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第9話

 私が驚くくらいだ。

 いきなり、私と共に現れた彼に、マリー姐さんはもっと驚いていた。

 マリー姐さんに、彼は平然と言った。

「彼女を買い取って街娼から引退させたいが、いいかね」

 まだ、内心ではかなり動揺していたのかもしれないが、マリー姐さんも表面上はすぐに立ち直って言った。

「引退金として、10年分の上納金を収めてくれるならね」


 3年分じゃなかったの、私は内心で抗議したが、彼は平然としている。

「これで足りるかな」

 マリー姐さんに、そう言って、彼は札束をすぐに出した。

 マリー姐さんは、慌てて札束の中身を確認した後、渋々言った。

「確かに引退金は受け取った」

「それじゃ、彼女は連れて行く」

 私は動転したまま、彼とともに車に半ば乗せられてしまった。


 私の気持ちが落ち着いた時には、車の前席に兵2人が乗って、1人が車を運転しており、私と彼は後席に並んで座っていた。

 私が落ち着いたのに気づいたのだろう。

 彼は、くっ、くっ、と笑った後で言った。

「兵は拙速を尊ぶとは、よく言ったものだ。あの女、全く予期していなかったようで、君が自分の下から逃げ去るのを阻止できなかった」

「あのお金は」

 私はどうにも疑問を覚えた。

 彼はそんなにお金持ちなのだろうか?

 そして、引退金の額が違っていたのは?


 彼は肩をすくめながら言った。

「妻の父に、君への手切れ金名目で出してもらった。提督だから、それ位は何とかなる。マリー姐さんは、君には違う額の引退金を言っていたようだね」

 私は、黙って肯いた。

「ああいう手合いは、ある程度、出せそうな額を予め言って、希望を持たせておくのさ。そして、いざとなったら、態度を豹変させる。銀行から君が引退金を出して来たら、マリー姐さんの下に行く途中で、マリー姐さんに雇われた強盗に襲われるとかね」

 なるほど、確かに、そうすれば、マリー姐さんにとっては、二重三重の儲けになる。


「そして、本当は君と愉しんでから行きたかったが、マリー姐さんが何かしないか、と不安でね。念のために兵2人と来たこともあり、さっさと用事を済ませることにしたのさ。それに、君を抱くと、君と別れるのがもっとつらくなりそうだったから」

 彼の少し長い話は終わった。

 その話を聞き終えた私は、本当に皮肉な話だとあらためて思った。

 彼のみならず、彼の妻に、苦界から救い出されるを手伝ってもらえるようなものではないか。


「だが、その代り、君とは当分、逢えない。君は、妻の父の監視下に置かれるだろうからね。そもそも、僕と妻の父は所属部隊が違うから、その点でもどうしようもない」

 彼は、悪漢の仮面を被るのに、そろそろ疲れてきたようで、本音を漏らしだした。

「それに、多分、僕は、この戦争が終わるまで生きてはいないだろう。多くの人が亡くなって行く」


 それには、私も同感だった。

 この戦争で、私の兄が亡くなり、私の男の知人も戦死、戦病死が相次いでいる。

 彼も、この戦争を生き抜けるか、というと、多分。

 私は不吉な想いを内心から振り払うために、頭を懸命に振った。


 更に気が付くと、彼は半ば独り言を呟いていた。

「もし、君が僕の子を身籠っていたら、できたらその子を、僕は産んでほしい。妻の父は、君が僕の子を身籠っていた場合、その子の認知を僕にするな、と圧力をかけてきていて、今の僕にはそれをはね返す力は無い。それに、奇跡的にこの戦争が終わるまで、僕が生きていられても、僕は日本の妻の下へ帰らねばならない。フランスに君と、君が産んだ我が子を遺していくしかない。僕は、君が産んだ我が子の養育費を払うどころか、認知もしない情けない男だ。だから、本当に我が儘極まりない頼みだと思うが」

 これ以上、私は、彼の嘆き、愚痴を聞きたくなかったので、手で彼の口を抑えた。

 そして、彼に黙って目で伝えた。


 分かっています。

 あなたの子を身籠っていたら、ちゃんと一人で何とかしますから。


 彼も、私の真意を覚ったのだろう。

 彼は、黙ってしまい、微笑んで頭を下げた。


 気が付くと、私達は海兵隊の駐屯地の中に入っていて、目的地にたどり着いた。

 彼は身振りで、私に車から降りるように促した。

「ここが、君の今からの寝場所兼職場になる。雑役婦というが、実際には野戦病院の下働きが主だ」

 彼は紹介してくれた。

 おそらくは、血や糞尿によるものだろう。

 病院特有の本当に嫌な臭いがしていて、確かにいい場所とは言いかねる所だ。

 だが、私は、街娼から抜けられたし、もしも、妊娠していたら、ちゃんと診察してもらえそうだ。


「それでは、別れましょう」

 名残惜しげな彼の背中を押すために、私は声を出した。

 内心で、暫くの間、と付け足す。

 そう、生きてさえいれば、いつか、また逢えることもあるだろう。

 それに万が一の事態が起こっても、多分、私は、彼の形見を抱えて生きることになるような気がする。


 車に乗り込み、彼は名残惜しげに、自分の居場所に向かって行った。

 私は視界から消えるまで、それを見送った。

これで、本編は終わりです。

次のエピローグで完結させます。


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