5.熊さん、お嬢さんの泣き言を聞く
とても好きな殿方がいたの。
だけどその方は私のお家しか見てなくて、それに気づいたときとても悲しかった。
でも後に思うの。あの時、まだやり直しの聞くときに気付いたのは本当に幸いだったと。
でもねえ、当時の若い私は悲しくて自暴自棄で。―――悪魔がいるという森で一人で泣いていたの。きっと実家は私を探して大変だったでしょうねえ。
暗い森の中で、私は案の定悪魔に会ったわ。びっくりしたの。とてもとても大きな熊だったんですもの!
初めてみたけれど、後から駆け付けた人もすごく吃驚してた。大きいお口が開いたときまで、神様にも親への言葉も浮かなかったわ。石のようにただ固まっていたの。
「危ねえぞ」
って。
ふふ、貴族と思えない言葉だったけど、お母様が聞いたら眉をぴくりとしてしまうような風貌の人だけど、持っていた斧で熊を倒したあの人はね、腰が抜けた私をおぶって森の外まで出してくれた。
道中、青白い顔の私に、拙く話しかけてくれてね、とてもホッとしたの。
背は広くてね、逞しくて。ふふ、笑われるかしら。……王子様って、思ったのよ。
その後、お礼と称して何度も会いに行ったの。でもあの人は釣り合わないからって素っ気なくてねえ。
…だけど、お家が苦しいことになった、好きだった殿方に攫われて無理やり結婚されそうになったときにね、勇ましく取り戻しに来てくれたのよ。
私、怖かったのも忘れて、嬉しくて嬉しくて!
「わたしの、最高の王子様なの!」
―――と、夫人は夫の逞しすぎる腕に抱きついて言うのです。
その背後にあるアリア作の絵には二人の若かりし頃―――王の妃として差し出されても何ら見劣りのない、そんな美姫が子爵よりも逞しすぎる殿方に幸せそうに寄り添っています。
ずっと無言の子爵の父も、何となく照れ照れしてるような気がします……。
「母さん、その話は耳にタコができて吹っ飛ぶくらいは聞いたよ」
「あらあらごめんなさい?…でもねえ、本当に嬉しかったんだもの。こんな出来損ないの私を大事にしてくださって…」
「………」
「え?―――まあ!ふふふ」
夫が髭だらけのもっさりした口元で何かを呟くのを聞き取って、夫人は幸せそうに笑うのです。お嬢さんは羨ましいのと同時に、胃がもたれそうになりました。
(……私も、そんな人生を歩んでみたいなあ…)
現状無理そうだけれど。
お嬢さんが俯いていると―――
「私ねえ。フリルの似合う女の子が欲しかったの」
え、と顔を上げると、夫人はやっぱりのほほんと言うのです。
「テレーゼもねえ。確かにあの格好も似合っているけれど、母はね、ドレスを着て欲しいのよ……だけど、お嬢さんが来てくれたら、」
「ひぅっ」
「私の創作意欲に火が付くわ!」
何の!?――と急に手を掴まれたお嬢さんが子爵を見上げれば、子爵は苦笑いで、
「母さんは服を繕うのが得意でなあ。昔は俺のも姉さんの子供服も作ってくれてたんだ」
「今はもう、老いのせいでそうたくさん作れないけれど…見て!今日の私とサディ様の服は私が繕ったの!」
「えっ、お店の物かと……」
「褒めてくれて嬉しいわ!……ふふふ、見れば見るほど作り甲斐がありそうね。ふふふ…」
「………、………」
「もう、大丈夫よ、二日も部屋に閉じ込めようなんて思ってないわふふふ」
お嬢さんはとても帰りたくなりました。
いえ、敵意を抱かれるよりは、とても良いのでしょうけど。嫁いだらエライ目に遭いそうで、お嬢さんは小さく後退しました。……って、
(と、嫁ぐ気なんか無いのに…!)
