はじまり~『蹴聖』の系譜
大好きなサッカーと歴史を融合させてみよう。
蹴鞠を祖とする蹴球が誕生したのは、平安時代後期といわれる。本格的な武士の世の中となる少し前のことだ。
『蹴聖』と呼ばれ、あらゆる技を極めた【藤原成道】。
彼は清水寺の舞台で球を落とさずにリフティングしながら欄干の上を往復し、また彼の蹴る球は上空高く漂う雲にも達したという。
そんな『蹴聖』が新たなる蹴鞠の可能性を数年間模索した末に編み出したのが、蹴球の基礎となったという。
その藤原成道の晩年、平家と源氏は互いの武をもって鎬を削っていたが、このままでは消耗の末の両家衰退は目に見えていた。
そこで武による戦の代案として提起されたのが、球技による勝負であった。
貴族の平家側から提案されたのは伝統的な蹴鞠であったが、源氏側はより烈しいもの、より戦に近いものを望んだ。
結果的に、貴族の藤原成道が考案した『蹴球』が採用されたのは皮肉ともいえる。
蹴球の基本的な規則が決められたのも、この時である。
分かり易い例を挙げてみる。
選手の数が十一人なのは、武士の『士』は『十+一』であるからと源氏側の主張が通ったものであるし、待ち伏せ行為は卑怯であるから禁ずる。勿論、武士道精神によるものである。そんな具合だ。
こうして我が国の蹴球は産声をあげ、戦の代わりに執り行われるようになったのであった。
無論、源氏側には勝算ありきであった。
身体の大きさも鍛え方も違う、軟弱な平安貴族などに負ける訳がない。そうタカをくくっていた。だが、球の扱い・繊細さに関しては平家の方に一日の長があった。
優雅に球を蹴り上げては、トトトと落下地点に正確に入り込みまた蹴り上げる。ドタドタと暑苦しく重苦しく無駄に走るだけの源氏の選手を尻目に、何処までも雅に得点を重ねた貴族たちであった。
創世期は、ただ蹴り、ただ追いかける。球に選手が群がるという、原始的蹴球が行われていたが、ある1人のスター選手の誕生により時代が動いた。
その名を【源義経】といった。
義経は天性の俊敏な身体能力と鞍馬の天狗により鍛えられた心身の強靭さを武器に、様々な必殺技を繰り出しては平家の守備陣を切り裂いた。鵯越の逆落としや八艘飛び等がそれである
相棒【弁慶】とのコンビプレーという概念を生んだのもまた、義経であった。(余談になるが、初の応援女が誕生したのも、義経を応援した【静御前】の舞だったという伝も残っている。)
新たなる『蹴聖』の活躍により時代は動き、世は貴族の時代から武士の時代へと変遷していった。
が、それはまた別の戦記。
※※※※※
時代は流れ、群雄割拠の戦国の世。
ここにも並外れた戦闘能力と残酷さを併せ持った新たなる『蹴聖』が登場した。
【織田信長】その人だ。
人々は畏怖と尊敬の念から、彼を魔王と呼んだ。
『天下布武』を旗印に、時に豪快に相手をねじ伏せ、時に反則を犯してでも勝利に固執した。
しかし、何より信長は先見性に優れ、ド派手なパフォーマンスで観る者たちを楽しませたという点も、蹴球史に燦然と輝く功績である。
天下統一も射程に捉えた信長であったが、京は本能寺臨時蹴球場で行われた戦ーーいわゆる『本能寺の変』と呼ばれる【明智光秀】との一戦を最後に表舞台から姿を消したのであった。
しかし、これもまた別の物語。(【戦国蹴球】に詳しい)
※※※※※
「徳川戦法『鎖国』!」
将棋でいう所の穴熊のようにがっちりと守りを固め、相手が『鳴くまで待つ』。つまり、痺れを切らして動き出した所を、その綻びを突いて攻める。一点取れば、後は鉄壁の守りである。
この徳川得意の戦法がニッポンの『蹴球』を駄目にしてしまった大きな一因であったといえる。なぜなら徳川家のみならず、どこの国もどの武将も『負けない蹴球』=鎖国をしてしまうようになったからである。
球を持っても自陣で回しているだけ。相手側も下手に球を取りに行くと陣形が崩れてしまうので動かない。動けない。
結果、時間だけが無駄に過ぎて行き、試合終了。
こんな戦を誰が観たいだろうか。やる意味があるだろうか。
観客は減り、収入は減り、選手の士気も下がるのは自明の理。遂には、ほとんど戦も組まれなくなってしまった。
徳川幕府を筆頭に平和呆けしてしまった『ニッポン蹴球』は、二百年近く停滞してしまったのであった―――
―――ニッポン蹴球界を今一度、洗濯いたし申候。
つまらない退屈な徳川蹴球への不満・非難の機運が高まりに高まり沸点に達そうかという頃、土佐から唯一無二の発想力と行動力を併せ持った英雄が現れた。
それが、【坂本龍馬】である。
ここでは、四代目『蹴聖』としてニッポン蹴球界の新時代を切り拓いた、彼の蹴球人生について語りたいと思う。