ego
エゴ
入学式も済み、授業のカリキュラムの説明についてのガイダンスに参加して、一通りの通過儀礼が終了。新しい学び舎、新しい学友、新しい教師、全てがまったくもって新しい生活が始まろうとしていた。
第一志望の大学に落ちてしまったこと以外は、順調だったと思う。
もともと、第一志望は受かったらラッキー!
程度の心持ちで、有名だからその名前の恩恵にあやかれればいいと思い受験を決めたせいか、落ちてもさして悔しくもなく、一年の準備期間では足りなかったってことだろうと思った。
滑り止め大学の中で知名度や交通の便などを考えてこの大学に決めた。
ここの大学は気に入っている。きれいな校舎、自宅から一時間以内という立地、混み過ぎる学食も慣れれば何とかなると思う。
概ね全てが滞り無く円滑にスタートしていた。
だけど、その時にはもう、新しい生活は僕の心を静かに乱し始めていたんだと思う。
始めは気にもしてなかった、新生活の疲れかと思ってた。胸の中になんとも表現しがたいモヤモヤした物が在るだけだったけど、次第にそれは肥大、膨張、増殖。
コップから溢れるみたいに、抱えきれなくなったものが心臓に開いた穴から、ドロリ、ドロリ、漏れていくたび、それが体の中に染み込んでいくような不快感は、時間が経つほどに増していった。
内部で抱え切れなくなった感情を処理する時に、人は何かしらの行動を起すのだと思う。
殺意、怒り、恨みだったら殺人。親しみ、愛情、尊敬などならば、握手、ハグ、キスというように、表現は人それぞれだ。
僕が抱いていたのは恐らく孤独とか不安、その感情の処理のために、
僕は携帯電話をぶっ壊した。
「今日は弁当なんだね。」
中庭のベンチで昼食中の彼女に話しかける。声に反応して体をこちらに向けた。
相手が僕だと分かり、控えめな笑顔で[こんにちは]と返した。隣に少し間隔をあけて座り、購買で買ってきた菓子パンとミルクティーでこちらも昼食を開始する。
基本的に彼女は口下手なので、授業には慣れた? 入るサークルはもう決めた? こっちが話題を振り、返ってきたものに相槌をうったりしながら穏やかな時間が流れる。
周囲の視線痛いような気がするのは、言葉を発しているのが僕だけだからだろう。
はたから見れば、僕はただのナンパ野郎か、独り言を延々と女の子に向かって喋っている少し頭のネジが緩んでしまった男の子だろう。
それでも僕が気にならないのは、彼女が僕に分かるようにちゃんと返事を返してくれているからだ。
はっきり言ってしまえば、彼女は言葉を自分の口から出すことができないのだそうだ。声帯に以上があるわけではなく、言葉が喉の辺りを通過するときに霧のように霧散して、音として外に出ていかない感じなのだと、知り合って少ししてから教えてもらった。
言葉という概念を知る前からそうだったので、今では自分がそういう生き物として生まれてきたのだと諦めているとも言っていた。
自然と、そんな相手とどうやって僕がコミュニケーションをとっているのかという疑問が生まれるけど、その答えは百人が聞いて九十七人(予想)がうそつくんじゃねぇ、と答えるようなものだ。
簡単に言えば彼女は僕に電波のようなもので言いたい事を伝えている。ほらね、信じなかったでしょ?
でも、確固たる現実の前に、認めざるに負えなかったから、僕は今こうして彼女と会話、若しくは会電波をしている。
ケータイをぶっ壊して何日かたった後、僕は校舎の中で泣き声を聞いた。突然聞こえてきたそれはもう、世界がひっくり返りそうな泣き声で、思わず耳を塞いでしまう。それでも、声は聞こえてきた。
耳を塞いでようやく、それが空気を伝わる振動でなく、何か別の、頭に直接叩き込まれて響いてる物だと気がついく。
その証拠に周りの人は気にしている様子はなくて、この声に気づいているのは自分だけの様だった。
思わず膝を突いてしまう。通り過ぎる人達からの視線が痛い。ふらつきながらもすぐに壁に手をついて何とか起き上がる。
頭に響く声のせいでうまく事態の整理ができなかったけど、深く息を吸って脳味噌に酸素を送り込んだ。いくらかの落ち着きを取り戻す。それから僕は、フラフラと声のする方へ歩き出した。
この煩くて不快な泣き声を、今すぐ止めてもらう為に。
頭に響いているのに、不思議とどこから聞こえてくるのかはわかった。近づくにつれて声が大きくなってくるのがわかる、それにつれてこめかみの辺りが痛くなってきた。
階段を上り両開きの扉を開けて、のびている廊下の角を曲がった奥部屋から、その声が聞こえてくるような気がした。頭痛はひどくなる一方だ。
半開きのドアをゆっくりと押し開ける。
5×3で配置された座席の中心に、体を縮め、肩を震わせながら、独りで泣いている人がいた。その口からやはり声はなく、少し荒い息遣いだけが、空っぽの教室に響いてる。
女の子だった。ここにいるからには大学生なのだろうけど、その後姿は女性というには幼すぎるように思えた。
「おい、あんた」
そう言おうとして近づく前に、頭痛に耐え切れなくなった脳味噌が体の機能を一時停止して、視界は暗転、僕はそのままぶっ倒れた。
意識が覚醒して最初に見たのは、僕の顔をを覗き込む女の子の顔だった。
顔面蒼白、心配というより困惑と恐怖の表情といった感じだった。
それもそうだろう、初対面の男が泣いていたところにいきなり登場、あまつさえ即気絶という奇行。取り扱いに困っているようだった。
「もう泣いてないね」
僕は不安顔の彼女に向かってそう言った。頭が割れんばかりのあの泣き声はもう止んでいて、暗い教室内は静まりかえっている。そこに、
[聞こえてたんですか?]
