春来たりて花愛でる
穏やかな花見日和。寄合『立春』でも、庭の桜の木の下に敷物が敷かれ、花見の用意が整いつつあった。暖かな日差しに桜も満開になり、はらはらと時折の風に散っている。敷物の近くには、長椅子も設置されていた。急遽参加者が増えたからだ。
春雪と咲羅が、出来立ての料理を持ってくる。夕詩は琥珀と共に、細々した雑用をしていた。
「では、そろそろ本日の主役に登場して貰うとするか」
春雪が合図を出すと、『立春』の屋敷から灯毬が顔を覗かせた。足元には色違いの狐たちが三匹くっついている。そしてさらに奥から現れたのは、氷雅と澄だ。
「改めて挨拶をしてくれぬか」
「はい。あたしは『立春』に来られて良かった。だから、頑張る」
「皆さん、これからお世話になります」
「……宜しく」
「おれらもすごいんだからな!」
灯毬が最初に挨拶をすると、狐たちが続く。思い思いに話すせいで賑やかな彼らは、日常の一部になりつつあった。
「次はオレらだな。『立春』に所属することになったから、ヨロシクな。オマエらには恩もあるし、力になるぜ!」
「皆さんの力になることで、受けた恩を返せればと思います。往き場のなくなった僕たちにここを紹介してくれた夕詩、受け入れて下さった春雪さんたちには、感謝の気持ちでいっぱいです」
一度警戒が解けると屈託がなくなる氷雅が不敵に笑えば、澄は丁寧な所作で深々と頭を下げた。だが顔を上げた時には、ふんわりとした微笑を浮かべている。
「という訳で、氷雅と澄も『立春』に所属することとなった。今日はその歓迎会を兼ねた花見だ。存分に楽しんでくれれば良い」
春雪のその一声を合図に、花見は始まった。これまで何かと忙しかった『立春』での、初めての行事だ。
春雪は珍しく盃を手に、咲き誇る桜を見ている。その淡い緑の瞳は時折、談笑する皆にも優しく向けられていた。
賑やかな雰囲気が好きな咲羅が、夕詩と琥珀を巻き込んで新入りである灯毬たちに話し掛ける。
花見の空気に馴染み、皆が思い思いにくつろぐようになった頃、夕詩の隣に灯毬が座った。加入したばかりの数日前とは違い、その距離は近い。
「夕詩。あの時、ありがとう」
「別に、礼言われる程のことじゃ……。……先輩が、新入り守るのは当然だろ」
思い直し、後半は柔らかくなるよう言い換えてみる。春雪や咲羅には容易いことなのだろうが、夕詩では言葉を選ばなければならない。だが、灯毬はそんな夕詩をじっと見つめ、こくんと頷いた。
「夕詩、やっぱり良い人だった」
「何だよ? 『やっぱり』って」
「良い人の匂い、したから。春雪さんも同じ。だから声掛けたの」
わずかな表情の変化で、灯毬が笑う。桜の薄紅色と同じく、見ていなければ気付けない。
「間違ってなかった。あたし、ここの皆好き」
狐を連れた灯毬は、幼少期から彼ら狐の妖怪と共に過ごしてきた。そのせいなのか、どこか動物にも似た雰囲気をしている。今はすっかり懐いた愛玩動物のように、夕詩の近くにいる。
「こいつ、たまにちょっと動物寄りになる変人だけどよ、仲良くしてやってくれよな。夕詩」
ここにも、もう一匹。艶やかな黒の毛並みの狐が夕詩の肩に飛び乗る。どうやらそこをすっかり気に入ったようだ。
ぱふぱふと、柔らかなしっぽがあたる。小動物の高めの体温が暖かく、夕詩自身も悪くないと思い始めつつあった。
「春雪さん、僕にも一献頂けますか」
「ああ、構わぬ」
「琥珀もお酒飲むのね」
今日はやけに距離の近い咲羅が、春雪と琥珀のやり取りを見て呟く。琥珀が酒を飲むのは珍しい。少なくとも、共に生活をしていても見掛けることはない。
「ええ。嫌いではありませんから」
「琥珀は方相氏だからな。そういった行事に、酒は付き物だろう?」
方相氏は、追儺の儀式に関わっていた。神社で開催されることがあれば、御神酒が出ただろう。また宴会などのハレの気は、鬼のような穢れを祓う。どちらも琥珀には縁があることなのかもしれない。
「そっか、そうよね。琥珀、お酌してあげる」
「結構です。溢されたらたまりませんから」
「わたしはそんなに不器用じゃないわよ。琥珀ったらいつもそうなんだから」
琥珀が本気で嫌がっていないことなど、咲羅にはわかっている。だからじゃれつくように言い残して、今度は澄や氷雅の方へ声を掛けにいった。
以前ならば、手を振り払われてもおかしくなかった。少しずつ、彼も歩み寄りつつあるのだ。
「澄さん、氷雅。楽しい?」
「うん、とても」
「ちょっと待てよ。なんで澄はさん付けで、オレは呼び捨てなんだよ」
澄と氷雅の外見年齢は、琥珀とそう変わらない。人で言うところの二十代始め程で、つまり咲羅よりは歳上だ。実年齢も、少なくともその程度はあるだろう。
琥珀を呼び捨てにしているのなら、ふたり共そうなるのが自然だが、咲羅は澄だけに敬称を付ける。
「だって、澄さんは助けてくれたもの」
「フーン。あ、夕詩オマエもだぞ。澄のコトは名前で呼んでるだろ」
渋々夕詩は振り返る。この飛び火の仕方は、どことなく咲羅に吹っ掛けられるものと似ている。
白髪に青の目という儚げな見た目ながら、氷雅の表情はいつもそれにそぐわないものだ。今は、不満げに夕詩を軽く睨んでいる。
「別に、特に理由なんてねぇよ」
「あるくせに。夕詩はね、馴れるまで名前で呼んでくれないの。えーっと、春雪さんで丸一日、わたしは一週間で琥珀は三日。そのくらいかかったよね?」
「う、うるせえな。悪ぃとは思ってるけど、癖になってんだよ」
世話になった『八百万』の管理人のことさえ、一年前にようやく名で呼べたのだ。姉のように、それまで育ててくれた人だった。
春雪との出会いにより、昔程時間はかからないが、夕詩は未だ氷雅を名で呼んでいない。
「だから澄さんは、夕詩にとって何か特別なのかなって」
「特別……かどうかはわからないけど、夕詩とは友達だよ」
その言葉に、咲羅はきょとんとして桜と同じ色の瞳を瞬かせた。数秒の後、身を翻す。
「春雪さーん。夕詩、友達が出来たってー!」
「おいこらんなこと報告すんな!」
「目出度いことではないか。良かったな、夕詩」
春雪が言うと、すんなりとそれが良いことなのだと受け入れられた。振り返ると、穏やかに澄が微笑んでいる。
「僕は、友達は氷雅しかいなかったけど。君に会えて、良かった」
「おれも……あんたとは良い縁にしたい」
新たな始まりを祝福するかのように、はらはらと桜が風に舞ったのだった。