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空の結び目  作者: 夕花


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 吐く息が、朝の空気の中で白くほどけた。


 千綴は坂を上りながら、コートの襟元へ指をかけた。ここ数日で、朝の冷え込みがまた一段深くなった気がする。


 坂の途中まで来たところで、足がわずかに緩んだ。


 視線だけが、坂の上ではなく、その向こうへ抜けていく。屋根の連なりの先、丘の向こうまで見える空は高く澄んでいた。薄い雲が流れている。千綴は数秒だけ、そこを見ていた。


 自転車のブレーキが後ろで軋んだ。横を通り過ぎる気配に、ようやく歩き出す。


「ちづるー!」


 聞き慣れた声が追いついてきた。


 振り向くと、綾乃が鞄を押さえながら小走りで坂を上ってくる。


「おはよう」


「おはよ。寒くなったね」


 隣に並んだ綾乃が、白い息を吐いて笑う。


「朝、布団から出るのつらくなってきた」


「この前まで暑かったのにね」


「急に冷えたよね」


 そんな話をしながら、二人は坂を上った。


 校門が近づくにつれ、人の声が増えていく。脚立を運ぶ生徒、丸めた模造紙を抱えた生徒、何かの板を二人がかりで運んでいる生徒もいる。少し前まで体育祭一色だった校内は、もう完全に文化祭の準備へ切り替わっていた。


 昇降口で上履きへ履き替え、廊下へ出る。


 教室へ向かう途中、前を歩いていた二人組の声が耳に入った。


「今日も休みだって」


「長くない?」


「風邪こじらせたんじゃない?」


 千綴は二人を追い越しながら、会話へ耳を傾けた。誰の話かは分からない。最近よく聞く話だと思いながら、教室へ向かった。


 教室に入ると、後ろの黒板にホラーハウスの配置図が途中まで描かれていた。誰かが定規を当てて線を引き、その横で別の生徒が段ボールを開けている。古い紙と絵の具の匂いが混じっていた。


