(三)ノ1
朝、目を覚ますと、またも真奈の姿はなかった。八時にはいくらか間があるだろうか。この部屋で正確な時間を知る術はないが、感覚的な狂いはさほどないはずだった。
いつものように流し台で顔を洗い、薄めた石鹸水で口をゆすぐ。そして座卓の脇に腰を下ろして、煙草を引き抜き火を点けた。
真奈は昨夜、西村に関する情報を収集してくると言っていた。今朝姿がないのはその為だった。
行先は光南高校。かつて由布子が通っていた地元の公立高校だ。
教員は数年ごとに転勤を繰り返すと聞くので、今も西村がそこにいるとは思えないが、何かしらの手がかりは掴めるかもしれない。
ちなみに鶴岡も同行を申し出たが、「邪魔よ」の一言で却下された。
まあ、それはその通りだった。
真奈だけならともかく、中年男が一緒になって校内をうろつけば、どうしても怪しく目に付いてしまう。
言いようは悪いが、言い分は正しい。
咥えていた煙草の灰が長くなる。それを取って置いたビールの空き缶の口に落としながら、真奈の事を考えた。
あけすけとした口調で、物怖じしない性格。こまっしゃくれた態度。自分の中のルール、というか己の欲求に素直に行動する。そんな印象を受ける。
ただそれは、どこかわざとらしさがあった。彼女の本質は別にあるような、そんな気がした。
演じている、といった感じだ。
だからか、インモラルな子だとは決して思えない。なのに、簡単に『殺す』という言葉を使う。そこには気負いもなければ迷いもない。
なぜ? と思う。
なぜ少女は、鶴岡に西村を殺せと唆したのか。なぜそれを手伝うと言い出したのか。
遊び半分なのか、冗談なのか。
いや、とすぐに否定する。
その物言いとは裏腹に存外、本気だ。なぜだがそう感じた。だから鶴岡はその気になったのだ。
音がした。玄関ドアが二度、ノックされた。思考が中断した。
「兄貴、起きてる?」
屋外から控えめの声が届いた。この部屋を訪ねるものなど限られている。誰であるのかすぐに分かった。
鶴岡は束の間考え、短くなった煙草を空き缶の中に落としてから応えた。
「空いている」
今朝、真奈が出て行ったのだから、施錠はされていない。
ドアが開き、スーツに身を包んだ男が入ってきた。弟だ。年は三つ違いで名前を義行といった。
「おはよ」義行は靴を脱いで上がり、匂いに気付いたのだろう。
「タバコ? めずらしいな」と、鼻をひくつかせた。
「ちょっと、な」
鶴岡は曖昧に応えながら空き缶を座卓の上に置き、弟を見上げた。
やはり兄弟。背格好はよく似ている。顔立ちも並んで見比べれば、血のつながりを感じる程度に共通点を見つけられる。
ただ弟のほうが、周囲に真面目な印象を与えていそうだ。
ふーん、と義行はさして興味を持つでもなく、「あ、これ、ここに置いとくよ」と手に提げていたビニール袋を流し台の上に置いた。
「すまないな」
鶴岡は大いに後ろめたさを感じながら、それを甘受した。
中身は確認するまでもない。ここに来る途中のスーパー等で買ってきたものであろう、何食分かの弁当が入っているはずだ。稀に少額ながら現金を忍ばせている事もある。
義行はこんな愚兄に愛想を尽かしたりしなかった。時折、こうして差し入れを持って訪れてくる。
有り難いが、当然心苦しさもある。正直に言えば、放っておいてくれたほうがよほど気は楽だ。
だがそれを口に出来る立場でないと、それも承知している。弟の支えがなければ、鶴岡の生活はたちまち破綻してしまうのだから。
「助かるよ」
口先でつぶやくように感謝を述べて立ち上がると、鶴岡は押入れを開き、着替え始めた。
「なに、出かけるの?」
「ん、ああ、まあな」
鶴岡は羽織った開襟シャツのボタンを留めながら、義行のほうへ顔を向けた。
「時間、大丈夫なのか? 遅刻するぞ」
会社への行きしなに、ここへ寄っていることを鶴岡は知っている。義行はチラリと腕時計に目を落とした。
「まだ、大丈夫だよ」と言った。
鶴岡は肩をすくめて着替えを終え、浴室に入って洗面台の鏡の前で手早く髪を撫でつけた。身支度を済ませて部屋に戻ると、義行を横切り玄関で靴を履く。
「それで、どこに行くんだい? こんな朝早くから」
義行の問いに鶴岡は一瞬動きを止めたが、結局応えなかった。まさか弟から逃れるための方便だとは言えない。
「車で送っていくよ」
「いや、結構だ」
鶴岡は玄関ノブに手をかけるとドアを押し開けて、外に出る。そこで気付いた。
街が濡れていた。
空を見上げれば、どんよりとした雲から小さな滴が音もなく落ちてくる。昨夜からの雨がまだ残っていた。
だが遠くの空は雲の切れ間が見えている。もうしばらく待てば上がるだろうか。
背後から、ぽんと肩を叩かれた。
「ほら、兄貴、行くよ」
朗らかな声を残し、鶴岡の脇を抜けて弟は先に行く。
無愛想な兄の態度にも特に気分を害した様子は見せない。こんなものだと、慣れてしまったのだろう。
鶴岡は諦めて弟の背中に付いて行った。