ちにくい場所にある小さな店だった。
調理場を囲うカウンターに五席と、テーブルを三つ並べただけの空間。
幸いにも評判は上々で、始めて一年ほどで軌道に乗った。
ただそうなると、コーヒーを丁寧に淹れたい鶴岡は、一人では回しきれなくなった。
学生アルバイトを入れ替えで何人か雇い、調理担当には当時、義行と結婚したばかりの香苗に入ってもらった。
その香苗が妊娠し、これから身重になるからと代わりに紹介してきたのが、高校時代の同級生だという由布子だった。由布子は高校卒業と同時に地元を離れていたが、この頃にまた戻ってきており、ちょうど働き口を探しているところだったという。
「店長さん、これからよろしくお願いします」
香苗の紹介なら間違いないだろうと雇うつもりではいたが、まだ雇うとは告げていない。なのに彼女は初対面の第一声、ハキハキとした声でそう挨拶をしてきた。
はっきりとした女性。
それが鶴岡が抱いた由布子の第一印象だった。そして、それはその通りだった。
フェミニンさなんてものは、コンクリートで固めて海の底にでも沈めてしまったらしい。
さばさばと男前な性格。分け隔てなく誰に対しても見せる気さくさ。
そんな彼女は概ね他のスタッフにも好意的に受け入れられ、すぐに店に馴染んでいった。
ただ一つ誤算だったのは、彼女は料理が出来ない、という事だった。
「はい?」
鶴岡は間の抜けた声で聞き返した。
「私、料理ってした事ないの。得意なんて一言も言った覚えがないわ」
確かにそうだった。香苗の代わりで紹介されたので、出来るものと思い込んでいたのだ。
会う前から雇うと決めていた為に、面接は形式上でしかなく、ろくに確認しなかったのは鶴岡のミスである。
ただ二十代も半ばを過ぎて、料理をした事すらないとは、さすがに想定出来るものではない。
ましてや高校卒業以来、ずっと一人暮らしだったはずだ。一体、どのような食生活を送っていたのか。
器用な子よ、というのが香苗からの唯一の触れ込みであったのを思い出し、彼女たちが結託した確信犯だったのだと、その時になってようやく気付く始末だった。
ただ雇ってしまった以上は、もう無下にも出来ない。これ以上は人を増やせるほどの余裕もない。鶴岡は仕方なく、閉店後に料理を教える事にした。
由布子もせっかくの働き口を失いたくなかったらしく、勤務時間外の特訓を受け入れた。
店の主力は、食事ではパスタとサンドイッチ。スイーツならパンケーキだ。
その他のケーキ類は、食パンを仕入れているベーカリーと契約しているので作る必要はない。
なので覚えるものはそう多くないのだが、彼女の料理未経験の自白には、嘘も誇張もなかった。
例えばゆで卵一つ取っても、電子レンジでやったらダメなの? と大真面目に聞かれた時は、眩暈する思いだった。
大雑把な性格。それでも確かに器用ではあったし、なによりも、彼女は本気で覚えようとしていた。
だから鶴岡も、由布子を見放そうとは思わなかった。それに正直に言えば、初めて会った時から鶴岡は、彼女に魅かれていた。
だから特訓は、楽しさの方が勝っていた。
それに彼女の態度は分かりやすく、見ていて飽きなかった。
上手く出来たと自信があれば胸を張り、失敗と自覚すれば背中を丸めて料理の判定を求めてくる。
鶴岡は、そんな彼女を特訓後にはコーヒーを淹れて労った。
由布子は鶴岡のコーヒーをとても好きだと言ってくれた。そして、二人でコーヒーを傾けながら過ごすこの時間も。
たくさんの話をした。他愛もない事ばかりだ。テレビタレントの誰が好きだとか、食べ物では何が苦手だとか――
それぞれが応援しているプロ野球チームが因縁のライバル関係にあり、子供じみた言い争いになったりもした。そんな程度の内容ばかりだった。
でもそこに退屈はなかった。いつの間にか日を跨いでいたなんてざらだった。
ただ、彼女を送り届けた後にいつも思った。何となくだが気付いていた。
彼女は自身の話をあまりしてくれない。どうして地元を離れていたのだとか、そこでどんな生活をしていたのか、とか。そういったに身の上話は意識的に避けているようだった。
そこに一抹の寂しさと不安があった。それでも鶴岡は、もう気持ちを抑えられなくなっていた。
ある夜、意を決した。
鶴岡のその勇気を、彼女は少し照れた様子で、うん、と頷いて受け入れてくれた。
それまでも充実して楽しい日々であった。それがさらに満たされるものとなった。
今にして思えば、それは夢のような時だった。
そう、幸せだった。
あの頃は間違いなく。