(一)ノ1
頬が熱かった。陽光が瞼を透かし、なお眩しかった。
微かに人の気配がする――
鶴岡は、そっと目を開けた。そしてすぐに顔を顰めた。光束がいきなり、矢のように鋭く刺してきたのだ。
頭の中を強く刺激され、逃れようと眉根を寄せたままの顔を横に向けると、今度は葉先がチクチクと頬に触れた。
青草の匂い。これにはもう鼻が慣れている。辺りは一面に芝生が広がっていた。
公園内にある大きなクスノキ。その麓で鶴岡は寝そべっていた。
しかし今は日差しにさらされ、クスノキの枝葉が落とす影は、鶴岡のすぐ真横だった。
傍から見れば間の抜けた光景だが、言い訳をすれば眠りに落ちる前は確かに影の中だったのだ。
どうやら今日は、普段より眠りが深く長かったようだ。
影は昼間から惰眠を貪ってばかりの男に嫌気がさしたらしく、時間の経過とともにそっと鶴岡から逃げてしまっていた。
そしていつからだろうか、傍らには誰かが座っていた。
「ああ、やっと起きた」
その誰かが言った。見ると十代半ばほどの少女だった。
長い黒髪が肩からさらりと落ち、白い肌の整った顔を少しだけ隠した。彼女との面識は一応、ある。
「おはよ。ずいぶんと眠っていたみたいだね」
柔らかく、若干の気安さを含んだ口調。
しかし鶴岡は、ふんと鼻を鳴らした。少女の言葉を無視し、寝返りをうって背中を向けた。
有難くない再会だ。少女と出会ったのは今日が初めてで、これが二度目の顔合わせ。そして鶴岡の心証は最悪だった。
昼間に本屋でいきなり声をかけられたのだが、その際に理不尽にも臀部を思いっきり蹴り上げられたのだ。
さらには三人組みの高校生に追い掛け回され、挙句に警察官から詰問される始末である。
とにかく彼女のせいで散々な午前だった。だからもう、関わりを持ちたくなかった。
なのに少女のほうは、鶴岡の思いなどお構いなしだ。
ねえ、ねえ、と指で肩のあたりをつついてくる。
「相手してよ」
鶴岡はその指を肩で邪険に払ってから、「断る」と憮然とした声で応えた。
「なんで?」
「ケツが痛い」
もちろん痛みはとっくにないが、初対面でいきなり蹴られた事には少し根に持っていた。
少女は、アハハと笑い、笑い声を残したまま「ゴメン、ゴメン」と謝った。
「なでてあげようか?」
「やめろ、セクハラで訴えるぞ」
少女はまた笑った。そしてなおもその場に居座った。立ち去るつもりはないらしい。
鶴岡は胸中でため息をついた。何故、こんな草臥れた中年男に構ってくるのか。とにかく放っておいてほしかった。
ただ、少女はそれから話しかけてこなくなった。黙ったままで動きもない。
沈黙の空気が居心地を悪くする。邪険にしすぎたか。
考えてみれば相手は子供で、大人気がなさ過ぎたかもしれない。
心に芽生えた罪悪感を追い出そうと、鶴岡はもう一度、今度は実際に出してため息をついた。
息をついた事で、先ほどから目に映るものに意識を向けた。視線の先のやや離れた場所で、老人が芝の上で胡坐をくんでいた。
薄汚れた格好をした老人は、鶴岡が眠りに落ちる前にはいなかった。ただ何度かこの公園で見かけた事のある顔だった。
老人はどこかで拾ってきたものなのか、拠れた短い煙草の吸殻に、ガスのないライターで火を点けようと、粘り強く何度も続けている。
「なあ」と、鶴岡はなんとなく口にした。
「タバコ、持ってるか?」
少女に問いかけるのには明らかに不適切なものだったが、意外にもあっさり、うん、と返ってきた。
「吸う?」
「ん、あ、ああ、まあ」
