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空の結び目  作者: 夕花


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 朝の坂道を、千綴は一人で上っていた。


 住宅の間を抜ける坂は、学校へ近づくほど少しずつ傾斜が強くなる。歩くたび、靴底がアスファルトを捉える感触が返ってくる。


 朝の空気はまだ涼しかった。


 日中はまだ夏の暑さが残っていて、日差しを受ければ汗ばむほどだった。けれど朝と夕方だけは、少しずつ涼しさを取り戻しつつある。二学期に入ってから、そんな中途半端な季節が続いていた。


 千綴は一定の歩幅を保ったまま、坂の先へ目を向ける。今日も授業があり、生徒会があり、放課後になればまた一日が終わる。そんな学校生活のことをぼんやり考えながら歩いていると、ふと視線が上へ向いた。


 建物の向こうに、青い空が見える。以前にも同じように空を見たことがあるはずなのに、今は少しだけ違って見えた。


 何が違うのか。


 千綴は歩調を緩めて考えようとしたが、これといった答えは見つからない。深く追うほどのことでもない気がして、視線を戻し、そのまま坂を上っていった。


「ちづる」


 後ろから声がした。


 千綴が振り返る。


 坂の下から、綾乃がこちらへ歩いてきていた。


「おはよう、綾乃」


「おはよう」


 綾乃が小走りに追いつき、千綴の隣に並ぶ。そのまま二人で坂を上りはじめた。


「そういえば、そろそろ体育祭の種目、参加決めなきゃだよね」


「今日、決めるんだよね」


「あ、そうだった」


 綾乃の声は、いつもより少しだけ張りがあった。


 千綴はそれを横目に見る。


「綾乃、なんか気合入ってない?」


「そう?」


「そう」


「気のせいだよ」


 綾乃はそう言って前を向いたが、口元はわずかに緩んでいた。


 千綴は何も言わずに歩き続ける。


 二人の前に、学校へ続く坂道が伸びていた。





 教室へ入ると、すでに何人かの生徒が席についていた。


 窓から差し込む朝の光は、夏よりもいくらか白っぽく見えた。教室の空気には、まだ昇降口を上ってきた熱がわずかに残っている。


 登校してきた生徒たちの声が、あちこちから重なって聞こえてくる。千綴は自分の席へ向かい、鞄を机の横へ置いた。前の席では綾乃が机の上を整え、少し離れたところではヴァシリオスと環が話している。ヴァシリオスは身を乗り出すようにしていた。


