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婚約破棄されましたが、王国を支えていたのは私でしたので——殿下、財務報告書はご自分でどうぞ

作者: uta
掲載日:2026/06/27

「今日この場をもって、リリアーナ・ヴェルディエとの婚約を破棄する!」


王太子エドワード殿下の声が、満場の貴族たちの前に響き渡りました。


(ああ、やっと来ましたのね)


私は内心で小さく溜息をつきながら、完璧な角度でスカートの裾を摘み、優雅に膝を折ります。淑女の所作。母が命を削って教え込んだ、ヴェルディエ公爵令嬢としての矜持。


「その理由をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか、殿下」


「白々しい!」


エドワード殿下の隣で、淡い桃色の髪をした少女が——セレスティア・フォンターナが——うるうると大粒の涙を零しました。ああ、今日も美しい涙ですこと。まるで計ったように頬を伝う軌道、震える肩、そして庇護欲をそそる上目遣い。


(49回見てきましたが、50回目でも全く飽きませんわね。その演技力)


「リリアーナ様は……私のドレスを破いて、階段から突き落として……っ」


「なんということだ。セレスティア、もう何も言わなくていい」


エドワード殿下がセレスティアを抱き寄せます。絵になる構図。守る男と守られる女。王子と可憐な男爵令嬢。——まるで三文芝居の一幕のよう。


「リリアーナ!お前は公爵令嬢でありながら、か弱い男爵令嬢を虐げた!その罪、万死に値する!」


周囲からどよめきが起こります。冷たい視線。囁き合う扇の向こうの嘲笑。


(ドレスを破いた?階段から突き落とした?本日私、セレスティア嬢とお会いするの三週間ぶりなのですけれど。それに私、今日は書庫から一歩も出ておりませんでしたわ。帳簿の修正——殿下の失政の尻拭い——で忙しかったものですから)


「弁明は」


「お前に弁明の権利はない!」


——ああ、なるほど。


ようやく合点がいきました。


先週、王家の穀物庫の帳簿に重大な不正を見つけたのです。横流しの証拠。そしてその鍵を最後に借り出したのは——「貧しい人々に配りたいの」と天使のような笑顔を浮かべていた、この男爵令嬢。


私が報告する前に、先手を打たれたというわけですわね。


(50回目にして、ようやく本性をお見せになりましたか)


「殿下」


私は顔を上げました。泣き喚くことも、弁明することもなく。ただ静かに、王太子の碧い瞳を見つめます。


「承知いたしました」


「……は?」


エドワード殿下の顔から、一瞬だけ余裕が消えました。予想外の反応。彼が思い描いていた筋書き——泣いて許しを請う婚約者、それを冷酷に切り捨てる英雄的な自分——が狂ったのでしょう。


「婚約破棄、謹んでお受けいたします。殿下とセレスティア嬢のお幸せを、心よりお祈り申し上げますわ」


微笑みすら浮かべて、私は再び膝を折ります。


(5年。5年ですわよ、殿下。貴方の失政を何度尻拭いしたか、覚えていらっしゃいます?北部飢饉の際の食糧調達。南方貴族の反乱未遂の鎮圧資金。隣国との通商条約の草案。全部、全部、私でしたのに)


「ま、待て。それだけか?」


「他に何かございまして?」


「いや、その……反論は……」


「反論の権利はないと仰ったのは殿下ですわ」


私は立ち上がり、スカートの埃を払う仕草をしました。実際には塵一つありません。ただの演出です。


「では、本日をもちまして私の王宮への出入りは控えさせていただきますわね。——ああ、そうそう」


振り返り、にっこりと微笑みます。


「殿下のお机の左から三番目の引き出し、来週締め切りの財務報告書がございますの。くれぐれもお忘れなきよう。……あ、でも殿下は一度もご自分で書類をお読みになったことがございませんでしたわね。どうぞご自愛くださいませ」


