(二)ノ5
約束の時間に少し遅れたが、藤井秀美の姿はまだなかった。
鶴岡は遊歩道の脇に設けられた木の柵に体を預け、ため池を見るともなしに眺めていた。
曇天の空を写し取った水面は薄暗く、時折、風に煽られて鱗模様を描いて波立せていた。
真昼間であるにも関わらず、景色はシェードカラーに塗り重ねられ、池の向こうの観音山は、古びた絵画のようにくすんで描かれる。
昨日ほどではないが気温は高く、湿り気を含んだ空気がじっとりと体にまとわりついた。
そんな退屈で不快な天気が原因か、水面に佇む二羽のオシドリも、倦怠期の夫婦のような剣呑さを漂わせていた。
「マスター?」
伺うような声。その声に振り返れば、ベージュのパンツスーツに身を包んだ若い女性が立っていた。
「ああ、やっぱりマスターだ」
藤井秀美は、ほっとするように表情をゆるめ、お久しぶりです、と頭を下げた。
「久しぶりだね」と鶴岡も応じた。
藤井秀美は、彼女が大学生であった頃に三年ほどの間、鶴岡の店でアルバイトをしていた。
特に美人というわけではないが、愛嬌があり、周囲から好かれていた。店をたたんだ時、彼女は四年生だった。
その後、彼女がどうしていたのか鶴岡は知らないが、今の様子を見るに、どこかに会社勤めをしているようだ。
顔を上げた秀美は鶴岡の姿を見つめ、すぐに眉根を寄せた。
「痩せましたね。と言うより、やつれてる。顔色も悪い」
「心配いらない」
鶴岡は顎に手をやる。ザラザラに伸びた髭の感触。口の周りの肉は削げ、頬は確かにこけていた。
「無理です、心配します」秀美は表情を曇らせたまま首を横に振る。
「私は見ているんですよ。あの頃のマスターを」
「ああ」鶴岡は苦笑いを浮かべた。
「そうだったね、すまない」
「そんな、謝らないでください。それより今はどうされているのです?」
「どうにか、やってる」
曖昧に濁した。
「――そうですか」
秀美は少し寂しげな表情になったが、それ以上は追及してこなかった。
不快なだけのはずの空気に、何やら甘い花のような香りが混じって漂った。それは秀美からのようで、以前の彼女からはしなかった。香水と、化粧品が合わさったものなのだろう。
二年分大人びた秀美の姿を見て、美人ではない、という評価は改めるべきだと鶴岡は感じた。
髪はあの頃より短くなっていた。肩の上で毛先が切り揃えられ、明るめだった色が今は黒く落ち着いている。
施された化粧はさりげなく、顔立ちは幼い丸みが影を潜め、以前よりもシャープに、そしてどこか知的な印象を与えるようになっていた。
女性はわずかな時間と、少しばかりのコツでいくらでも変身すると聞くが、まさにその体現者が目の前にいた。
綺麗になったね、という言葉が込み上げてきた。だがそれはガラにもない台詞だと、ラムネ瓶のビー玉のように、シャイな心が喉元で詰まらせた。
そんな自分に胸中で苦笑しながら、そばのベンチに顎をやり、秀美を促した。
秀美は素直に従い、ベンチに腰かける。鶴岡もその隣に座った。
「でも、驚きました。まさかマスターから連絡がくるなんて」
「良かったよ。携帯の番号が変わっていなくて」
秀美はクスリと小さな笑みを浮かべて、「由布子さんの事ですか? お話って」とすぐに口元を引き締めた。
鶴岡は頷いて見せた。
「キミは由布子とは仲が良かった。由布子はよくキミの話をしてくれた」
「そう、ですか。うん、そうですね。確かに可愛がってもらっていました」
「由布子はオレをフッて違う男に走った。キミはその相手の男の事も知っているね?」
「マスター」秀美は辛そうな声を上げた。
「話してくれないか?」
「その話を聞いて、どうなさるつもりです?」
「どうもしないよ」鶴岡は無理に明るい声を出した。
「ただ、恥ずかしい事だが、実は未だに引きずったままなんだ。いつまでもこれでは駄目だろ? もういい加減、踏ん切りをつけないと。だからその為にちゃんと知って、気持ちを整理したい。そう思ったんだ。事実を受け止めたい。うん、ただそれだけの事なんだよ」
用意しておいた台詞だが、言っていて空々しい。嘘が嘘くさく聞こえないか心配だった。
秀美のほうへ顔を向けると案の定、彼女のその目は、鶴岡の言葉を信じてはいない様子だった。
秀美は鶴岡の視線から逃れるようにうつむいて、しばらく考え込んでいた。