「俺はやっぱりリレーだな」


「バカ、気が早いね」


 環が机に頬杖をついたまま、欠伸交じりに返した。


「気が早いくらいでちょうどいい」


「私はパン食い競争がいい」


「猫、それも食べ物かよ」


 ヴァシリオスがからかうように言う。


「食べられるし、楽そうだし」


 環は特に悪びれる様子もなく答える。


 千綴は自分の席に着き、今日決める種目のことを考えながら鞄の中身を机へしまった。走る種目なら、自分にもできる。


 教室では、まだあちこちで種目の話が続いていた。誰がどの種目に出るか、そんな話し声が机のあいだから聞こえてくる。


 やがて予鈴が鳴り、生徒たちがそれぞれ自分の席へ戻っていく。少し遅れて教室の前の扉が開き、山田先生が入ってくると、それまで続いていた話し声も少しずつ小さくなった。


「おはよう」


 教壇に立つと、出席簿を開いた。


「じゃあ、出欠を取るぞ」


 一人ずつ名前が呼ばれていく。


 千綴は前を向いたまま、自分の名前が呼ばれるのを待った。


 出欠確認が終わると、出席簿を閉じて教室を見回した。


「体育祭も近いからな」


「体調管理には気をつけるように。無理をして体調を崩したら元も子もないからな」


 何人かが頷く。


「具合が悪いときは、ちゃんと休むこと。特に睡眠はしっかり取っておけ」


「はい」


 返事がいくつか返る。


「それじゃ、今日も一日頑張ってくれ」


 そう言って教壇を離れる。


 教室には、再び生徒たちの声が戻ってきた。





 授業開始のチャイムが鳴ってしばらくして、教室の前の扉が開き、山田先生が入ってくる。


「じゃあ、予定通り、体育祭の種目参加を決めるぞ」


 教室が軽くざわついた。


 黒板に種目名を書き並べていく。チョークの音が、いくつも重なる話し声の合間に響いた。


 種目決めは、思っていたよりも早く進んだ。参加できる種目を確認しながら、黒板へ次々と名前が書き足されていく。


「百メートル、誰か出る?」


 問いかけに声が上がり、千綴も手を挙げた。


「はい」


 その名前が黒板に書き足される。


 前の席から振り返った綾乃が、当然というように小さく頷いた。


 次に、学年対抗リレーの話になる。


「これ、誰か出る?」


 少しの沈黙のあと、ヴァシリオスが手を挙げた。


「俺が出る」


「バカ、それに出るんだ」


 環がヴァシリオスへ目を向けた。


「当然だろう」


「へえ」


 環はそれ以上何も言わず、面白そうにヴァシリオスを見た。


 次は変わり種目の確認になり、「パン食い競争、誰か出る?」と聞かれると、環が手を挙げた。


「はい」


「西園寺さん、そこなんだ」


 綾乃が振り返って言う。


「いいじゃん」


「食べられるし」


「競技だからね、それ」


「知ってる」


 環は平然としていた。


 二人三脚と障害物競走にも、少しずつ名前が挙がっていった。誰かが手を挙げるたび、先生が黒板の該当箇所へ短く書き足していく。


 千綴はそれを黒板越しに眺めながら、誰がどこに参加するのかをぼんやり把握していく。


 借り物・借り人競争には、綾乃が手を挙げた。


「綾乃、それ選ぶんだ」


「だって、何を借りることになるか分からないの、面白そうじゃない?」


「そこ?」


「そこ」


 綾乃は即答した。


「最後、綱引きダッシュと大縄跳びは、クラス全員参加な」


 そう言うと、特に反対の声は出なかった。


 種目表には、少しずつ名前が埋まっていく。千綴は百メートルの欄に書かれた自分の名前へ、もう一度目を向けた。


 体育祭という言葉だけだったものが、少しずつ自分たちの予定になっていく。


 やがて種目の一覧が回収され、生徒会へ提出する準備が整えられていく。


 体育祭は、まだ先だった。





 昼休みになると、窓の外の日差しは朝よりもずっと強くなっていた。


 弁当を広げた千綴のところへ、綾乃が椅子を寄せてきた。


「ねえ、さっきの種目決めだけど」


「ん?」


「やっぱり借り物・借り人競争、楽しそうじゃない?」


「まだ言ってる」


「だって、何を借りることになるか分からないんだよ?」


「人だったら?」


「それも面白いじゃん」


 綾乃は楽しそうに笑った。


 向かいでは、環がパンを食べながら二人の話を聞いている。隣では、ヴァシリオスも自分の弁当を広げていた。


「綾乃、パン食い競争にすればよかったのに」


「なんで?」


「食べ物だから」


「理由になってないよ」


 環は特に気にした様子もなく、もう一口食べた。


 少し遅れて、悠司が教室にやってきた。


「悪い、待たせたか」


「ううん、大丈夫」


 悠司は椅子を引いて腰を下ろす。


「悠司も体育祭の種目、決めたの?」


「ああ、リレーに出ることにした」


「ヴァシリオスも同じだよ」


「そうなのか」


 千綴がヴァシリオスへ目を向けると、ヴァシリオスは満足げに頷いた。