踵を返す瞬間、視界の端に一人の男性が映りました。


漆黒の髪に、夜明け前のような深い藍色の瞳。隣国ヴァルザーク帝国の第二王子、アレクシス殿下。


その瞳が、真っ直ぐに私を見ていました。


——まるで、全てを見透かすように。


「待て!リリアーナは何もしていない!私が証人だ!」


凛とした声が響きました。赤毛を短く切り揃えた女性——オリヴィア・カーティス伯爵令嬢。私の学院時代からの親友で、貴族社会では「変わり者」として知られる女騎士。


「オリヴィア、いいのよ。殿下がそうお決めになったのですもの」


私は彼女に目配せを送ります。今は動くな、と。


「しかし……!」


「ねえ、オリヴィア。私、疲れましたの。五年間……ずっと」


「何が疲れただ!」


エドワード殿下が怒鳴ります。


「お前は公爵令嬢として贅沢三昧だったではないか!」


(ええ、そうですわね。贅沢三昧。朝から晩まで貴方の失政を修正し、外交文書を代筆し、魔術防壁の維持に魔力を注ぎ込む。なんと贅沢な日々でしたこと)


「ええ、そうでございますわね。殿下の仰る通りですわ」


私は微笑みを崩しません。


「……エドワード。本当にいいのだな」


低い声。王弟フレデリック殿下——王国軍総司令官にして、数少ない良識派の重鎮。


「叔父上まで何を仰る。この女は悪辣な——」


「来週の財務報告書、誰が作成するのだ」


「……は?」


エドワード殿下が固まります。


「ああ、そうでした」


私は振り返らずに言いました。


「殿下のお机の左から三番目の引き出しに、白紙の報告書がございます。締め切りは七日後ですわ」


「白紙……?お前が書くのではないのか!?」


「私はもう婚約者ではございませんもの。王宮の書類に触れる権限がございませんわ」


「大丈夫ですよ、エドワード様」


セレスティアが天使のような笑顔で言いました。


「私がお手伝いいたします」


「まあ、それは心強いですわね」


私はにっこりと笑いました。


「セレスティア嬢は穀物庫の管理もお得意でいらっしゃいますものね」


「っ……!」


セレスティアの顔が、一瞬だけ強張りました。ほんの僅か。でも私は見逃しません。


「あら、どうかなさいまして?お顔が真っ青ですわよ」


「セレスティアを脅すな!」


「脅しなど。ただの世間話でございますわ」


「……面白い女だ」


低い声が響きました。振り返ると、アレクシス殿下が腕を組んで私を見ています。


「……どなたかしら」


「ヴァルザーク帝国第二王子、アレクシスだ。覚えておくといい」


「それはご丁寧に。ですが、私はもうただの令嬢でございますわ」


「ただの令嬢が、あの目をするものか」


「……さあ、何のことでしょう」


「リリアーナ!帝国の人間と何を話している!」


エドワード殿下の声。まだ私に執着している——いえ、違いますわね。自分の所有物が他の男と話すのが気に入らないだけ。


「殿下、私はもう貴方の婚約者ではございませんわ。誰とお話ししようと、ご関心には及びませんでしょう?」


「くっ……!」


私は優雅に一礼しました。


「では皆様、ごきげんよう。殿下とセレスティア嬢のお幸せを、心よりお祈り申し上げますわ」


「お嬢様、馬車の用意ができております」


マリアンヌの声。私の筆頭侍女であり、元暗殺者ギルドの情報屋。父が私の護衛として雇った、信頼できる右腕。


「ありがとう、マリアンヌ。……ああ、そうそう」


「まだ何かあるのか」


振り返り、最後にエドワード殿下を見つめます。


「殿下。ご自分の署名の筆跡、覚えていらっしゃいますか?」


「当たり前だ!愚問を——」


「それは良かった。では、お元気で」


私は踵を返し、大広間を後にしました。


背後で、フレデリック殿下の声が聞こえます。


「……あの娘が去れば、この国は三ヶ月持たんぞ」


「叔父上、何を大袈裟な。たかが女一人——」


「お前は何も分かっておらんな。……いや、分かる日が来るだろう。遠からず」



§



馬車に揺られながら、私は窓の外を流れる王都の景色を眺めていました。


見納めになるかもしれない、この街並み。


「お嬢様」


向かいの席で、マリアンヌが静かに口を開きます。


「あの場で全てを暴露なさることもできましたのに」


「ええ、できましたわ」


私は窓に映る自分の顔を見つめます。プラチナブロンドの髪。深い紫水晶色の瞳。母譲りの、冷たいと言われる美貌。


「でもね、マリアンヌ。あの場で証拠を出しても、殿下は信じなかったでしょう?」


「……左様でございますね」


「セレスティア嬢が泣けば、殿下の思考回路は停止しますもの」


私は目を閉じ、記憶を辿ります。


(49回。49回ですわ)


最初は些細なことでした。


セレスティア嬢が「間違えて」領収書を紛失した時、私が再発行の手続きを代行しました。彼女が「うっかり」外交文書にお茶をこぼした時、私が一晩かけて書き直しました。彼女が「善意で」孤児院に寄付したいと言った時——その寄付金の出所が王家の予備費だと気づいた私が、自腹で穴埋めしました。


