(二)ノ7
空は、鶴岡がアパートに帰り着くまで、我慢してくれなかった。あと少しという所で最初にポツリと控えめに頬を濡らし、やがて遠慮なく一つ、また一つと肩や頭の上で跳ね上がった。
近所の家の庭先では、プランターの中で群れていたマリーゴールドの黄色い花弁が、機械仕掛けのように小さなお辞儀を繰り返しはじめる。
鶴岡は小走りに駆け出した。
熱を持ったアスファルトに染みた雨粒が気体となり、蒸れた匂いを立ち上げた。
空は色を失い、墨絵のごとく濃淡のみで描かれ、筆からこぼれる滴のようにシミを次々と路上に増やしていく。
やがて、水を打つ音に辺りが包まれる。
瞬く間に黒く塗りつぶされた道を鶴岡は駆け、急ぎアパートへと戻った。
そしてそのままの勢いで、鉄骨階段を上り、服の濡れ具合を気にしながら玄関ドアを開けて中に入った。
「おかえり」
思わぬ声が掛けられた。見ると、真奈が畳の上でベタ座りで笑みを浮かべた顔を向けていた。
その途端、鶴岡の心は複雑になった。受容と拒絶の相反する感情が同時に去来した。
「なんだ」
鶴岡は靴を脱ぎながら、整理がつかぬままに言った。
「また戻ってきたのか」
真奈は、あら、と唇を尖らせる。
「ワタシが居たいだけ、居てもいい。そういう約束よ」
「お好きに」
あれは約束というより脅迫だろうと思いながら応え、少女の脇を大股で抜けて窓を開けた。
今朝干した洗濯物を確認する。薄手のものばかりだったので、薄曇りでもしっかり乾いており、軒のおかげで雨の被害は少なくすんだ。
急いで取り込むと、窓を閉じて腰を下ろし、一枚一枚丁寧にたたんでいく。
慣れた手つきからか、あるいは似つかわしくない几帳面さに対してだろうか、へえー、と真奈は感心したように唸った。
鶴岡は、たたみ終えた洗濯物を押入れにしまい込み、その場で真奈に背を向けて横向きに寝ころがった。
「ねえ」と、背中に真奈の声がかかる。
「お昼まだでしょ? お弁当買ってきた。食べよ」
鶴岡は無視をした。自分の領域にお構いなしに入り込んでくる少女に、どう対応すべきなのか、まだ決めあぐねていた。
しばらくの沈黙が間に落ちて、やがて、ふんと鼻を鳴らすのが聞こえた。
「せっかく待ってたのにさ」
不満気な声とともにビニール袋を漁る音と、プラスチック容器が擦れる音。
「いっただきまーす」
間延びした声がして、真奈は一人で食べ始めた。揚げ物の香りが漂い、空っぽの胃を誘惑する。
控えめな咀嚼音。ゴクリと喉を通る音。
屋根を叩く雨が強くなり、それらの音がかき消されるようになった。
本降りになったようだ。積乱雲の中でくすぶった雷が、不均等なリズムで不穏な音を頻繁に鳴らす。
「なあ」鶴岡は背中を向けたまま話しかけた。
「昨夜言った事、本気なのか?」
「昨夜のって?」
真奈は聞き返えしてきた。『殺す』という言葉を言いあぐねて、鶴岡は押し黙った。
雨音が少し弱まった。強弱を繰り返し安定しない。ペットボトルの蓋をねじ開ける音が混じり、真奈は喉を鳴らした。ふうと息をつく。
「本気だよ」
真奈の声が聞こえた。途端に心臓が強く叩かれ、ドクンと鳴った。それを合図に体内を巡る血流の動きが早くなる。ジワリと体が熱を帯び始めた。
「何が、さ」
平静を装い、恍けてみる。
「殺しちゃうって、話でしょ? 一緒にさ」
鶴岡がためらった言葉を、事もなくさらりと真奈は口にした。感情が荒れた。
「キミはっ!」
鶴岡は握り拳を畳に叩きつけるようにして起き上がると、振り返って真奈を睨み付けた。
「どういうつもりなんだ。なぜ、そんな事を軽々しく言う」
真奈は薄い笑みを浮かべて応えない。
「一体、何者なんだ?」
なぜ一緒に殺そうなどと言うのか。鶴岡は目の前の少女の正体が見えず、不気味だった。
突然、轟音が空間を支配した。
部屋全体が震撼し、何かが裂けるような音で耳を劈いた。
真奈が短い悲鳴を上る。
その拍子に、手にしていたペットボトルを滑らせた。床に転がり、こぼれた液体が畳の上でシミを広げていく。
どこか近くで落雷したようだった。一瞬の衝撃は凄まじいものだった。
また、ザーと雨の音が強くなった。
真奈は慌ててペットボトルを拾い上げると、浴室へと走りタオルを手にして戻ってくる。
「あーあ、ゴメン。汚しちゃった」
真奈はタオルで畳を拭いた。拭きながら「家出少女だよ」と言った。先ほどの問いに対する答えだ。
「カミナリに驚いちゃうような、いかにも可愛らしい中学生。って感じでしょ?」
おどけて小首を傾げて見せる。
鶴岡はそんな彼女をしばらく睨み付けていた。睨みながら、ふと気付く事があった。
なんだ、と思わず苦笑する。
この部屋に、わざわざ盗みに入るような物好きがいるとは思っていない。それでも鶴岡は、出掛ける際には必ず施錠する。
なのに今朝は鍵を掛けなかった。あえてしなかった。
ひょっとしたらと思ったのだ。留守中に戻ってくるかもしれないと。
つまり期待していた。結論は、既にでていたのだ。
鶴岡はのっそりと立ち上がった。真奈の傍に寄って、胡坐をくんだ。
座卓に置かれた弁当に手を伸ばす。コンビニで買ってきたもののようだ。
「エビフライ弁当ねえ」
「なによ、文句あるの?」
「いや」
鶴岡は首を横にふって、フタを開けた。
「美味そうだ。頂きます」
割り箸を手にして小さく拝んだ。そして冷えた白米を頬張った。
それを傍らで見つめる真奈が破顔した。
*
雨がふりしきる。
雷は遠ざかり、勇ましかった雷鳴も今は耳に届かない。
テレビも何もないこの部屋は、篠突く雨に雑他な音は洗い流され、ただひたすらに水の打つ音に包まれていた。
鶴岡は目を閉じて耳を澄ませた。嫌いになったはずの雨音も、今は悪くない。
何度も何度も思い起こしてしまうあの光景。これまで気付かぬふりをしてきた感情。
心を濁らせるだけのそれに、されるがまま身を委ねた。
薄暗くなった部屋。その片隅で真奈は寝ていた。
ほっそりした背中。一定のリズムで肩が小さく動く。本当に寝入っているのか、あるいは単に寝たふりなのか。
声はかけない。鶴岡はただ黙って、その背中を見つめた。
この少女が、膝を抱えて動こうとしなかった鶴岡の手を取り、引っ張ろうとしている。
果たしてそれは、救いへと導いてくれるのか。それとも破滅へと誘うのか。
どちらにしても、と鶴岡はそっと笑みを漏らした。
今のままでいるよりかは、少しだけ生きる意味があるような、そんな気がした。