↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空の結び目  作者: 夕花


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/71

- 58 -

 鞄の肩紐を直そうとポケットから手を出すと、すぐ指先へ冷気がまとわりつき、掛け直してすぐに戻した。いつもの通学路なのに、今朝は頬の空気まで一段冷たく、吐いた息が白く残る。


 薄い雲を通す光が弱く、途中の家々や歩道も暗く沈んで見え、晴れていれば朝日が当たる場所にもはっきりした影はなかった。反対から下る自転車のタイヤが路面を細く鳴らして通り過ぎ、視線を上げると校舎の上も同じ灰色がかった空だった。この冷え方なら、雪が降ってもおかしくなさそうだ。


 校門の周囲に生徒が増えて朝の挨拶や靴音が重なる中、昇降口へ入ると外より寒さが和らいだ。靴を履き替えて教室へ向かい、扉を開けると、今度は暖房の空気が頬に触れた。


「おはよ、ちづる」


 綾乃はすでに席にいて、鞄から教科書を出していた。


「おはよう」


「今日、寒すぎない?」


「寒い。歩いてても全然あったまらなかった」


「分かる。曇ってて日も出てないしね」


「雪でも降りそうだね」


 千綴が言うと、机の間を歩いてくる足音がした。


「ギリシャも冬は普通に寒いぞ」


 顔を上げると、ヴァシリオスがこちらへ来ていた。


「そうなの?」


 綾乃が聞く。


「ああ。暖かいイメージあるかもしれないけどな」


 ヴァシリオスは綾乃の机の横で足を止めた。


「アテネでも朝晩は冷えるし、海の近くは風もある。二人とも、冬服はちゃんと持ってこいよ」


「ギリシャって、もうちょっと暖かいのかと思ってた」


 綾乃が言う。


「昼はそこまででもない時もあるけどな。朝晩は別」


「じゃあ、ちゃんと持っていく」


 千綴が返すと、ヴァシリオスが頷いた。


「そういえば、向こうの予定ってもう決めてるの?」


「だいたいはな」


「結構決まってるんだ」


「せっかくだから、普通に観光しただけじゃ行けないところも入れたいと思ってる」


「普通じゃ行けないところ?」


「そう。楽しみにしとけ」


 ヴァシリオスが笑う。


「ただ、まだ向こうで確認してるところもあるから、全部決まったわけじゃない」


「余計気になるんだけど」


 綾乃も笑った。


「あと、移動は詰めすぎないようにしてる。せっかく行ったのに、時間ばっかり気にして走り回るのも嫌だろ」


「修学旅行の時もそんな感じだったね」


「沖縄で学んだからな」


「最初の予定、結構詰め込んでたもんね」


「最後はちゃんと直しただろ」


「うん、それはそう」


 二人のやり取りに耳を向けたまま、千綴は机の端の筆箱を取った。


「それで――」


 ヴァシリオスの言葉に重なるように、教室の前の扉が開いた。山田先生が出席簿を持って入ってくる。


「ほら、席つけ。始めるぞ」


 教室のあちこちで椅子を引く音がした。


「続きはあとでな」


 ヴァシリオスはそう言って、窓側の最前列へ戻っていく。


 綾乃も身体を前へ向けた。千綴は筆箱を開き、机の上へノートを出した。





 朝のホームルームを終えて授業が始まると、千綴はノートへ板書を写していった。


 授業終了のチャイムが鳴った。


 教師が教室を出ていくと、教科書を閉じる音や椅子を引く音が重なり、あちこちで話し声が戻ってきた。


 千綴もノートを閉じ、次の授業の教科書と入れ替える。


「さっきの続きだけど」


 綾乃が椅子ごと少しこちらへ向いた。


「私、遺跡は見てみたいな」