「あの方の『善意』は、いつも誰かの犠牲の上に成り立っていましたわ」


「お嬢様は、最初から気づいておいでだったのですね」


「3回目くらいで確信しましたわ。偶然にしては、あまりにも——『効果的』でしたもの」


彼女が関わった案件は、全て王国の根幹に関わるものばかり。財政、外交、軍事。そして必ず、重要書類が『偶然』紛失したり、『うっかり』別の場所に届けられたり。


「隣国への情報漏洩……」


「おそらくは。でも証拠がなかった。彼女はとても慎重でしたから」


——50回目まで、は。


「お嬢様、王家の穀物庫の件……」


「ええ。あれだけは見逃せませんでしたの」


私は懐から、小さな手帳を取り出しました。母の形見。そして——私が5年間記録し続けた、王国の闘の全て。


「穀物庫の横流し先は、隣国の商会。その商会の真の所有者は——」


「ヴァルザーク帝国、でございますか」


「さすがマリアンヌ。もう調べがついていたのね」


帝国の第一王子が三年前に廃嫡されたのも、おそらく同じ手口。内部に協力者を作り、スキャンダルを捏造し、有能な人材を排除する。


「そして今回は、お嬢様が標的だった」


「ご名答」


私は手帳を閉じ、窓の外を見ます。


「『ヴェルディエの影の天才』。その噂を、彼女の主人——帝国は嗅ぎつけたのでしょう。王国の財政を実質的に支えている人間が誰なのか」


「お嬢様を排除すれば、王国は——」


「崩壊しますわ。三ヶ月もあれば十分」


馬車が止まります。ヴェルディエ公爵邸。私の帰る場所。


「——私には、もう関係のないことですもの」



§



「おかえり、リリアーナ」


父——レオナルド・ヴェルディエ公爵が、書斎で紅茶を啜りながら私を迎えました。柔和な笑顔。「少々頼りない」と社交界で囁かれる、穏やかな表情。


でも私は知っています。この人が『北の狐』と呼ばれる、王国有数の策士であることを。


「ただいま戻りました、お父様」


「聞いたよ。婚約破棄だそうだね」


「はい」


「そうか」


父は紅茶を一口含み、それから——にやりと笑いました。


「それで?お前はどうしたい?」


「……家出を、お許しいただけますか」


「行き先は」


「国境の別荘に」


父の灰紫の瞳が、一瞬だけ鋭く光りました。


「隣国との、国境か」


「はい」


長い沈黙。暖炉の火が爆ぜる音だけが、書斎に響きます。


「……リリアーナ」


「はい、お父様」


「派手に、やれ」


私は深く頭を下げました。


「お任せくださいませ」



§



王都を発つ前夜。


私は王宮の書庫に、最後の「仕事」をしに参りました。


「お嬢様、見張りは排除いたしました」


マリアンヌの声が、闇の中から響きます。排除、という物騒な言葉を、まるでお茶の用意ができましたと言うように。


「ありがとう。では、始めましょうか」


