5.難しい、その
※前話から数日が経過
「俺が今から、何するか分かってるよな…?」
城主様はお嬢さんを自分と扉の間に挟んで、低く低く言いました。
お嬢さんは扉に手を這わせて、城主様を見ずに答えます―――
「……ぬ、ぬいぐるみは捨てないで、ください……」
…………。
……………。
…………………ええっと、この部屋はお嬢さんに宛がわれた私室。この扉の奥はお嬢さんの寝室です。
そして寝室には………お嬢さんが大好きな、ぬいぐるみたちが、
「いいから退け!俺とは寝てない癖に布と綿の塊と寝るとはどういうことだ!?」
「布と綿だけではありません!思い出と愛情も詰まってます!」
「どうでもいいんだよぬいぐるみの材料なんざ!…くそ、おらっ!!」
「きゃー!変態―!」
「お前俺の妻だろ!?」
そう言って扉を蹴り開けた城主様の背後には、旦那様に"没収"された「内職道具」が麻袋に入れられています。
その袋の辺りに散らばるお嬢さんの私物の中、"趣味"の道具の中に内職道具は混ざり込んではいません。大変怖い顔で「嘘ついたら地下に監禁して犯すからな」と脅されたからでしょう。
ついでとばかりに寝室に入ろうとして、慌てて止めたお嬢さんが「ぬいぐるみは駄目」の言葉に気が短い城主様の気が切れたのは数分前の事です。
「抱き枕ばっかりかよ…よし、これ全部捨てるぞ」
「駄目駄目っそれがないと私眠れません!最長で一週間は寝れなかったのですよ!」
「……一応聞くが、俺と寝る時は…」
「同伴です」
「ふ…っざけんなぁぁぁぁぁぁぁ!!んな首なのか胴なのか分からんけどひょろい奴がヤッてる途中に居たら興ざめだろうが!?」
「下品なこと言わないで下さい!神聖な営みと言い変えて下さいっ」
「神聖もくそもねーだろ、こんなのがいたら!!」
「ムッキーをこんなのって呼ばないで下さいませ!」
「むっきー!?ムッキーって言うのこれ!?ムッキー!?」
「命名はお父様です」
「お義父さんネーミングセンスねぇな!?」
「ありまくりですよ!私の名前、"イリア"だってお父様が考えてくれたのですよ?なんて可愛らしい名前でしょうか」
「お前が言うな。ていうかイリアなんてありふれた名ま―――いった!?足踏んだなてめー!!」
「旦那様の名前よりか珍しいですっ」
「あ?俺の名前は凡々じゃねーぞ。"ヴェルンハルト"なんて格好良い名前がそこらに転がってるかよ」
「…あれ、べるんはるとだっけ…」
「あ゛?」
「なんでもないですっ」
ぽろっと呟いたお嬢さんの言葉に鋭く反応するも、お嬢さんはふいっと顔を逸らしてしまいます。
城主様は舌打ち一つすると、ムッキーを床に投げ捨て、不気味な猫の顔のクッションを引っ張り出しました。
「……呼んでみろ」
「え?」
「"旦那様"から"ヴェルンハルト"に変えて呼んでみろ。おらっ」
猫のクッションを投げつけられて、お嬢さんは上手にキャッチしたぬいぐるみに顔を埋めてしまいます。
「べるんはると、さま」
くぐもった声で、急ぐように紡がれた名前に、城主様は、
「おい、"ベルンハルト"じゃなくて"ヴェルンハルト"だ」
……と、真顔で指摘しました。
「……べるんハルト」
「ヴェ、」
「……べルンハルト」
「だから、"ヴェ"」
「べ、べ…ルンハルト」
「下手くそ。"ヴェルンハルト"だってば」
「べ、べぇ、……面倒臭い名前ですね、旦那様に本当に似合った名前です」
「貴族の名前なんぞ、大体こんなもんだろ。…ま、単純な名前で女のお前には分からないか」
「お父様は"アドルフ"でしたもん」
「単純一家め」
「べ、ヴェルンハルトなんて面倒臭くて古臭い名前なんか―――」
「ああ、言えたな。合ってるぞ」
「え、あ、べるん…」
「駄目だ、言えてない」
「………」
ぽむ、と猫のクッションを投げつけて不貞腐れれば、城主様はニヤニヤ顔で「ヴェルンハルト」と名前の訂正を繰り返します。
「…ェルンハルト」
「おい、人の名前誤魔化すな」
「あだ名はハットさんで良いと思いますよ。お似合いですし」
「どういう縮め方をしやがったてめー」
女性特有の柔らかい頬の両方を引っ張って、城主様は「ヴェルンハルトって言い切れるまで"旦那様"禁止な」と命じたのでした。
*
「ベルンハルト、ベルン…エルン…ヴェ、リュン、……」
何故か名前が上手に言えないお嬢さんに、初めて優位に立てたとニヤニヤしっぱなしの城主様を思い出して、お嬢さんは長年一緒に寝てきたムッキーのお腹を殴ってしまいました。
……嫁いできた最初は話しかけも近づきもしなくて、お嬢さんが足を運んでは警戒する城主様のその姿をからかっていて、―――つまり、先に覚悟を決めて突っかかってきた分、お嬢さんが優位だったのです。
