冬の嵐に桜吹雪を
『立春』の庭にある桜は、依頼で出払っているうちに咲いたらしい。
春雪や咲羅は花が咲くのを心待ちにしていた。彼らが帰ってくれば、灯毬たちの歓迎会を兼ねた花見が催されるだろう。もしかしたらそこには、澄や氷雅がいるかもしれない。
澄が滞在する客室からすぐの縁側で、夕詩はこの昼下がりも愛刀の手入れをしている。
背中にぴったりと寄り添った黒莉は丸くなって眠り、隣では氷雅が嬉しげに澄に話し掛けていた。時折、夕詩にも声がかかる。多少離れてはいるが逆側の隣には琥珀が座り、昨日の分の報告書を纏めていた。
穏やかな春の始まりの空気が漂う午後だ。その終わりを告げたのは、ふるりと揺れた黒莉に届いた報せだった。日差しのおかげかもふもふした毛玉のようになった彼は、立ち上がって耳を傾ける。
「ん、どうした? おい落ち着けよ、三種。らしくねーぞ」
『それどころじゃないですよ! 奇襲です!』
黒莉は、向こうからの声も聞こえるようにしてくれているらしい。夕詩たちにも三種の声が聞こえた。
「は? 奇襲?」
『はい。天狗の一族ではないかと、春雪さんは言ってます』
「天狗……」
呆然と澄が呟いた。
『とにかく、早く援軍に来てください!』
「おう、わかった!」
夕詩と琥珀はすぐさま自分の部屋に往き、数分程で仕度を終わらせて戻った。
「夕詩。なんですか、その刺繍は」
夕詩の戦装束は、二振の刀を携えるために和服だ。その紺の道着の胸元には、桜の花びらの刺繍があった。
「琥珀こそ、その帽子は何だよ」
琥珀の学生帽にも、夕詩の道着と同様桜が刺繍されている。どうやら咲羅の悪戯の一環だ。
衣装には頓着しないふたりにとっては、気にはなるが騒ぎ立てる程のことではなかった。だが揃ってため息をつく。
「夕詩、僕も連れていって!」
いざ出立しようとした夕詩たちを、澄が引き留めた。まだ全快していない彼は、ふらりと立ち上がって夕詩の元まで歩いてくる。
「待てよ、澄。あんた、まだ怪我治ってねえだろ」
「それでも、僕が招いた事態だ。他の無関係な人たちにまで、迷惑をかける訳にはいかないよ」
「こうなったら、澄は梃子でも動かねェよ。諦めろ。そんで、澄が往くならオレも往くからな」
澄と氷雅に迫られ、夕詩は琥珀に視線を向けた。
「貴方の思うようにしたら良いでしょう。今ここで最も上の立場なのは、貴方なのですから」
肩をすくめた琥珀の返答は突き放しているようだが、彼は進んで誰かに判断を委ねる性格ではない。夕詩を信用し、その意見に沿うつもりなのだろう。夕詩の肩の上で、黒莉も頷いた。
「相手は多数だ、人手は欲しい。何より、あんたたちの戦力は絶対武器になる。けど、澄に無理はさせられない。それだけ約束するなら、連れていく」
「うん、約束するよ。ありがとう、夕詩!」
実年齢は不明だが、見た目はわずかに年上の澄に無邪気な笑顔を向けられ、夕詩は目を逸らして頷いた。熱くなった頬は、柄にもなく照れたせいだろう。
はしゃいだせいか、澄はぐらりと体勢を崩す。咄嗟に夕詩が受け止め、移動は氷雅におぶわれることになった。
「門も境界だからな。ここから向かうか」
「黒莉……だったか。あの村の近くに来たら教えろ。いくつか近道を知ってる」
「ああ、わかったよ」
浮世と常世は、あらゆる場所で繋がっているらしい。とても近しい場所にありながらも、別の世界であるそこを通り抜ける。
氷雅の助言もあり、さほど時間をかけずに村に辿り着く。事前に連絡を取ったのだろう、入口では三種が待っていた。