思わず唇を噛んでいると、不意に頭に重みが増して。
「お嬢さんは怖がりだから、そんな最初から苛めないでやってくれ」
「苛めるだなんて酷いわ―――あら、もう着いたわね…ふふ、今日の昼食は何かしら?」
子爵はぽんぽんと頭を撫でます。
子供扱いして、と思っているとその手がするりと髪を一房伝って撫でるように落ちて、お嬢さんはギクシャクと部屋に入るはめになりました。
「ふふふ、お嬢さん、夕食の時も居てくれるのでしょう?ねえ、今晩は豪勢にしましょう」
「え、あ、いえ……」
「何がいいかしら……そうそう、サディ様はね、イノシシを一人で狩れるのよ。初めて見たとき吃驚したのよ。私が食べやすいように細かくしてくれてね…」
「え、あ……イノシシは、あの…」
「イノシシ狩ってくるのも目の前で調理されてるのにも笑顔でいられる母さんと違って、お嬢さんは怖がりだからね、泣いてしまうよ」
「……、…………」
「まあ!それは良いですわねサディ様。ふふふ、親子二人で熊鍋も精がついていいわ」
「く、くま…!?」
思わずお嬢さんが縋るように子爵を見ると、
「母さん、俺だって一人で熊の一匹二匹狩れるよ」
違う。
お嬢さんはそう言いかけて、沈黙しました。
「でもねえ、母は心配なの。もしお前が食われでもしたら……」
「したら?」
「森全てに火を放つわ」
今までのふわふわな声を消して、とても低い声で答える夫人に、夫人以外の三人はビクッとしました。後ろに般若が見えます……。
給仕の男も侍女もその雰囲気に恐れるように俯いたまま、静かに手早く料理を並べていきました。
「…それに、ふふ、お前に何かあったら、私たち以外にもお嬢さんが悲しんでしまうわ。ねえ?」
「へっ?…あ、は、はい!」
「でも父さんも年だし。父さんが襲われたら―――」
「そしたら私が銃と火を手に"森を"殺すわ。ふふ、私も含め全部ね全部。ねえサディ様、そしたらお迎えに来てくれますか?」
「……、…………。…………、………」
「え?ふふ、ごめんなさい。でも、…ふふ、サディ様ったらロマンチスト…」
お嬢さんはこの時点ですでに、「このご夫妻は本当に仲がよろしいのね」と遠い目をすることが出来るようになりました…。
*
「―――ねえお嬢さん、もう夜も遅いわ。泊まっていかれたら?」
「それがよかろう。今は治安がいいが、美女の乗った馬車が狙われやすいのは変わらぬゆえ」
「ふふ、それはお前にも言えるのですよテレーゼ。今度からは馬ではなく馬車であの子に会いに行きなさいな」
「心配ご無用。今日もこの剣で不届き者を裁いたので」
「まあ、捌いてしまえばよかったのに」
「母様は見た目に反して過激であらせられる」
「まあ!ふふふふふ」
「…………」
「ああサディ様。サディ様もそう思いますよね?―――ね?泊まっておいきなさい。着替えなら任せて頂戴ふふふ」
結局押しに押されても夕飯も共にしてしまうお嬢さんですから、このお誘いも断れないでしょう。
お嬢さんは何故かじりじりと近づいているような気がする夫人に怯えていると、子爵はお嬢さんの肩に手を置いて、
「母さん、お嬢さんに無理を強いちゃあ駄目だよ。服はお嬢さんに選ばせるんだよ」
「そんな……もったいないわ。ねえ、サディ様?」
「………」
「サディ様まで…」
どうやら諭してくれたらしい子爵の父君に、お嬢さんが感謝の眼差しを送っていた時です。
肩に手を置いていた子爵が、ぽんと叩いて、
「じゃあ、そういうことで。部屋に案内するね」
「えっ」
「安心されよ、向こうの家にはすでに使者を送ってある」
「えっ!?」
「………、」
「えっ…?」
「いいわね?お前、ちゃんとしなさいね。場所は分かっているでしょう?」
「はいはい、まったく、母さんは気にしなくていいんだよ」
「まあ!ふふふふ」
