(二)ノ6
「私、由布子さんの事、好きです」と、秀美は言った。
「でも、今は怒ってます」
「怒ってる?」
「はい、マスターは私が由布子さんと仲良かったから、だからこの件を知っていると思ったのでしょう?」
「ああ、まあ」
「それ違います。由布子さん、お店やめた時も何も話してくれませんでした。私だって傷つきました。その上、町中で偶然、由布子さんが見知らぬ男性と一緒にいるところを目撃して……。それで後日問い詰めたんです。ショックでしたよ、マスターと由布子さんがそんな事になっていたなんて」
「そうだったのか」
「はい、だから怒ってます」
それはフリではなく、本気で腹を立てているようだった。鶴岡は束の間考え、言った。
「由布子は、本当にキミが好きだったはずだよ。さっきも言ったが、由布子はキミの事をよく話題にした。楽しそうに聞かせてくれた。可愛い妹が出来たと思っていたのだろうね。だから、なんと言うかのな――。その、許してやってほしいんだ。キミに嫌われたままでは、由布子も、うかばれない、から」
「庇うのですね、由布子さんの事。恨んでいないのですか?」
秀美の詰問口調に、鶴岡は思わず苦笑した。
「裏切られた、という思いはあるよ。でも、恨んではいない」
「マスターは今でも由布子さんを?」
「ああ、愛している」
口にしてみると、今もそこには何の迷いもなかった。
消え入るような声で、そうですか、と秀美がつぶやいた。そして、でも、と言った。
「お人好しが過ぎませんか? 誰よりも怒っていいはずなのに。それこそ私なんかよりも、もっと」
鶴岡は曖昧な表情を浮かべて、目を閉じた。
ふと、頬に触れた風に雨の匂いがした。あの日の匂いと似ていた。
土砂降りの雨の夜、傘もささずに店の前で佇立していた。
慌てて店を飛び出し、駆け寄った鶴岡に、彼女は「ダメになっちゃった……」と、やつれた笑みを浮かべた。
かつて見た事のない弱々しい姿。彼女の体を強く抱きしめたかった。
しかし思いとどまった。伸ばしかけた手を、心で無理やり押さえつけた。
なぜ受け入れられなかったのか。
底なしの後悔の沼にどっぷりと嵌まり、抜け出すどころか指一本動かす事も叶わない。
ただそれは、その後の結果を知るからであって、どうあってもあの時の自分が彼女を受け入れないのだと理解していた。
同じ場面を何度やり直しても、必ず同じ事を繰り返す。分かっていた。
もう一度、深いため息をつく。
「いま、どうしているのかな、そいつは」
「相手の人、ですか?」
頷いて見せると、秀美は首を傾げた。
「どうでしょうか? ただ由布子さん、何も残さなかったみたい。なので不倫とかそういうのがバレていないのなら、普通に教師を続けているかと思いますけど」
「幸せなんだろうな」鶴岡の口元が卑屈な笑みに引きつる。
「奥さんがいて、子供もいて、ちゃんと仕事もして」
「え? ええ、たぶん……」
「由布子がいなくなって、どう思ったのだろう。清々したとか。それとも捨てた女の事なんて、何も思ったりしないのかな?」
「マスター?」
言葉の雰囲気に、不穏なものを感じ取ったのだろう。秀美は不安気な目を向けてきた。
「いや、なんでもない。大丈夫だ」
取り繕って笑って見せる。秀美はその不安さを表情に残したまま、腕にはめた時計に、チラリと視線を落とした。
「ああ、すまなかったね。時間を取らせた」
「いえ、それはぜんぜん」
秀美は慌てた様子で首を横にふる。ブンブンと大げさな仕草だ。
見た目は大人びても、そういった所はアルバイト学生であったあの頃のまま、まだ子供っぽさを残していた。
少しだけ懐かしい気分になった。
「さあ、もう仕事に戻りなさい」
鶴岡が促すと、秀美は一瞬きょとん顔になり、それから、アハッと笑った。