「こちらです! 今は春雪さんの結界で持ちこたえてますが、戦力が足りません。皆さんが来てくれて助かりました」
『立春』で妖との戦闘になる時、主に前衛になるのは接近戦を得意とする夕詩や琥珀だ。春雪や咲羅も戦えるが、彼らは後衛で真価を発揮する。何より防戦一方では、思うように力は出せないだろう。
案の定、春雪たちは苦戦を強いられていた。結界を調節することで天狗を小分けにしておびき寄せ、咲羅と灯毬が相手をする。
村の住民の避難を最優先した結果だ。春雪の結界は村を覆い、天狗の攻撃を防いだ。その時間稼ぎのうちに、避難と援軍を待っているのだった。
だが、この中では一番攻撃力のある春雪が攻めに転じられないのは、大きな損失だった。少しずつだが、劣勢に追い込まれていく。
「菫紫電っ!」
菫色の電撃が天狗を襲った。唯一いた鼻高天狗だ。しかし咲羅の攻撃は避けられ、天狗は彼女の目の前に迫っている。
「残念だったな、陰陽師のお嬢さん」
ぶわり、強い風が咲羅を宙へ連れ去る。重力に従って落ちていく咲羅には、術を使う余裕もなかった。
迫る地面に目を瞑った瞬間、誰かが彼女を柔らかく抱き止めた。恐る恐る開けた薄紅色の瞳に映ったのは、他の天狗たちより一際美しい烏天狗だ。
「澄、さん……?」
「間に合って良かった。大丈夫?」
「うん。ありがとうございます」
澄に優しく下ろされると、夕詩や琥珀がそこにいた。
「戦闘の感覚が鈍りましたか? 足は引っ張らないでくださいね」
「攻守交代だ。援護頼むぜ、咲羅」
「琥珀! 夕詩!」
「それと、刺繍の件は後で問い詰めさせてもらいますからね」
「まったくだ。人の服に悪戯しやがって」
それだけ言い残し、夕詩と琥珀は天狗たちに攻撃を仕掛けた。頼れる仲間たちの助太刀に、咲羅も勢いを取り戻す。
まるで剣そのものの如く、鋭くも整った型で刀を振るいながら夕詩が天狗たちの間を縫う。洗練された所作ながらも力強く、琥珀の槍が繰り出された。そこに華を添えるような咲羅の術が加われば、術を纏った武器は敵の中を舞う。
戦況は、徐々に『立春』が優勢に変わっていった。数も少なくなった天狗たちを、それぞれ追うと距離が空く。その隙を狙われた。
「油断したなぁ。陰陽師のお嬢さんよぉ」
咲羅の後方から飛んできたのは、澄を襲った一団の大将格であり、先程咲羅を吹き飛ばした鼻高天狗だ。振り上げた拳は、触れれば裂ける程の風を纏っている。
「……っ!」
「夕詩の仲間に、手を出さないで!」
咄嗟のことに対応しきれなかった咲羅を庇ったのは、そばにいた澄だった。一瞬にして風向きを変え、敵の攻撃を受け流したのだ。
「天風、人間を庇うのか? っは。お前には、いけすかないオトモダチが多いな。妖退治屋といい、あの雪鬼といい」
「少なくとも、君たちよりはよっぽど信じられるからね」
「とことん腹の立つ奴だな、お前は! そうやって、いつもいつも見下しやがって!」
連続で繰り出される鼻高天狗の攻撃に、怪我の治りきっていない澄ではあまりにも不利だ。傷が開き、白い包帯には赤が滲む。
ふらりと力の抜けてしまった澄を、大将格の天狗が蹴り飛ばした。
「ぐう……っ!」
「澄さんっ」
「澄!」
声を上げた咲羅より先に彼の元へ駆け寄ったのは、他の天狗の相手をしていたはずの夕詩だ。愛刀の一振である輝星を構え、鼻高天狗に向き合う。
「オマエ、澄に手ェ出しやがったな」