私は書庫の奥へと進みます。この場所は、5年間私が通い詰めた場所。王国の全ての秘密が眠る場所。そして——私が密かに『保険』を仕込んでおいた場所。


「三ヶ所、でしたわね」


「はい。財務記録の棚、外交文書の保管庫、そして——」


「殿下の執務室」


私は微笑みながら、最初の棚に手を伸ばしました。


「セレスティア嬢の『善意』の記録、全49件。私が補填した金額の明細。そして——」


引き出しの奥から、封蝋で閉じられた書簡を取り出します。


「穀物庫から隣国への横流しルート。密書の写し。そして、彼女の本当の名前」


「セーラ、でございましたか」


「ええ。ヴァルザーク帝国貴族の庶子。本国で冷遇され、復讐のためにスパイとなった哀れな女性——と言いたいところですが」


私は書簡を棚の目立つ場所に置きます。


「彼女、かなり楽しんでいましたわよね。人を陥れるの」


「お嬢様もお人が悪い」


「誉め言葉として受け取っておきますわ」



§



リリアーナが王都を去って、三日目のこと。


「殿下!大変でございます!」


早朝から飛び込んできた侍従の声に、エドワードは不機嫌そうに目を開けた。


「……何事だ。今何時だと思っている」


「財務報告書の件でございます!締め切りが——」


「ああ、あれか。リリアーナが……」


言いかけて、エドワードは固まった。


リリアーナは、もういない。


「……引き出しに入っているはずだ。左から三番目の」


「それが、白紙の用紙しか……」


「なん、だと……?」


エドワードは寝台から飛び起き、執務室へと走った。


机。左から三番目の引き出し。開ける。


——白紙。


そして、一通の手紙。


『殿下。財務報告書は左から三番目の引き出しに。締め切りは七日後。頑張ってくださいませね。——リリアーナ』


「これは……どういう……」


「殿下、過去の報告書を参考になさいますか?」


「ああ、そうだ!過去のものを見れば……」


書庫へ。財務記録の棚へ。ファイルを開く。


エドワードは、絶句した。


「……読め、ない」


数字の羅列。専門用語。複雑な計算式。


一度も、自分で読んだことがなかった。全て、リリアーナが要約を添えてくれていた。『殿下、今期の歳入は前年比3%増でございます。詳細はこちらに』と。


「殿下、こちらの書類には何やら——」


侍従が差し出したのは、棚に挟まっていた封書。開封する。


『セレスティア・フォンターナ嬢による王家資産の横領記録。全49件。総額、金貨15万枚相当』


「……な……」


「殿下、外交文書の保管庫からも、妙な書類が——」


王宮は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。


財務記録の棚から見つかった、セレスティアの横領の証拠。外交文書の保管庫から見つかった、情報漏洩の痕跡。そして——セレスティア本人の筆跡で書かれた、帝国への忠誠を誓う誓詞。


