4.熊さん、お嬢さんのメンタルを揺さぶって苛める
「おじょーさん」
木陰の下、筆をそっと操るお嬢さんに、モントノワール子爵は井戸から汲み上げた冷水に浸したキュウリを籠ごと差し出しました。
お嬢さんは一瞬訳が分からなくて―――ああ、水分補給用にか、と納得がいって筆を置くと、おどおどと手を伸ばしました。
「いただきまーす」
グラスのようにキュウリ同士をこつんと当てると、子爵は慣れた様子で食べてしまいます。
お嬢さんはある種野蛮なその光景をじっと見た後、もそもそと小さく齧ってみました。
「お嬢さんは小動物みたいに食うんだなあ」
「…あなたは―――狼みたい」
「童話の?」
「そう」
「熊熊と言われてきたから新鮮だなあ。ふむふむ……がおー!」
「きゃっ」
「はは、吃驚した?」
折れそうなくらいキュウリを握って固まるお嬢さんに、どこまでも朗らかに子爵は笑います。
何とも豪快な人物ですが、話していてとても居心地がいいので、お嬢さんは「ちょっとだけ、」とちゃんと返事をしました。
すると子爵は、とても嬉しそうで。
(……………うん、しばらくは、まだ、私だって、楽しんでも……)
要は本格的に話が進みそうになる直前で切ってしまえばいいのです。
そうして自分に甘くあろうとする心に何とも言えず、お嬢さんは少しだけ黙りました。
「…外、疲れた?」
「えっ」
「外で描くのに向いていないって言ってたでしょ、だから無理させちゃったのかと」
「あ…いえ、えっと……野菜が美味しかったので」
「そりゃよかった!…ま、ちゃんとした人なら果実酒か何か持ってくるものなんだろうけども」
「わたし…その、キュウリの方が斬新でよかったです」
「はは、今日のお嬢さんは優しいなあ!」
「そんなに気にしなくていいんだよ」と頭を撫でられて、お嬢さんはうっかり泣き出しそうになりました。
あの家に住んでてどうしてここまでメンタルが脆いのかと罵ってやりたいです。
お嬢さんは撫でられたせいで落ちた帽子を拾うことも無く、黙ってされるがままでした。
「―――そういえば、絵はどこまで進んだ?」
「そんなに……」
「じゃあ、明日も描けばいいさ」
「……」
「嫌?」
「…いえ、大丈夫です」
気持ち、切り替えないと。
―――それが上手くできれば、彼女の人生ももっと上手く回るのでしょうに。
どうして自分はばっさりと言い捨てられないのか。言い含める度胸と頭がないのか。
うだうだした自分が嫌い、とお嬢さんはキュウリを齧りました。
「……お嬢さん、今日はもう部屋に帰ろうか?」
「…え」
「ああ、ほら、顔色も悪いし。中からこの農園だって見れるから。どうだい?」
「………」
(ばれてる……気がする)
鈍感な人だと思ってたのに。お嬢さんは有難く頷くと、よいしょと立ち上がりました。
気のせいかそれすらも重く感じられます―――あ、キュウリ、と食べかけのそれをどうしようかと(お嬢さんの口じゃあ多少時間がかかります)動きを止めると、大きな手がお嬢さんの手を傾けて。
「いただきっ」
ぼりん、と大口で食べてしまう子爵に、お嬢さんは呆気にとられて―――笑ってしまいました。
キュウリをこうやって咀嚼する子爵はなんだか間抜けで、山賊のように怖い顔も可愛く見えてきます。
どんどん食べようとする子爵の邪魔にならないように手をそっと下がらせていくと、子爵の速さに負けて指に唇が当たって。
キュウリなんてもう追ってなくて、びくりと震える白い指先を軽く噛んで、子爵は悪戯な瞳で見上げ、咥えたまま、
「つかまえた」
発音と同時に舌が触れて、お嬢さんはとてもドキドキしてしまいます。
子爵は悪戯っ気のある、無邪気で、でもちゃんとこちらの意を汲んでくれる人なのですが、さりげなくこうして「男らしく」あるのです。
ある意味遊び慣れた男性よりもやっかい、とお嬢さんは引っ込められない指に困りながら、このままでもいいかもしれないとも思いました。
「お嬢さん、指細いなあ。ちゃんと食べなきゃダメだよ」
「……むぅ、」
「でも柔らかいなあ。昔握った姉さんの手よりも柔らかい」
「……子爵のお姉さまは、剣でも…?」
「ああ、してるよ。俺の家の女性はみんな体が弱くてね、母さんが『死神の目を誤魔化せますように』って、姉さんに男物ばかり着させてたらああなったんだ」
「なんだか逆ですね」
「そうだねえ。でも、女物を着せるべき俺は滅多なことじゃあ寝込まないから。―――ま、そのおかげか姉さんも母さんほど酷くはない…」
今度は指に唇を触れさせて、子爵は言いました。
「父さんといい姉さんといい、どうしてこうも綺麗な人を好きになってしまうかなあ。綺麗なものは儚いと相場が決まってるのに、―――俺も馬鹿だなあ」
子爵は、外見上の美に関しては「別嬪」という言葉を使います。
「綺麗な人」なんてちゃんと言ったのを聞いたのは今日が初めてで、なんとなくその意味を悟って、お嬢さんは泣きそうになりました。
*
「お嬢さんは泣き虫だなあ」
子爵のこの言葉ももう何度目でしょうか。
でも、まだ泣いてないもの。―――と思っていると、「あら?」とおっとりした女性の声が聞こえます。
「テディ、そこのお嬢さんがあなたの大好きな―――」
と、ここで「あらあらふふふ、」と手で口元を隠してしまう……細身の、上品に、お嬢さんの母と比べて良い年の経かたをしたとはっきり分かる夫人が、どう見ても海賊のような眼帯から派手に傷痕の覗く体格の良い夫の袖を引っ張って、「昔の私たちみたいねえ」と笑っています。
「母さん、父さんとどこかに行くの?」
「いやね、お父様とお母様が余所行きの服でお家を散歩していたら駄目なの?」
「いやいや。じゃあ丁度よかった。一緒にお昼ご飯どう?」
とても幸せそうな夫人がのほほんと言えば、子爵は何が丁度いいのかそんな提案をしてしまうのです。
子爵の熊さんのような風貌には慣れましたが、父君の姿は慣れませんし、何と言ってもご両親ですからメンタルの弱すぎるお嬢さんは耐えれそうにありません。
「いいわねえ。そうしましょう」
―――出来ることなら、初めて来た頃のように蹲ってぐずついていたいお嬢さんでした。
*
両親に会わせるとか地味に逃がす気ないよね、子爵……。