メイドのローザ
「おい、ワインを注げ」
しわがれた声が、金銀の装飾がなされた大広間に響く。その威厳のある声は、レーヴェス国王のものだ。
ワインを注げ、と命令された給仕係が、びくびくとしながら年季の入った高級そうなワインの瓶を持ってやってくる。近衛兵たちは人形のように壁にそって直立し、給仕係の行動を眺めている。
すました表情をはりつけ、わずかに震える手で給仕係はワインを王のそばまで運んだ。役目を終えてほっとした彼は、すごすごと退散する。
なぜワインひとつで、長年働いているこの給仕係がここまで緊張するかというと、それはまぎれもなく国王のせいである。
五年ほど前、国王の座についた現国王は、とんでもない暴君で、人を全く信じようとしない。意味のないことに大切な税金をつぎ込み、臣下が意見でもしようものなら顔を真っ赤にさせて怒る。さらに、とってつけたような理由ですぐに部下を城の地下の牢にぶちこむのだ。
そういうわけで給仕係は、妙な言いがかりをつけられて、ひんやりとした明かりさえない地下牢に放り込まれてしまうのではないかと、びくびくしていたのだ。
「おい」
給仕係の歩みが止まった。微動だにしないような近衛兵たちも、顔がひきつっている。
よく響くしわがれ声が、給仕係を突き刺す。
「このワイン、色が濃すぎるのではないか?」
「そ、そうでございますか? しかし、それは長い間熟成させたためのもので――」
「黙るのだ」
一喝。しわがれ声が低く響いた。
給仕係は真っ青な顔をして、目を見開いてその場に縫いとめられたように固まる。
「わしを毒殺しようとしたのだな」
いかめしい顔をさらに険しく歪め、国王が言い放つ。その眼には何の光もない。
「めっ、滅相もございません! そんなこと、するはずが――」
「この者を連れていけ」
給仕係の一番近くにいた近衛兵が、びくっと肩を震わせた。泣き叫ぶ男をむりやり地下牢に連れて行き、放り込んで去るなどという仕事、好むような者はいないだろう。ましてやこの給仕係には、何の罪もないのだ。
「や、やめてくれ! 陛下、どうかお許しを! 私は何もしておりません!」
「フン、うるさいと言っておるだろう。極刑にされたいのか?」
狂ったようにわめく給仕係を、近衛兵が苦々しい顔でずるずると引きずっていく。
扉が閉まり、まだかすかに聞こえる給仕係の悲鳴。
大きすぎる椅子に体を預けた国王だけが、唇をゆがませて笑っていた。
ひとりのメイドが、洗濯物をたたみながら廊下を引きずられていく男の悲鳴を聞いていた。王女のものである、つるつるとして美しいレースがつけられた絹の下着を畳むそのメイドは、坦々と手を動かしながらも、頭の中に情報を書き込んでいく。
もとは明るい茶色だった髪を黒っぽくし、顔にはいくつもの薬品を塗り付け、全くの別人に変装しているのは、ローザだ。
(本当に、とんでもない王ね、疑り深いどころじゃない)
つい先ほど地下牢へと運ばれていった給仕係の男の悲鳴がまだ耳にこびりついているような気がして、ローザは目をぎゅっとつぶった。
こういった密偵の仕事は今まで何度もこなしてきたが、今回は重要な任務だ。なんといっても、潜入している場所が一国の城なのだから。ラッセルが買収した、今自分が変装しているこのメイドは寡黙で、手を一切休めない優秀なメイドだったと聞いている。気を散らして仕事をおろそかにしては怪しまれるだろう。
ほかの場所の仕事も積極的に手伝い、城はおおかた見て回った。外から見ると複雑な構造をしていそうに見えるが、中は案外単純な造りだ。覚えるのには苦労しない。
(それにしても、魔術書なんて本当にあるのかなあ……)
ジェイクが言っていた、王族に伝わる魔術書。存在するのかどうかすら疑わしいが、やけに真剣な顔で話していたから、どうしても気になる。本当にそんなものが存在するとすれば、厳重に保管されているはずだ。簡単には見つからないだろう。
怪しまれて自分が密偵だとばれでもしたら、元も子もない。慎重に行動しなければと言い聞かせ、ローザは洗濯物を積み上げた。
がやがやと人の声がする、城下町の商店街。今の国王が王座につく前の女王の時代には活気があったここも、客が必要最低限のものしか買わなくなったため、寂れてきている。
そんな中、元気な声を張り上げる八百屋があった。
店主の中年の男性は、陽気な赤ら顔で野菜を手に道行く人に声を掛けている。その後ろで、焦げ茶色の髪の少年――ジェイクが、野菜を並べている。彼が有力貴族までもを従える、王に反逆しようとする組織のリーダーであることなどは、誰も気づかないだろう。
「へい、らっしゃい! お嬢ちゃん、いっぱい買ってってくれよ」
