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唇歯輔車  作者: akisira
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(三)ノ2

 義行の愛車は、アパートに面した道路の隅に寄せて止められていた。黒いワンボックスタイプで、確か昨年から変わっていた。

 中古だと聞いているが、まめに洗車しているのだろう。ボディーの上を球状の雨粒が滑るように落ちていき、新車とそん色なく艶めいていた。


「それで、どこに行けばいい?」

 鶴岡が助手席に乗りこむと、義行は運転席でシートベルトを締めながら訪ねてきた。

 別に目的があったわけではない。鶴岡は少し思案してから言った。

「とりあえず、ヨシの会社の方へ向かってくれ。途中で降ろしてもらう」

 了解、と義行は車を発進させた。

 弟は兄にあれこれと問いかけてくるが、多くの答えを強要したりしない。今は反応があるだけでいい。そんな付き合い方をしてくる。

 かつて兄弟仲は良かった。お互いに遠慮を持たない友人のような関係だった。

 それが今ではどうだ。表面を取り繕いながら、そっと距離を測ってくる。

 後ろめたさに鶴岡の口は重かった。しばらくは沈黙が続いた。


 間欠ワイパーがフロントガラスの水滴をぬぐう。すぐにまた、小さな粒たちがガラスを濡らす。それをまたワイパーがぬぐう。その繰り返し。

 気まずい空気。カーオーディオから何か流れでもしていれば、多少は紛れるのだろうが、それは何故か切られていた。

 車内は静かで、エンジン音もあまり入ってこない。ワイパーの作動音が、メトロノームのように一定のリズムを刻み続けて、それが妙に耳についた。

 鶴岡は小さく息をついてから尋ねた。


「それで、母さんはどうなんだ?」

「どうなんだ、って?」

 聞き返してきた義行の声には、少し茶目っ気が含まれていた。鶴岡は、いや、と言いよどむ。

「相変わらずだよ」義行は口元に笑みを携えて言った。

「元気にしている。腰が痛いだの膝がどうしたのと愚痴るくせに、社交ダンスはやめる気ないらしい」

「そうか」

「会いにきたら? 気になるんなら」


 鶴岡は苦笑で濁した。どんな顔をして会えばいいのだろうか。

 こんな体たらくの息子を、母がどう思っているのか。直接聞いた事はないが、その答えは分かっている。

 母が鶴岡の今のアパートを訪ねてきた事は一度もない。


 義行は慣れた手つきでハンドルを切り、国道へと出た。通勤の時間帯なので、それなりに交通量は多いが渋滞するほどではなかった。車はスムーズに進んだ。

 やがて鶴岡が通っている本屋が見えたが、まだ開店前だ。そこで降ろしてもらっては、出かけた理由として不適切だろう。

 通り過ぎていく看板を仕方なしに見送る。


 名残惜しさに、ドアミラーへと目をやった。そこに映る後続車へと意識が向いた。

 それは瞬く間に大きくなった。型の古いセダンだった。

 タイヤは不自然に八の字に傾けられており、僅かな段差でも底を摺りそうなほど車高を落としていた。


 セダンは必要以上に車間距離を詰めてきた。義行は二車線の左側を走っている。

 義行に譲る意思がないのが分かると、セダンは一度、右側の車線に移って義行の車を追い越した。そしてまた、乱暴なハンドル操作で、元の車線に戻ってきた。

 随分と攻撃的で、方向指示器さえも出さなかった。義行の車の鼻先を掠めそうなほどの勢いだった。

 左側の走行車線の義行にその義務はないはずだが、揺ろうとしないワンボックスを邪魔に思い、腹を立てたのだろう。この強引な割り込みは絶対にわざとだった。

 なので義行は、強くブレーキを踏まざるを得なかった。タイヤがアスファルトの上で滑る。鶴岡の体は前へと引っ張られ、思わずダッシュボードに手をついた。


 目の前の信号は青から黄、そして赤へと変わった。だがセダンは、停車しなかった。それどころか、さらに加速させて交差点に突っ込み、あっという間にその姿が遠ざかっていった。