「なんか久しぶりです。マスターにそう言われたの」
「ああ」
鶴岡もつられて、小さく笑った。
店は飲食店だったので、客が一人もいない時間帯も生じる。そういった時に限るが、秀美は由布子や他のスタッフとのおしゃべりに夢中になり、つい作業の手が止まったままになる事がしばしばあった。
給仕だけが彼女の仕事ではない。洗い物に下ごしらえの手伝い、買い出しなど、やる事はいくらでもあるのだ。
そこで鶴岡は、先ほどの言葉で窘める。
秀美もその時の事を思い出したのだろう。
「マスターにそう言われたら、お仕事しないわけにはいきませんね」
秀美は笑みを残したままベンチから立上がると、鶴岡の正面に向き直った。
「あの、私で力になれる事があれば、いつでも言ってください」
「ありがとう。是非そうさせてもらうよ」
鶴岡は穏やかな声で、淀みなく言った。
「ウソです」
「え?」
「今の言い方はあれです。マスター目当ての女性の常連さんに遊びに誘われたとき、そんな感じでしたよね。その気もないくせにその場の調子合わせで適当に受け流して」
ああ、いいですね、タイミングが合えば是非そうしましょう、と秀美は声を作った。どうやら当時の鶴岡の物言いを真似したようだ。
「ん?」鶴岡は言ってから、「そうだったかな」と苦笑した。真奈といい秀美といい、どうしてこうも簡単に見透かしてしまうのか。
「また連絡させてもらうよ。本当だ」
態度を改めて、目の前に立つ秀美の顔を見上げて言った。彼女からはもう少し何か話が聞けるような気がした。
今度は納得がいったのか秀美は頷いて、私が働いているところですと名刺を手渡してから、その場を去った。
名刺の彼女の名前に肩書は添えられておらず、英語表記の社名からは何の業種か伺えなかった。ごく控えめなサイズの文字で、市の中心部に近い住所と、オフィスビルの名前が記載されてるだけだった。
名刺を胸ポケットにしまいながら秀美の後ろ姿を見送る。鶴岡は力が抜けたように、大きくベンチの背もたれに体を預けた。
秀美と会い、当時の話をして、充実していた頃の懐かしい空気に触れた。それだけに今の自分の姿が情けなく思える。
秀美の背中が見えなくなると、入れ違いに親子連れが遊歩道を歩いて向かってきていた。
子供は園児の制服を身にまとった可愛らしい女の子だった。右手は父親と、左手は母親と手をつないでいる。
その三人に笑顔がはじけた。女の子が両足を浮かせ、ぶら下がるように体重をかけたのだ。哄笑の声が和となって暖かく響いた。
父親が通り過ぎる際に軽く会釈を寄こし、母親もそれに倣った。二人とも鶴岡よりも明らかに若かった。
平日の昼間に独り、ベンチにもたれるみすぼらしい中年にも係わらず、夫婦の穏やかな表情に変化の色はなかった。
幸せな空気がこの親子を包んでいた。
鶴岡も頭を下げた。ほんの小さく。そんなささいな返しにも、特に気分を害した様子もなく、親子は通り過ぎていく。
三人の背中が遠ざかったのを確認してから、鶴岡は煙草を取り出し、火を点けた。ため息ともに煙を吐き出す。
西村と言う男も、あんな感じの家庭なのだろうか。だとしたらなんと幸せなものか。
ひどく不公平に思えた。これは妬みだ。それは重々承知している。しかし……
――殺しちゃおうよ。
また少女が耳元で囁く。
笑った。
可笑しくなった。もう振り払う気にはならなかった。
ふいに、空が響いた。見上げると、灰を混ぜたようなまだら模様の雲が、いつの間にかどんよりと厚くなっていた。
その雲からゴロゴロと警告音が鳴り、そしていきなり空がフラッシュした。それからまた鳴いた。これは一雨きそうだった。
そういえば、先ほどの親子連れは傘を持っていなかった。
降り出す前に帰り着くといいな。そんな事を思いながら、鶴岡は深く煙草を吸い込んだ。