それを何故か急に城主様が接近してきて、やたらとお嬢さんに突っかかるという逆の手を出してきたものですから、優位が逆転してしまいました。
「べ、ェ、…んん…ヴェルン―――言えた!」
明日こそは「ヴェルンハルト様」とすました顔で呼んで城主様の悔しそうな顔を見るのです。そして今度は逆に「お前」やら「てめー」などではなく、「イリア」と呼ばせてみせるのです。……きっと城主様の事ですから、舌打ち交じりに小さく呼ぶのか、ぼそぼそと誤魔化すのかどちらかで、お嬢さんはそれを笑ってみせるのです―――
「ヴェルン、ハルト様」
……今度もちゃんと言えて、「やった!」と喜ぶお嬢さんをすぐさま羞恥の嵐が襲います。
だって今まで「旦那様」と、…そりゃあ最初はすごく恥ずかしかったけれど、名前を呼ぶことで余計にその人を認知してしまう衝撃というか、様々な感情に目が回るのを防いでくれる「旦那様」の呼び名を緩衝材代わりに使っていたのです。
お嬢さんはちゃんと城主様を見ていたけれど、呼び方一つで城主様が知らない城主様のように見えてきてしまうのでした。
「……ヴェルンハルト様っ」
「おい」
「ひゃ――――!?」
ムッキーを城主様に見立てて呼んでみれば、あの低い声が……ああ、勿論ムッキーが喋ったとか城主様がムッキーに乗り移ったとかではありません。寝室と私室を分ける扉から聞こえたのです。
思わず長年の友を扉に叩きつけて悲鳴を上げたお嬢さんに、城主様は扉を蹴破って寝室に入り―――友に裏切られたムッキーを踏んでいた足を退けて、拾い上げました。
「おい、急に変な声上げるからビビったぞ」
「きゅ、急に淑女の寝室に入って来ないで下さいませっ」
「だって部屋に声かけても―――ていうか別にいいだろ。婚前でもないんだし」
「男は狼って本当のことだったのですねお母様。イリアは目の前の理性と良識も無い野獣にぺろりと食われてしまうようです」
「夜中に俺に喧嘩を売るとは良い度胸だなこの馬鹿が。どうせならてめーのその言い分に乗ってやってもいいんだぞ」
そう言うわりにはお嬢さんから離れた所―――ベッドの端っこにちょこんと座って、城主様は懐から絹の袋を取り出して、城主様とお嬢さんの間に置きました。
「……何ですか、こ―――も、もしかしてお金で…!?」
「被害妄想なのか自意識過剰なのか分かんねえよな、お前って」
「…冗談に決まってるじゃないですか。もしかしてこれって、おこづk」
「内職の金。日払いだったんだな」
「……いえ、締め切り今日までだったんです…」
「締め切り前なのに十個か幾らか出来て無かったな」
「吃驚しましたか?私も吃驚です」
「お前仕事向いてねーよ」
「ちょ、違いますよ、ただ春はどうにも眠くて…出来高制なんですから別にいいじゃないですか!」
「ああうん、そうだな」
夜着の胸元を弄りながら、お嬢さんはベッドに埋もれるお金に見向きもしません。
城主様も振り返らずに「受け取らないのか」とだけ聞くと、シャツの袖を伸ばしたり戻したりし始めました。
「……それは、あなたにあげます。そのつもりのお金ですから」
「別にいらねーんだけど」
「私が嫌なんです」
「…………」
「…………」
「……………あー、じゃあ、こうするか」
やっと振り返って、城主様はお金の詰まった袋を摘まみ上げて、お嬢さんの方に投げます。
反射的に受け取ってしまったお嬢さんが抗議の声を上げる前に、視線を明後日の方に向けて遮りました。
「借金分、お前は俺の…近くで、うろちょろしてろ。良き妻でいろとは言わないが、マシな女でいろ」
色んな物を含みつつ、城主様は端折った言葉を伝えます。
お嬢さんはそれを噛み砕いて、…多分噛み砕ききれてないまま、口を開きました。
「…マシって何ですか。私は最高の女ですよ」
「ほう、じゃあこの周りのぬいぐるみ、」
「私の家族を引き裂く気ですか鬼畜め」
「家族っておま…鬼畜って、」
「………まあ、"この子達がいらない"と思えたら、それも考えるかも、しれません」
「!」
ぷぅ、と膨れ面のまま、お嬢さんはぽそりと言います。
それを目敏く拾った城主様は、
「うっわ、お前"家族"捨てる気かよ鬼畜め」
「…………」
「ていうか"考える"ならもう潔く捨てようぜ。とりあえずそこのムッキーからな」
「……知ってますか、ムッキーはムッキーをこっそり捨てようとした父を呪って夢にまで出て足音も立てずに追いかけていた事があるのですよ」
「ムッキー怖っ!?」
前回の仕返しをしようとして、有耶無耶に終わってしまいました。
*
難しい、その名前と君の心。