意味深に笑う夫人は「ではおやすみなさい」と愛する夫の傍に寄り添って(背後から見るとまるで"美女と野獣"です)部屋から出て行くと、姉君も「では失礼」と颯爽と去ってしまいます。
子爵は置いてけぼりを喰らったようなお嬢さんの手を取ると、「部屋に案内するね」と連れて行ってくれました。
寄り道せず、まっすぐに。―――けれども、食事の席でお酒を勧められた(体の弱い夫人を除いて皆が飲んでいました)お嬢さんには、少しばかり辛い道程です。
子爵はよろけたお嬢さんの壁になってあげると、笑いながら言いました。
「お酒くらい、断ってもうちの家族は誰も嫌な顔をしないのに」
子爵は何度も夫人が勧める酒を横から取っては庇ってくれたのです。夫人にも何度か窘めてくれました―――つまり、子爵は結構飲んだはずなのに。
「…モントノワールさまは、おさけ、たくさんのめるんですね」
「うん?んー、結構飲める方かなあ。でもお嬢さんはまだ子供なんだし、俺の真似しちゃ駄目だよ」
「こどもじゃないです…16ですもん」
「俺にはまだまだ子供に見えるなあ」
16はまだまだ子供?―――いいえ、立派な大人です。
お嬢さんはすでに15の時点で求婚の手紙が来ていて、そこから母に煩くあれこれと外に出されるようになったので、本人は「立派な大人」であると思っています。
「こどもじゃないです」
「ふーん?」
「だって、おとなだから、けっこんできるから、あのひとだって、………」
「ん?」
にやにやしてた子爵ですが、歩いていて酔いがどんどん回ってきたのか、お嬢さんの言動に注意するように―――見るものの、これはいっそおぶってしまった方がいいのではないかと手を上げ下げしていました。
「おとなだから、"うりどきだから"。がんばらないと、うられちゃう……」
ぽろっと零してしまったのは非常に周囲には言えないことで。
お嬢さんは眠くなってきた目を擦って、「……売られる?」と低く聞き返す子爵に「うん、」と言って、
「ははが、あなたと、けっこんしないと。しょーかん……うるって」
「お母さんが?」
「あのひと、じぶんより…なのが、……らぃ、だから」
「………」
足が絡みそうになるのを助けると、お嬢さんは「きにしないで」と言って。
「でもね、リーゼ、あなたとけっこんしない」
「な、なんで?」
「あのひとね、おかねもくてきで、おとうさん、どくで、ころしたのよ」
「へ……」
「わたし、おとなに、いったのに。……ふふふ、けっこんしたら、おいえのっとられるもの。リーゼはわかってるんだから…」
子爵は一旦大きく息を吸って長く吐くと、その大きな両手でお嬢さんの両頬を包みました。
「……お嬢さん、今日、初めて酒を飲んだだろう?」
「せいかい!」
「ふう、……まあ寝よう。ほら、ここ」
「いごこちのいいきゃくしつですねっ」
「………いや、」
「?」
「――――ここ、俺の部屋なんだ」
子爵はそう言うと、扉から少し先で座り込んで絨毯を弄っている―――まったく目も当てられないお嬢さんに言うや否や、逃げられないように扉の鍵を閉めました。
*
ゆうべはおたのしみでしたね。
どうでもいい補足:
お酒を飲むと……
→お嬢さん(※リーゼロッテ):子供なので加減が分からない。すぐ酔う。飲むと頭が幼児化。
→子爵(※テディ):何杯でもいける。そして酔わない。
→子爵母(※夫人):昔は体弱いくせに酒豪。今は結婚記念日に愛する夫と飲んで楽しむ。
→子爵父(※サディ):あんま飲まない。すっごくゆっくり無言で飲む海賊(のような風貌の人)
→子爵姉(※テレーゼ):普通。強いて言うとそんな好きでもない。
夫人はすっごく美人。夫婦になってからは舞踏会で「おおー…え?隣、え?」ってきっとなってたけど、結婚してても求婚の手紙が来てたけども旦那一直線。
旦那は旦那で嫁の為に嫁好みの家に造り替えたり嫁の為に精が付くようにと「新鮮な肉」を狩ってきたりとめっちゃ甘やかしてる。しかし無言。