高いようだけど、どこかノイズの入った声が聞こえた。それが彼女の声なのだと分かり、首を縦に振る。それを見た彼女はビクッと体を震わせてすぐ下を向いてしまった。
何秒かして、また頭の中に泣き声が流れ込んできた。
さっき聞いたのが夕立だとしたら、今聞いてるのは霧雨みたいにどこか穏やかで、悲しくて泣いているのでなく、安堵して泣いているように、不思議とさっきのような不快感はなかった。
とりあえず泣き止むまで待とうかと思えるくらいに気持ちは落ち着いていて、泣いている彼女をボーっと見ていた
ひとしきり泣いた彼女に自販機で買ってきたスポーツドリンクを渡す。それを飲み終えた頃に、僕は彼女に話しかけた。
「何で泣いてたのか言いづらくなければ教えてくれない? 言いたくなければいいけど、言ってスッキリするなら聞いてもいいよ」
やや控えめに、当たり障りのない感じの質問の仕方で聞いてみる。初対面の人にここまで踏み込んで話しているのか自分でも不思議だった。
彼女は何かを考えるような顔をしていたが、一拍おいて頭の中に言葉が流れ込んでくる。
[私は、生まれてきてから今まで一回も口から言葉を出せたことがないんです、お医者さんにも理由は分からないからたぶんこのままずっとこうなんですけど、それで、いつからかこんなふうに相手に別の形で言葉を伝えられるようになってました。最初に通信ができたのは両親で、それから段々と通信できる人が増えていきました。]
通信という言葉に一瞬驚いたが、彼女の会話の仕方なのだと納得した。時々頷いたりしながら聞く。虚ろな表情で作業のように彼女は話していた。それでも、と彼女は続ける。
[親族を除いて、通信することができた人は本当に少なかったです。小学校に上がる頃まででも2〜3人くらいしかいませんでした。その何人かも、話すことのできない私のことを気味悪がって近寄らなくなりました]
なかなかにヘビーな事を、さも大した事でもないように話す。生来の性格か、時間が解決したのか僕には分からない。
子供がとる異質なものに対しての扱いは存外に残酷だ。心の未発達なその時期によく耐えてこれたなと思う。彼女は続ける。
[中学に入ってやっといい友達ができたんです。通信もできましたけど、話せない私に普通に接してくれて、ぐいぐいっと他の子達の輪の中に入れてくれました。本当に嬉しかった。高校もその子と一緒の学校だったから6年間すごく楽しくて……]
彼女の言葉が止まる。表情が少し歪んだ気がした。数秒の沈黙が流れて、嫌な事を整理できたのか、彼女はまた話始める。
[大学もその子と一緒にこの大学を受験しました。依存しすぎかなと思ったんですけど偏差値はお互い同じくらいだったから、でも……その子はここに受かりませんでした]
さらに歪む表情、嫌な事を思い出してしまい、それをかみ砕いているような顔をしている。話の途中でなんとなく予想はしていた。
そんなに仲の良い友達が、あんなに泣いていたこの子を放っておくとは思えない。
[結局その子は別の大学に行く事になって離れ離れになりました。最初はメールするとか、離れてても関係ないとか言ってくれてましたけど、私だけ合格した時からもう前とは少し違ってて、歯車が噛み合わなくなるみたいにどんどんずれていくような気がしたんです……。]
ああ、心の中で嘆息を漏らす。ここから先は聞かなくても予想がつく。何故なら…。
怖かった、消えそうな声が頭の中に響く。
[私はそれが堪らなくイヤでした。毎日たくさんメールして、遊びに行く約束もしようとしました。それでも、もう二人のいるところは別の場所位で、……それが悲しいからまたメールして、そんなことしなくちゃ関係が崩れてしまいそうに思えたことがもっと悲しかった……]
もう言わなくてもいい、そう思っても、彼女は最後まで伝えてしまいたいらしい、そんな風に僕には見えた。悲しい、怖い、嫌だ、そんな言葉が頭の中にこだましていた。