「詳しく、知っているわけではないんです」
「構わないよ。教えてもらえないかな?」
「大丈夫なのですね?」
顔を上げた秀美は、今度は先ほどとは逆に鶴岡の目を覗き込み、心を探ってきた。鶴岡はニッコリと笑って頷いて見せた。
納得した、とまではいかなかったのだろう。秀美は正面の池に視線を移して、なおも思考を巡らせて迷っている様子だ。
なかなか口を開こうとしない。このまま仕事に戻りますと、切り上げられるのではないかと心配になってきた。
今は何時だろうか。鶴岡が時計を求めて周囲の様子を伺いだしたとき、ようやく秀美は、話す、という決断をしてくれた。
「その相手の方を『西村さん』と、由布子さんは呼んでいました。年は確かマスターと同じぐらいだったように聞いています。店にお客さんとしてやってきたのが出会いだったと――」
そこで秀美は「いえ」と区切り、「正確には再会だったようです」と言い直した。
「再会?」
「ええ、西村という人は高校の教師で、由布子さんはその教え子だったそうです。それが、マスターのお店で偶然にも再会した」
鶴岡は大きく息をついた。
二人の関係の始まりが、まさか自分の店だったとは――。
なんとも言えない気持ちになる。だが大丈夫と言った手前、その演技はしなくてはならない。
「なるほど」鶴岡は努めて冷静に頷いた。
「かつての恩師との偶然の再会。それで盛り上がって、急速に仲を深めたというわけか」
「もう言っちゃいますね。焼けぼっくいに火がついた、のほうが正しいです」
「ん?」と鶴岡は声を上げて、一瞬遅れて秀美の言葉の意味を理解した。
「それって、まさか、つまり」
言いよどむ鶴岡に、秀美は、ええ、と頷く。
「お二人はかつて付き合っていたみたいです。教師と生徒の秘密めいた恋。それが卒業と同時に終わって、十数年後に再び始まった」
鶴岡はどう反応すべきなのか分からなくなった。秀美の言葉が、由布子とその西村の男女の関係を、妙な生々しさで卑猥に想像させられた。
心を覆い尽くすもの――。
それは、まぎれもない嫉妬。
どす黒く、醜い。
「あの……、大丈夫、ですか?」
秀美の向ける心配そうな視線を、鶴岡は手を上げて遮った。もう片方の手で自分の顔を覆い隠す。
今の自分がどんな顔をしているのか、鏡を見るまでもなく分かる。薄っぺらな演技など、もう出来そうになかった。
「続けて」
でも、と言いよどむ秀美に苛立ちを覚えた。
「いいからっ!」
つい、声を荒げた。
怯む秀美の様子を見て気付き、鶴岡は自分を取り戻した。
「あ、いや、すまない。今のは八つ当たりだった」
「いいんです」秀美は首を横にふる。
「聞いてて、辛いですよね」
鶴岡は口元をゆがめるように笑って、「辛い」と本音をこぼした。
「でも、続けてくれ。そんな二人がなぜ半年程度で終わったんだ」
鶴岡の頭の中にまた、雨に濡れる由布子の姿が思い浮かぶ。そしてやはり、胸が締め付けられた。
ただフラれただけなら、壊れたりしなかった。
由布子が再び鶴岡の前に姿を見せ、鶴岡はそれを受け入れられなかった。結果、由布子は死を選んだ。
その後悔の念に、心をつぶされたのだ。
真奈という少女に会い、由布子の事を話した。そして囁かれたあの言葉が、耳にまとわりつく。
ずっと目を背けてきた。怖かったのだ。
その男に一度でも意識を向けてしまえば、自分がどのような感情を抱くのか。それが分かっていたから。
だから自分ばかりを責めて、内に籠った。
ただ、もう、それすらも無理になった。あの子のせいで。
真奈が唆すから――
その男が気になって仕方なくなった。もう我慢がきかない。
だから多少なりとも事情を知るであろう秀美に会おうと思った。
しかしその秀美は、首を横にふる。
「それは――。男女の事ですから。そこまでは」
「そうか」
落胆の色を見せる鶴岡に、秀美は「でも、一つだけ」と心当たりを口にする。
「相手の人には家庭があります。お子さんもいるのだとか」
つまりは不倫関係にあったという事だ。ただ鶴岡と同年代と聞いたからだろうか、あまり驚きはなかった。
「ああ、しかし、それは由布子も」
「ええ、承知の上、ですよね」
初めから分かっていた。
分かった上での障害なら、鶴岡を捨ててまで走っていった由布子がそこに躓くとは考えにくい。
何か別の理由があるように思えてならなかった。