弾むような声で、店主がやってきた客に話しかけた。何気なく客のほうを見たジェイクは、一瞬にして固まる。
「っんで、お前、ここに……!?」
驚きで持っていたニンジンを落としたジェイクを、大きな黒い瞳で一瞥した少女は、ミルだった。
「リンゴを買いに来ただけだ」
「なんだジェイク、知り合いなのか?」
「あ、ああ……」
知り合いは知り合いでも、自分が最近反乱勢に迎え入れた、隣国ソル王国の“死神”だなんて、口が裂けても言えない。
それに、ミルはまだ全身黒装束だ。こんな格好で街をうろついていたらそのうち噂になるかもしれない。ああなんでよりによってうちの店に来たんだ。
「ジェイク、そろそろ移動販売に行ってくるから、店よろしくな!」
店主が手押し車にキャベツなどをたくさん載せながら言った。この八百屋では、夕方頃になると城下町を半周して野菜を売り歩くのだ。
「あ、ああ。行ってらっしゃい」
店主の背中に声を掛け、ジェイクはミルと向かい合った。ミルは積んであるリンゴを一個一個手に取って、どれがいいか見極めている。やがて真っ赤でぴかぴかと光る三つを選び出し、無言でジェイクに掲げて見せた。
「あー……百五十レーヴだよ。って、まさか」
ミルは初めて会ったとき、二十万レーヴという大金が入った革袋を持っていた。
まさかまだそのまま持ち歩いてるんじゃないだろうな、と思ったが、案の定彼女はずっしりと重そうな革袋を取り出し、じゃらじゃらと豪快な音を立てて銀貨を取り出した。
「まいど。お釣りが九千五百レーヴってどういうことだよ……」
「文句でもあるのか」
「そんなわけじゃないけどさ。でもそんな大金持ち歩いてて大丈夫なのか? スられるぞ」
「盗む奴は叩き斬ってやるから心配ない」
「……」
どうか彼女を標的にするようなスリがいませんようにと祈りながら、ジェイクは釣銭を渡す。そして、どうしても気になる彼女の黒装束について話すことにした。
「あのさ、その服やっぱ目立つよ。真っ黒のしか持ってないのか?」
「替えはあるから心配ない」
「そういう問題じゃなくて。何で全身黒なんだよ」
「返り血が目立たないからに決まってるだろう」
そんなこともわからないのか、と言いたげな顔をして答えるミルに、ジェイクは絶句した。聞くんじゃなかったと思った。今の会話、誰かに聞かれてないだろうな、とも。幸いなことに、大勢の人が行き来する通りでは人の話している内容など聞くものはいない。
「持ってないなら……そうだ、買いに行けば? いや、行ったほうがいい。今のままじゃかなり怪しいよ」
どうせ断られるだろうと思ったが提案してみた。
しかし、ミルは何も言い返してこず、じっと黙って何か考えている。いつもならすぐに短い言葉ではっきりと返事が返ってくるのにどうしたのだろうと、ジェイクは首をかしげる。
「どこだ」
しばらくしてミルがまっすぐにジェイクを見て言ってきた。
「は? ああ、服屋? それならひとつ向こうの通りにあるよ」
意外な答えにジェイクは戸惑った。目をきょろきょろさせて立ち尽くしているジェイクに一言も言わず、ミルはリンゴをかじりながら行ってしまった。
数分後、再びミルが八百屋にやってきた。相変わらずの黒装束で、手には何か布のようなものを持っている。
「あれ、どうした?」
「どうしたも何も、お前が黒はやめろとうるさいから買ってきてやったんだ」
不機嫌そうに目を細めるミル。
「ええっ!? もう服屋に行って帰ってきたのか?」
「何で驚いてる。変な奴だな、これでいいんだろう」
ずい、とミルが突き出した服は、極めて一般的なものだった。
「あ、ああ……確かに目立たないな」
「要するに、どこにでもいるような恰好をしろってことだったんだろう。仕方ないから明日から着てやる。返り血で汚れた時は弁償しろよ」
「何で俺が弁償するんだよ! だいたい、返り血がつくようなことはしないでくれ!」
相も変わらず物騒な会話に、ジェイクは肩を落とした。
ミルが帰った後、店番をしながら考え込む。
返り血がめだたないようにと彼女は言った。ミルがこれまで壮絶な世界で生きていたことは知っているが、そのことを何気なく語る彼女を見ていると、複雑な気持ちになる。なぜ彼女はそんな環境で生きなければならなかったのか、そしてこのままでは、このレーヴェスもそんな血塗られた世界に変わっていってしまうのではないか。
教会でグラッドに剣を突き付けた時の、ミルの顔を思い浮かべる。あのとき確かに、ミルの顔には暗い影が落ちた。
ミルは本当は、戦いなんて好んではいないのだ。戦わなければ生きていけない状況に置かれていただけなのだ。
レーヴェスまで、ミルの見てきたような荒廃した世界にしてはいけない。
ジェイクは、拳を固く握りしめた。