そこに割り込んだ声は、氷点下よりも冷たいものだった。その温度通り、地面が凍りついていく。円を描いて広がる氷の中心にいたのは氷雅だ。
「オレは、あの時言ったよな? 次澄に手ェ出したら、容赦しねェってな!」
バキン。固い音で、先端の鋭い氷が形作られる。地面の下から、氷柱を斜めに突き刺したような形だった。
氷雅の青い目が輝く。途端、辺りに吹雪が吹き荒れた。結界の時よりも圧倒的な強さがあり、敵も味方も関係なく巻き込んでいく。
冷たい沈黙が恐ろしい印象を与える。青く輝いた氷雅の瞳は、何も映さず冬の嵐に向けられていた。
「氷雅……っ!」
「やめとけ、澄。こんな風の中じゃ近付けねぇだろ!」
「でも!」
うずくまりながらも、氷雅に手を伸ばそうとする澄を引き留める。その心情は理解できるが、立ってさえいられない程の強風だ。だが、澄は食い下がる。
と、彼の肩に別の誰かの手が置かれた。夕詩と澄が振り返った先にいたのは、春雪だ。
「彼を、助けたいのだな?」
「はい……。氷雅は力は強いけど、存在が安定していないから暴走しやすくて。僕じゃなきゃ、止められないんです」
「ふむ、なるほど。……咲羅」
そう離れていない場所に、咲羅と灯毬たちもいた。呼ばれて、咲羅は得心がいったように一つ頷く。
「東風桜!」
冬を終わらせる春一番が吹く。薄紅色の桜の花びらを纏った風だ。氷雅の吹雪を押しのける程ではないが、咲羅の周りから確かに春の気配が広がっていく。
ゆっくりと澄が立ち上がる。その濃い紫の目は、力強く氷雅を見つめていた。
一歩踏み出すだけで崩れ落ちそうになる彼を、夕詩が支えた。
「おれを連れていけ。あんたの力になってやる。この吹雪の中くらい、守ってやるよ」
「ありがとう、夕詩」
夕詩と澄が往く先は、咲羅が術で吹雪を退けてくれる。時折混じっている氷塊は、灯毬が狐火で溶かす。残ったものは夕詩が刀で弾いた。
その後方支援もあり、氷雅まであと少しだ。
「澄……。澄に何かする奴は、オレが……」
氷雅の近くはさらに風が強い。ふたりでも吹き飛ばされてしまいそうだ。
「咲羅ちゃん! その風、僕に貸して!」
「え? は、はい!」
咲羅が澄に右手をかざすと、桜の風が渦を巻く。黒い翼を広げた澄が中心にいれば、その色合いは夜桜のものだった。桜色の衣を纏った烏天狗は、見惚れる程に美しい。
澄が一歩、前に出る。穏やかな春が、荒れ狂う冬を少しずつ和らげる。
「氷雅」
伸ばされた澄の手が、氷雅の頬に触れた。虚ろな青の瞳に映るのは、春風の中佇む優しげな笑みを浮かべる澄だ。
「澄……」
「うん」
「オレ、また……。もうこれ以上、大事なモン失くしたくねェだけなのに……」
「うん、大丈夫だよ。氷雅は、ちゃんと僕のこと守ってくれた。だから、もう大丈夫」
春風を纏った澄が、迷子にするようにそっと氷雅を抱きしめる。すると、あれほど吹き荒れていた吹雪が鎮まった。氷雅がその腕の中で力を抜くと、くたりと寄りかかるように澄がくずおれた。
「澄……!」
「ん、大丈夫。でも、限界……かも」
自力で風を起こすこともできなかったため、澄は咲羅の力を借りたのだ。彼女の術が持つ春の属性はもちろんだが、澄自身が弱っていたという理由も大きい。
「澄、あんた無茶し過ぎだ。ほら、掴まれよ」
「ありがとう、夕詩……」
手から伝わる、確かな重みと温度。引き上げれば、近くなった距離で澄に笑いかけられる。
一陣の風が吹いた。桜の花びらが一片混じっている。
長い冬は終わり、ようやく春が訪れたのだった。