「ちづる、聞いて」


 環が机に頬杖をついたまま、こちらを見る。


「バカがまた変なこと言い出した」


「おはよう。今度は何」


 鞄を席へ置きながら聞くと、ヴァシリオスがすぐに反応した。


「変じゃない。演技の話だ」


「死体役なんて動かなければいいだけでしょって言ったら、違うんだって」


 環が面倒そうに説明する。


「違うだろ。動かないまま見せるのにも技術がいる」


「死体に?」


「死体でも」


 ヴァシリオスは妙に真剣だった。


「じゃあやってみてよ」


 環が言うと、ヴァシリオスは椅子から立ち、教科書を胸に抱えたまま真顔で固まった。


 数秒。


 綾乃が耐えきれず吹き出した。


「……だめ、普通に面白い」


「ほら、演技になってる」


「笑われてるだけでしょ」


 環が呆れたように返す。


 千綴も笑いながら席についた。


 そのまま朝の時間が過ぎていく。


 黒板の配置図について話す声。段ボールを引きずる音。誰かが机を動かす音。


 その合間に、少し離れた席からまた小さな声が聞こえた。


「文化祭までには来られるかな」


 千綴は教科書を机へ入れながら、声のした方へ目をやった。話している生徒の顔は見えたが、誰が休んでいるのかまでは聞き取れず、ノートを取り出した。


 チャイムが鳴るまで、あと数分だった。





 昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。


「今日はお昼、生徒会ないんだっけ?」


 綾乃が千綴の席へ来る。


「放課後だけ」


「じゃあ食堂行こ」


 千綴は財布を取り出し、立ち上がった。


 食堂はいつも通り混んでいた。トレーの触れ合う音や椅子を引く音が重なり、窓際の席まで途切れずざわめきが届いている。


 四人で席につき、しばらく食べていると、ヴァシリオスが思い出したように顔を上げた。


「そういえば、新辺でまた変な噂あるぞ」


「また?」


 綾乃がすぐに食いつく。


「今度は何。青い犬?」


「違う。廃墟」


 環がスプーンを止めた。


「急に普通の怪談になった」


「夜だけ明かりがつくらしい。誰も使ってないはずなのに」


 その言葉を聞いて、千綴の箸が止まった。


「どの辺?」


 ヴァシリオスが少し考える。


「新辺駅からは外れてる。倉庫とか工場がある方だったと思う。写真も回ってたけど、場所までは載ってなかった」


「誰か入ってるだけじゃないの」


 環が言った。


「管理してる人とか」


「俺もそれは考えた。でも、使ってない建物だって書いてあった」


「ネットの『使ってない』ほど信用できない言葉ないでしょ」


「夢がないなあ」


「廃墟に夢を求めないで」


 綾乃が笑う。


 話はそこで終わり、すぐに文化祭の飾りつけへ移った。


 色画用紙が足りないとか、黒布をどこまで使うとか、前の教室を暗くしすぎると危ないとか。聞き慣れた話が続く。


 千綴も相槌を打ちながら食事を進めた。


 けれど途中で一度だけ、先ほどの言葉が頭に浮かんだ。


 新辺。廃墟。夜だけ明かり。


 隣のテーブルから、別の会話が聞こえてきた。


「また保健室?」


「朝から頭痛いって」


 千綴は食事を続けながら、隣の会話へ耳を向けた。椅子を引く音が重なり、その先は聞き取れなかった。


「ちづる、黒布どうする?」


 環に呼ばれて、千綴は視線を戻した。


「去年の残り、使えるならそれでいいんじゃない?」


「私もそう思う」


 会話はそのまま続いていった。





 放課後、生徒会室へ入ると、鈴が机の上に申請書を広げていた。


「弥生先輩、お疲れさまです」


「お疲れ。今日は少なそう?」


「追加分がちょっとだけです」


 千綴は鞄を机の端へ置いた。


 少し遅れて悠司もやってくる。


 三人で席につき、文化祭で使う備品の申請を順番に確認していった。


「このクラス、看板一枚減ってる」


 千綴が申請書を見ながら言う。


「代わりに椅子を増やしたいって連絡来てた」


 悠司が在庫表を確認する。


「当番の人数も変わってるな」


「欠席が出て、組み直したみたいです」


 鈴が横から付け加えた。


 千綴の指が紙の上で止まった。朝、廊下で聞いた「今日も休み」という声が浮かび、変更された当番の人数へ目を落とす。


「椅子は足りる?」


「今の数ならぎりぎり」


 悠司が答える。


 千綴は頷き、申請書の端に印をつけて次の紙をめくった。


 さらに二枚ほど進めたところで、鈴が首をかしげた。


「こっちも人数変更ですね」


「最近多いな」


 悠司が何気なく言う。


「文化祭前で忙しいからじゃないか。体調崩してるやつもいるし」


「そうかも」


 千綴は答え、人数変更の欄を確かめてから、次の申請書へ手を伸ばした。


 申請は予定より早く片づいた。


 最後の一枚を束へ戻すと、悠司がゴムでまとめて戸棚へしまった。


「今日はこれで終わりでいいだろ」


「うん」


 鈴が大きく伸びをする。


 千綴も椅子の背へもたれ、窓の外を見た。


 夕方の光の中で、校庭の木の影が長く伸びている。


 風に揺れた枝が、ガラス越しに音もなく動いていた。





 校門を出ると、乾いた風が坂を吹き上がってきた。


 落ち葉が足元を転がっていく。


 千綴はコートのポケットへ手を入れ、そのまま坂を下った。


 丘平の街並みが少しずつ近づいてくる。屋根の向こうには鏡峰の木々が見え、反対側へ目を向ければ、新辺のある方角へ夕方の明るさがまだ残っていた。


 昼に聞いた廃墟の話が浮かび、足が少しだけ遅くなった。千綴は数秒ほど新辺の方角を見て、それから前へ向き直った。


 丘平商店へ着く頃には、店先の照明が点いていた。


「今日は遅かったわね」


 ガラス戸を開けると、巴が品出しの箱を抱えたまま振り返る。


「生徒会です」


「文化祭?」


「はい。備品の確認で」


 エプロンをつけ、千綴も店へ入る。


 夕方の客足はいつも通りだった。


 近所の老人が牛乳を一本買い、仕事帰りらしい女性が総菜と飲み物を持ってくる。ラジオから古い曲が流れ、冷蔵棚の低い音が続いていた。


「そういえば文化祭、何やるの?」


 客が途切れたところで巴が聞いた。


「ホラーハウスです」


「あんた出るの?」


「たぶん何かはやります。環は死体役をやるって」


「環ちゃんって、西園寺さんちの娘さんでしょ?」


「はい」


「あの子が死体役ねえ」


「動かないだけで演技になるかって、朝から揉めてました」


 巴が呆れたように笑った。


「楽しそうで何より」


 千綴も少し笑う。


 そのあとは、しばらくいつも通りの仕事が続いた。


 棚の商品を前へ出し、届いた品の数を確認し、伝票へ数字を書き込んでいく。


 途中、ペン先が止まった。昼に聞いた廃墟の話が、ふいに頭へ浮かぶ。


 千綴は一度だけ瞬きをし、伝票の数字へ目を戻した。書きかけの欄を埋め、次の品を数えていく。





 バイトを終えて外へ出ると、空はすっかり暗くなっていた。


 アパートまでの道を歩く。街灯の下を通るたび、足元の影が伸びたり縮んだりした。冷えた空気を吸うと、鼻の奥が少し痛い。


 途中で、ふと足が止まった。音がしたわけでも、呼ばれたわけでもないのに、千綴は振り返った。


 暗い道の向こうに、車のライトが一つ見える。家々の窓には明かりが点き、どこかから夕食の匂いが流れてきていた。


「……何だろ」


 小さく呟いて、また歩き出す。


 部屋へ戻って着替えを済ませ、湯を沸かして簡単に食事を取る。明日の教科書を鞄へ入れ、机の上に出したままだったノートを閉じた。


 布団に入り、灯りを消す。目を閉じてしばらくすると、昼に聞いた建物の話が浮かんだ。夜だけ明かりがつくという言葉が、頭に残っている。


 千綴は寝返りを打った。そのまま眠気に引かれ、意識が沈んでいった。

2026/10/11 全体改訂

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