 その声を聞いて、ヴァシリオスが窓側の席からこちらへやってくる。


「遺跡はいくつか候補に入れてるぞ」


「やっぱり行くんだ」


「そりゃ行くだろ。せっかく行くんだし」


 ヴァシリオスは千綴の机の横で足を止めた。


「中村くん、そういうの詳しいの?」


「親の影響で少しは知ってる。二人とも考古学者だからな」


「へえ、そうなんだ」


「見るのは昔から好きだぞ」


「説明する方は?」


「それは別」


「そこは別なんだ」


 綾乃が笑う。


「見るのと説明するのは違うだろ」


 ヴァシリオスも笑いながら肩をすくめた。千綴は机の上の教科書に手を添えたまま、二人のやり取りを聞いていた。その時、少し離れたところから環がこちらを見た。


「食べ物は?」


「猫はそこか」


「大事」


 環はそれだけ言って、こちらへ歩いてくる。


「その辺も考えてる。着いてから決めてもいいしな」


「甘いものある?」


「ある」


「じゃあいい」


「何がいいんだよ」


 ヴァシリオスが呆れたように言う。環は気にした様子もなくヴァシリオスを見る。


「じゃあ、お土産よろしくね」


「分かってるよ」


「悠司の分もね」


「なんで俺が――」


 チャイムが鳴り、言い切る前に前の扉から次の教師が入ってきたので、環は何事もなかったように自分の席へ戻った。


「おい、猫」


 ヴァシリオスが小声で呼んでも、環は振り返らない。


 千綴は笑いを堪えながら教科書を開いた。前では綾乃も肩を揺らしている。ヴァシリオスは何か言いたそうな顔のまま、窓側の席へ戻っていった。





 午後の社会の授業では、ヨーロッパの地域区分を扱っていた。


 教師の説明を聞きながら、千綴は教科書の地図へ目を落とす。国境線の中には、見慣れた国名がいくつも並んでいた。


 イギリス、フランス、ドイツ、イタリア。


 説明に合わせて視線を動かしているうちに、少し下の方で目が止まる。


 ギリシャ。


 さらにその近くには、アテネの文字もあった。


 朝、ヴァシリオスが話していた場所だ。


 明後日には、ここへ行くんだ。


 教科書の中では小さな文字でしかない場所へ、自分が実際に向かう。そう考えると、さっきまでただの地図だったものが少し違って見えた。


 海外へ行くのは初めてだ。


 飛行機に乗って、国を越えて、今見ているこの場所へ行く。


 楽しみだな。


 そう思っているうちに、教師の声が耳に入った。


 千綴は顔を上げる。教師の説明はすでに次へ進んでいて、黒板にも新しい言葉が書き足されている。


 慌ててノートへ目を戻し、抜けていたところを書き足す。


 ペンを動かしながらも、さっき見つけたギリシャの文字が、しばらく頭の片隅に残っていた。





 放課後になると、教室のあちこちで帰り支度が始まった。


 終業式を明日に控えているせいか、机の中を整理する生徒や、持ち帰る教科書を鞄へ詰める生徒がいつもより多い。


 千綴も机の中を確認する。残っていた教科書を何冊か抜き出し、鞄の中へ順番に収めた。


 前では綾乃も机の中を覗き込みながら、プリントの束をまとめている。


 それを鞄へ入れたあと、机の奥から一冊の教科書を引き出した。


「これ、持って帰るの忘れそうだった」


「明日まとめて持って帰るの大変だもんね」


「そう。できるだけ今日持って帰っときたい」


 綾乃が言いながら、その一冊も鞄へ押し込んだ。千綴も最後に机の中を覗き、忘れ物がないことを確認してから鞄を閉じる。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日」