鶴岡は曖昧に返事をした。煙草は十年も前にやめている。別に吸いたいわけではなかった。
本当に、ただ何気なくだ。
まっさらな煙草をあの老人にあげてみたい、そう思ったに過ぎない。しかし同時に、老人がそれを望まないであろう事にも気付いていた。
背後で少女が何やら物を漁る気配があった。カチッ、と音が聞こえ、そのあとに後頭部のほうから手が伸びてきた。
はい、という声と同時に、フィルターが鶴岡の口に差し込まれた。煙草の先端にはすでに火が点いている。
せっかくなので、そのままフィルターを吸い、煙を肺へ送り込んでみた。
久しぶりだ。喉元をいがらっぽい感触が通った。そしてすっと、冷えたようなものが後を追ってきた。メンソール入りだった。
「吸っている間は相手になるよ」
鶴岡が煙を吐き出しながら言うと、再び後頭部のほうから手が伸びてきた。今度は白い小ぶりな箱と、ガスライターが目の前に置かれた。
「全部、あげるよ」
少女が言った。
鶴岡は白い箱を手に取り、中身を確認した。数本抜き取られただけで、まだたっぷりと残っていた。
「興味本位で試してみたけど、何が美味しいんだか」
「そうか」
「うん、だから」と、少女は言った。
「それ、全部吸い尽くすまで相手してね」
鶴岡は思わず苦笑を漏らした。少女の勝ち誇ったかのようなその物言いが可笑しかったのだ。本人は上手い事を言ったつもりなのだろう。
これはただの屁理屈。だが効果はあった。
鶴岡の気が変わった。
鶴岡は咥え煙草で上体を起こし、少女と肩を並べた。そして少女の言葉を待った。
しかし少女は、退屈そうに空を見上げているだけだった。何か目的があったわけではなさそうだ。
鶴岡に少女の興味を惹くような話題を提供できるはずがない。そんな特殊能力は持ち合わせていない。
なので鶴岡も、黙ったまま空を眺めた。
昼間のような青さもない。夕暮れのような赤みもない。ただ色を失っただけの空。なおもしつこく、日の光だけがやけに強かった。
雲は薄かった。この様子なら今夜は雨は降らないかな。そんな事をぼんやりと思った。
いきなり、腹の虫が鳴った。感覚が麻痺しているので、空腹感自体はあまりないが、時々体が栄養が足りないと悲鳴を上げる。
少女に聞かれただろうか。
すぐ横にいるのだ。この距離なら当然聞こえたはずで、そう思うとやはり気恥ずかしい。
「ああ」と、少女が口の中で呟いた。
そして傍らに置いていたボストンバックを引き寄せ、ファスナーを開けてその中身を漁りだした。
かき回していた手を引き抜くと、パンが握られていた。透明な袋に包装されたそれは、メロンパンだった。
少女はメロンパンを自分の顔の高さに掲げて、鶴岡の目を覗き込んだ。
「食う?」と少女は尋ねた。
「食う」と鶴岡は頷く。
短くなった煙草をどうしようかと迷い、結局後ろ手で芝のないむき出しの地面の部分に押し付けた。
すると、少女の顔色が変わった。
少女は、取り出したばかりのメロンパンを、またバックにしまい直した。無言で鶴岡の指先から吸殻を抜き取ると、すくりと立ち上がった。
そしてなんの言葉も置いていかずに、鶴岡の傍から離れていった。
少女の背中があっという間に遠ざかり、小さくなった。芝の広場を抜けて遊歩道に出ると、立ち止まって首を左右にふる。進行方向を定め、歩き去っていく。
ゴミ箱か何かを探しているのだろう。そしてそのまま、ここに戻る気はないように思えた。
鶴岡としても一応、気は使ったつもりだった。芝の所は避けたのだが、それでも少女の気分を害する行為だったようだ。