 鶴岡は義行の横顔に目をやった。視線に気付いた義行が、なに? と顔を向ける。

 その様子に、先ほどの車に対して憤った様子はない。鶴岡は、いや、と首を横にふって視線を逸らした。

 昔から穏やかで優しい子だった。そしてその性格ゆえに割を食いやすい。

 こんな兄の事など、知らぬ顔をすればいいのに――。そう思った。

「すまないな」

 鶴岡は無意識に口をついた。

「なにがさ?」

 朗らかな声で聞き返してきた。鶴岡はそれには応えず、「青になったぞ」と促す。

 義行は慌てた様子もなく前に向きなおり、静かに車を発車させた。


「なあ、兄貴」

 義行は少し口調を改めた。

「なんだ?」

「前に言ったやつ、考えてくれた?」

 その言葉に、鶴岡はうんざりと息を吐いた。

「オレが、ヨシの家にやっかいになるという話なら、考えを変える気はない」

「なんでさ?」義行は抗議の声をあげる。

「香苗の承諾は得てるし、子供らも兄貴には懐いてた。そりゃあ、あいつらが大きくなればあれだが、それはまだ先の話。当面の兄貴の居場所ぐらいどうにでも出来るよ」

 香苗とは義行の妻の名前だ。彼女はかつて、鶴岡の店で働いていた時期もあったので気心は知れている。

 それでも一緒に暮らすとなれば話は別だ。彼女も鶴岡の事情を知る者として、嫌だとは言いにくい。

 承諾とは言っても、その本心が別にある事ぐらい察するのは容易だ。

「これ以上、負担にはなりたくないんだ。ヨシは自分の家族を一番に考えろ」

「何言ってんだよ」義行は唇を尖らせ、語気を強くした。

「兄貴も家族だろ」

 いや、そういう事ではなくて、と言いかけて鶴岡は口を噤んだ。


 弟のこういった部分は、兄として愛おしい。だがそれは、多少の煩わしさを伴うものだった。

 父親は十数年前に他界した。母親はすでに独立した子供の世話にはならないと、ずっと独り暮らしをしていた。その母が、去年から義行の家に住みだした。

 義行は五年ほど前に一軒家を建てており、客間にしていた和室を母親に提供したと聞いた。

 依怙地な母がなぜ心境を変化させたのか。それは間違いなく鶴岡のせいである。

 いつまで経っても立ち直る気配を見せない長男に、母親は失望し、そして気落ちした。

 義行はそんな母を見かねたのだと思う。

 そして五人で乗るには手狭なコンパクトカーと、独身時代からずっと大事にしていたレトロなオープンカーが、今のこのワンボックスの車一台へと変わった。


 義行の負担は決して小さくないはずだ。妻と二人の子供を養い、母親を引き取った。家だけでなく車のローンも当然あるだろう。兄への差し入れは、彼の性格なら間違いなく、自分の小遣いを遣り繰りした中でやっている。そういう子なのだ。

 放っておけばいいのに。勝手に壊れた兄なんて。


 鶴岡は小さくため息をついた。そして気がついた。見ると前方で、車が群れていた。義行の車も緩やかに減速し、その群れへと加わった。

「おっかしいなあ」義行は首を傾げる。

「妙なところで混んでる」

 確かにその通りで、この辺りは信号が少なく、基本流れがいいはずである。

 ただもっとも、その理由にはすぐに見当がついた。前で列を成す車が、みんな方向指示器を出し、一つの車線へと寄っていくのが見えたからだ。

「事故のようだね」

 弟の意見に、鶴岡も同意した。そしてその通りに事故であった。少しずつ前に進み、二台の車が車線の一つを塞いで停車していた。


 事故を起こしてまだ間もないのだろう。救急車や警察車両の姿はなかった。

 いわゆるカマ堀り事故というやつだった。車の損傷は大したことなさそうだ。

 徐行しながら横を通り過ぎる。

 後方側面をへこませた車は、先ほど義行の車に割り込んできたセダンだと気付いた。

 おそらくはあの強引な運転を、その後もひたすら繰り返したのだろう。それが事故の原因だと察しがついた。


 どんな理由で急いでいたのかは知らないが、これなら流れに乗って走らせたほうが、よほど早く目的地に着いたはずだ。

 自分勝手な行動で事故を起こし、渋滞を招く。迷惑な話だ。鶴岡はセダンの運転手への心証が悪かったのもあり、内心で嘲ながら、その視線に侮蔑の色を加えた。

「あらら」

 横から義行が呟く。その声に振り返ってみれば、弟は事故現場に同情の目を向けていた。

 何か鶴岡は、急に己が矮小な人間に思え、恥ずかしくなった。


 事故車両を抜けると、また流れはスムーズになった。予想外の遅れを取り戻そうと、皆がアクセルを踏み込んでいる。そんな感じだ。

 鶴岡は義行にそっと、目をやる。無茶な運転が原因で引き起こされた事故渋滞。

 迷惑をこうむったにも係わらず、義行はその運転手にすら同情を寄せた。そんな心優しい弟に、こんな言葉をかけてみたら、どんな反応を示すだろうか。


 ――じゃあ、お前の言うとおりに、面倒をみてもらう事にするよ。


 安心するだろうか。する、だろう。だが、そこには必ず戸惑いの色が混じる。

 その事を兄は知っている。弟は兄の性格を知っている。兄は絶対に、この申し出を受けない。

 分かっているはずだ。ではなぜ言うのか。


 理由の推測は容易い。もちろん本気で心配しているのもある。

 だがそれとは別の部分で、己が良心の呵責に苛まれたくない、というのもまた本音なのだ。

 それは義行自身も気付かない、潜在レベルのものかもしれない。

 兄を心配する弟、というスタンスを保ちたい。こんな状態の兄を引き取らないのは、それは兄が拒絶するからだ。その建前がほしい。だから弟は申し出て、兄は受けない。


 それでいいのだと、鶴岡は思う。

 もう充分に気にかけてくれている。義行の気持ちは本物だ。そんな弟を心根が優しいと思う鶴岡の評に、なんら曇りはない。

 だから鶴岡は、これから義行が何度申し出てこようが、きっちり断ってやるつもりでいた。

 それが今の鶴岡が、兄として弟にしてやれるせめてもの事だった。


 鶴岡は弟から視線を外し、ドアの縁でほお杖をつく。

 窓ガラスに薄っすらと映る草臥れた中年の顔。その向こうで流れる景色に意識をやった。

 それは行動範囲が極端に狭くなった鶴岡にとって、久しぶりの街並みだった。


 ふと思いついた。

 気づくと「ここらでいい」と、ほぼ無意識に口にしていた。

 義行は頷いた。道幅が膨らんだバスの停留所に、車を寄せて停止させた。

 どこに行くのか、とは問いかけてこなかった。

 鶴岡は歩道に降りて立ち、ドアに手をかけて弟に向き直った。


「会社、遅刻しないのか?」

「ぜんぜん間に合うよ」

 義行は笑みを浮かべて、フロントガラス越しに空を見やった。

「傘は?」

 その言葉に鶴岡も顔を上へと向ける。

 頬の上で滴が、ポツリと弾けた。だがそれは、栓を閉めた蛇口から垂れた一滴のようなもだった。もう雨は上がっている。

「大丈夫だ」

「みたいだね」

 じゃあ、と互いに言って、鶴岡はドアを閉めた。

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