 綾乃と別れ、千綴は昇降口へ向かった。


 外へ出ると、朝と変わらず空は薄い雲に覆われていた。日が傾いたぶん、灰色の空が少し近く見える。


 校門を出て、駅の方へ歩く。


 昼間より冷えた空気が頬に触れた。


 ポケットへ手を入れようとしたところで、視界の端を白いものが横切る。


 千綴は足を止めた。


「……雪?」


 もう一つ、小さな白い粒が目の前を落ちていく。朝のことを思い出して空を見ると、雲の下から細かな雪がゆっくり落ちはじめていた。


 千綴は少しだけ空を見上げてから、また歩き出した。制服の袖に落ちた一粒が、すぐに溶けて消えた。





 丘平商店へ着く頃には、降り始めた時よりも雪の粒が少し増えていた。


 店の軒先へ入ってから肩を軽く払う。肩に残っていた白い粒は、指で触れる前にほとんど溶けていた。


「お、降ってきたね」


 店の奥から巴が顔を出した。


「学校を出て少ししてからです」


「そうか」


 千綴は鞄をいつもの場所へ置き、エプロンを身につけて店に出た。少しして、上着の肩に雪を残した客が入ってくる。


「いらっしゃいませ」


 千綴がレジへ入ると、客は飲み物と菓子をいくつか籠に入れて持ってきた。


 商品を通して袋へ入れ、代金を受け取る。客が出ていく時に扉が開くと、外の冷たい空気が一瞬だけ足元を抜けていった。


 その後も何人か続き、しばらくはレジを離れる暇がなかった。


 客足が落ち着いた頃、千綴は菓子棚の商品を並べ直し始める。店内ではラジオから少し古い曲が流れていた。


「そういや、海外行くの初めてなんだっけ」


 レジ横で伝票をまとめていた巴が、不意に聞いた。


「初めてです」


「観光地はスリもあるからね。スマホとか財布は、日本にいる時より気をつけな」


「やっぱり、日本より多いんですか?」


「場所にもよるけどね。日本と同じつもりでいるよりは警戒しといた方がいいよ。人の多いところで鞄開けっぱなしにしないとかさ」


「分かりました」


 千綴は手元の商品を一つずつ前へ揃えながら頷いた。


「一緒に行く友人が向こうのこと詳しいので、その辺は少し安心ですけど」


「それなら、動きやすくはありそうだね」


 巴は伝票へ目を戻した。千綴も作業へ戻り、棚の端に寄っていた商品を整える。


「店長にも、お土産何か買ってきます」


「いいよ、そんな気使わなくて」


「でも、せっかくなので」


「エレディトも同じこと言ってたよ」


 千綴は手を止めて振り返る。


「エレディトも?」


「うん。だから二人とも、お土産は気にしなくていい。自分たちが楽しんできな」


「……分かりました」


 そう答えてから、千綴も少し笑った。


 そのあと一度レジへ戻り、また客を見送る。


 しばらくして店内が静かになったところで、窓の外へ目を向けた。


 さっきより雪の粒が増えていた。


 街灯の明かりを横切るたび、白い点がいくつも浮かんでは消えていく。道路はまだ濡れているだけで、積もる気配はない。


「帰る頃にはもう少し強くなるかもね」


 巴の声に、千綴は外を見たまま頷いた。少しの間その雪を眺めてから、入口へ視線を戻し、次の客を待った。






 勤務を終えて店の外へ出ると、雪はさらに増えていた。昼間から続いていた雲の下を、白い粒が途切れず落ちてくる。道路や歩道に積もるほどではなく、地面へ触れた端から濡れた跡に変わっていた。


「千綴、足元気をつけて帰りなよ」


 店の中から巴の声が飛んでくる。


「はい。お疲れさまでした」


「お疲れ」


 扉を閉めると、店内の音が少し遠くなった。


 千綴は鞄を肩へ掛け直し、家の方へ歩き出す。


 歩き出すと、白い粒が視界の前を次々と横切った。風に流されるものもあれば、まっすぐ落ちてくるものもある。


 吐いた息が白く広がる。


 足元へ目を落とすと、濡れたアスファルトに街灯の光が細く映っていた。


 信号待ちで足を止め、千綴はもう一度空を見上げた。


 明日は終業式。その次の日には出発だ。


 雪の中でそう考えると、朝よりもずっと近くまで来たように感じる。


 信号が青に変わる。


 千綴は横断歩道を渡り、また家へ向かって歩き出した。


 肩へ落ちた一粒を払う。


 雪は静かに降り続いていた。


2026/10/13 全体改訂

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。