「悠司も走るのか。ちょうどいい」


「無茶な作戦は立てるなよ」


「立てない」


「その返事、信用できないんだけど」


 環が小さく笑った。


 昼休みの教室には、あちこちから話し声が聞こえている。


 体育祭の話をしている生徒もいれば、まったく別の話をしている生徒もいる。


「そういえば、先生も言っていたけど、体調には気をつけないとね」


 千綴が言うと、悠司が頷いた。


「そうだな。俺のクラス、一人休んでた」


「風邪?」


「聞いてない」


 そんな話の流れで、ヴァシリオスがふと口を開いた。


「季節の変わり目だからな」


「うん?」


「師走という言葉があるだろう。師走とは、季節の変わり目で体調を崩す者が増える月のことだ」


「え、そうなの?」


「そうだ。だから師走という」


「……なんか違う気がする」


 綾乃が首をかしげた。


「師走は、年の暮れのことだよ。まだ先でしょ」


「そうなのか」


「そうだよ」


 環が呆れたように付け加える。


「先生が走り回るほど忙しいから、って前に聞いたことある」


「そうか」


 ヴァシリオスは納得したように頷いた。


「では、今はまだ師走ではないということか」


「うん、全然違う」


「なるほど」


「お前、たまにそういうことを言うよな」


 悠司が横で苦笑している。


「そうか?」


「そうだよ」


「中村くんって、たまに変なこと言うよね」


 綾乃も笑い、ヴァシリオスは二人を見比べた。


 しばらくすると、ヴァシリオスが体育祭とは関係のない話を持ち出した。


「あと、聞いたか。近くの家のドアが急にピンク色になったらしい」


「はい?」


「一晩で塗り替わっていたそうだ」


「誰かのいたずら?」


「分からない。それと、その近くで青い猫みたいなものを見たという話も聞いた」


「猫、青いの?」


「らしい」


 環が興味を引かれたように顔を上げた。


「なにそれ、面白そう」


「本当かどうかは知らない。ネットで見ただけだ」


 窓の外では、まだ蝉の声が細く続いている。数はもう、真夏ほど多くない。


 そんな話をしているうちに、昼休みは終わりに近づいていた。





 放課後になり、教室を出た千綴は鞄を持ち直して生徒会室へ向かった。


 廊下には、帰宅する生徒たちの声が響いている。廊下を抜ける風には、昼間よりいくらか涼しさが混じっていた。


 体育祭が近いせいか、今日はいつもより残っている生徒も多かった。


 生徒会室の扉を開けると、先に来ていた鈴が顔を上げた。


「お疲れさまです、弥生先輩」


「お疲れさま、鈴」


 千綴は空いている椅子に座る。机の上には体育祭の種目表や参加者一覧が並び、隅には文化祭に向けた資料も重ねられていた。昼間に教室で決めた内容も、すでにいくつか反映されている。


「これ、うちのクラスの分」


 千綴が自分のクラスの一覧を差し出すと、鈴は既存の表と照らし合わせていった。ペン先が紙の上を滑る音が、しばらく続く。


「一年の分もだいたい集まってます。エレディトは障害物競走でした」


「本人はそれでいいの?」


「やる気みたいでしたよ」


「鈴は?」


「借り物・借り人競争です」


「綾乃と同じだ」


「奇遇ですね」


 鈴が小さく笑った。


 千綴はその欄へ目を向けた。名前の横には簡潔に種目名だけが記されている。机に広げられた全体の表を眺めながら、今日決まった種目と参加者を確認していった。


 しばらくして悠司も生徒会室へやってきた。


「お疲れ」


「お疲れさま」


「これ、うちのクラスの分」


 悠司が持ってきた一覧を鈴へ渡し、鈴はそのまま他の表との照合を始めた。


 二人分の一覧を確認し終えた頃、生徒会室の扉が開き、会長が姿を見せた。


「お疲れさまです」


 千綴と悠司、鈴がそれぞれ声を掛ける。


 会長は机の上の資料へ目を向けた。


「副会長、進んでる?」


「はい。今日決まった分は、だいたい整理できています」


 千綴が答える。


 会長は別の資料を千綴の前へ差し出した。


「じゃあ、こっちを頼めるか」


「分かりました」


「何かあったら呼んで」


「はい」


 それだけ言うと、会長は生徒会室を出ていった。扉が閉まるのを見届け、千綴はもう一度机の上の資料へ視線を戻した。


「じゃあ、続きやろう」


「はい」


 鈴が頷き、悠司も資料を揃え直す。紙をめくる音だけが、しばらく生徒会室に続いた。


 体育祭まではまだ少し時間がある。それでも、準備することは少なくない。作業を続けるうちに、いつの間にか窓の外はいつもより暗くなっていた。


 千綴は小さく息を吐き、帰り支度を始めた。



2026/10/11 全体改訂

2026/09/01 全体的に文章の調整

2026/08/23 一部会話調整

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