[そんな事考えてたら授業が終わってて、何でか電気も消えてました。話せる相手もいない、この暗くて狭い部屋にいる自分がとてもが惨めで一人ぼっちなように思えて、さっきみたいに泣いてたんです]
自嘲的に笑いながら、馬鹿ですね、とこぼした。一筋、涙が流れる。二筋、頬を伝って床に落ちる。
泣いているのは僕だった。流れてくる涙が手にあたって初めて自分が泣いていることに気付く。
似ている。彼女を苦しめている物は僕がケータイを壊した理由と似ている。
僕は一人でこの大学に入学した。
偶然だけど、友達や知り合いは一人もこの大学にはいなかった。初めはそれでも別にいいと思ってた。大勢いる事に越した事はないけど、もともと自分は一人でも大丈夫な方だったから何とかなるだろとも思ってた。
でもそれはただの強がりだったらしい。
電車内で、廊下で、教室で、数え切れない他人の中で、孤独が心をすり減らし、それを補うように友達に連絡を取ることが増えていった。
自分は誰かと繋がっている。それを確認するように必死になってメールを送り、電話をした。
手にしている携帯電話を見て、こんなものに頼らないと揺らいでしまう様な、薄っぺらい付き合いしかしてこなかったのか? と、そう思ったらもう、自分が惨めでしょうがなかった。
それでも何か確かなものがないと不安でしょうがないから確認を続ける自分の中に、少しずつ悲しさとか、惨めさが積もっていくような気がした。臨界まで達した感情を行動に移した引き金は、なんて事のない風景だった。
ただ、高校生のグループが駅のホームだったか街中で、仲良く歩いているというようなものだった。
数ヶ月前まで、無条件で自分がいることのできた場所に良く似ていた。それに対する羨望と、今の自分に対する憤りが、積もった感情の引き金を引く。気が付くと、
僕はケータイをぶっ壊していた。
今の自分の憤り対象がそれだったのか、ただ一番壊しやすい象徴がそれだっただけなのかは分からない。今となってはもうどうでもいい気がする。ただ突然、それを壊さずにはいられなくなっただけだ。
でも、そんな事はもう大した問題じゃなくなった。
今はもう一人じゃない、酷く浅ましくて自分勝手だけど、そう思うに足りるモノが今、目の前にある。同じような理由で泣いていた女の子。
一人じゃなくて二人だってこと。たったそれだけで、張り詰めてた糸が緩んだみたいに、安心してしまった。不謹慎だと思う。悩んでる人を見つけて安堵してしまった事、泣き顔に救われたという格好悪い事実が、僕を自己嫌悪の渦に叩き込みそうだ。
けど今はまだ踏みとどまろう。自分を呪うのは目の前の人に自分ができることをしてからにしよう。とりあえず涙は拭く。ひとまず深呼吸して落ち着こう。
「急に泣いたりしてゴメン。その、ズレたこと言ってるかもしれないけど……」
しっかりと目を見て言う。
「友達になってくれない? 僕もまだここに入ってから一人も友達作れてなくてさ、こうして……その、通信もできたことだし、どう?」
自信無げに右手を差し出す。我ながら押し付けがましいことこの上ないと思った。
彼女が笑ってくれたのが幸いだった。差し出した右手を握り返してくれる。
「こんなあたしでよければ」
僕にとっては、その返事は一つの小さな奇跡のように思えて、今でもよく覚えてる。
それから今に至ってこんな感じ。仲良く弁当を食べている。可もなく不可もなく、まずまずといったところだと思う。
とりあえずは、どこかのサークルに入ろう。この校舎は広すぎるから、何処かに居場所を作らないと自分がぼやけてしまう。そういえば彼女の趣味は何だろう? そんな事をぼんやり思って、彼女に話題を振った。
ケータイを壊してから一週間後位に、友人が僕の家に訪ねてきた。連絡が取れなくなって心配になったそうだ。自宅に電話しろよという突っ込みより前に、泣きそうになってしまったのは内緒だ。
無駄に長くて読みづらいものになりました。それでも、生まれて初めて自分が人に見せる心構えで書いた作品です。よかったらどこが悪いとか批評してくれるとありがたいです。