「嘘よ!嘘、全部嘘!リリアーナが私を陥れようとして——!」


セレスティアの絶叫が響く。


「筆跡鑑定の結果、間違いなく貴女の筆跡です」


王弟フレデリックの冷たい声。


「そ、それは——模倣よ!あの女が真似て——」


「ヴェルディエ嬢は三日前に王都を発っておられる。この書類が『発見』されたのは今朝だ。時系列が合わんな」


「エドワード様!信じてください!私は——」


セレスティアがエドワードに縋りつく。いつもの手だ。泣いて、震えて、庇護を求める。それで全てが許されてきた。


だが——


「……セレスティア」


エドワードの顔は、蒼白だった。


「お前……本当に、何も、していないのか」


「当たり前です!私はただ、貧しい人たちを助けたくて——」


「穀物庫の鍵を借り出したのは、お前だな」


「それは、孤児院に——」


「孤児院に穀物は届いていない。帳簿を確認した」


セレスティアの顔から、血の気が引いた。


「そ、それは配送の手違いで——」


「手違いが49回も続くか?」



§



同じ頃。王宮の一角で、オリヴィア・カーティス嬢が呟いた。


「始まったか」


赤毛を揺らし、窓の外を見る。騒然とする王宮。走り回る兵士。連行されていくセレスティアの姿。


「リリアーナ……お前、本当に派手にやったな」


親友の顔を思い浮かべ、オリヴィアは僅かに笑った。


彼女の手には、一通の手紙が握られていた。


『オリヴィアへ。私が去った後、この名簿に載っている人たちに連絡を取ってくれる?全員、セレスティア嬢の『善意』の被害者よ。証言を集めれば、王宮は動かざるを得なくなるわ。——リリアーナ』


「相変わらず、先の先まで読んでやがる」


オリヴィアは剣を腰に差し、部屋を出た。


「待ってろよ、リリアーナ。お前の名誉は、私が守る」



§



ヴェルディエ家の別荘は、王国と帝国の国境に位置する静かな場所でした。


山の中腹に建つ石造りの館。周囲には深い森。そして——遠くに見える、帝国の領土。


「お嬢様、お客様がお見えです」


マリアンヌの声に、私は読んでいた本から顔を上げました。


「予定通りね」


応接間の扉が開きます。


漆黒の髪。夜明け前の空のような、深い藍色の瞳。ヴァルザーク帝国第二王子、アレクシス殿下。


「初めまして——いや」


彼は僅かに口角を上げました。笑顔、とは言い難い。でも、敵意はない。


「断罪の場以来、だな。リリアーナ・ヴェルディエ嬢」


「お久しぶりでございます、アレクシス殿下」


私は立ち上がり、優雅に一礼します。


「わざわざ国境を越えてお越しいただくとは。どのようなご用件でしょうか」


「単刀直入に言う」


アレクシス殿下は、真っ直ぐに私の瞳を見つめました。


「貴女の才能を、我が国で活かさないか」


「……」


「断罪の場で、私は確信した。貴女があの場で泣き喚かなかったのは、全てを見通していたからだ。『ヴェルディエの影の天才』——私が三年間追い続けた、王国を陰から支えていた人物」


「買い被りでございますわ」


「そうか?」


アレクシス殿下は、懐から一枚の紙を取り出しました。


「三年前の北部飢饉。食糧調達を仕切った商会の記録。匿名だったが、筆跡から推測できた」


「……」


「我が国の第一王子を廃嫡に追い込んだ工作。その正体を暴こうとしていた人物が、王国にいた」


私は目を伏せました。


「……帝国の第一王子も、セレスティア——いえ、セーラと同じ手口で陥れられたのですね」


「ああ。兄は何も悪いことなどしていなかった。『聖女』を名乗る女のスキャンダル捏造で、全てを奪われた」


アレクシス殿下の声に、初めて感情が滲みました。怒り。そして——悲しみ。


「私は三年かけて、その背後にいる組織を追った。そして辿り着いたのが——」


「セレスティア嬢の存在、ですか」


「そうだ。だが証拠がなかった。彼女は慎重で、尻尾を掴ませなかった」


「50回目まで、は」


私は微笑みました。


「穀物庫の横領。あれは彼女の命取りでしたわね。本国からの『最終指令』に焦って、詰めが甘くなった」


アレクシス殿下は深く頷きました。


「だから私は来た。貴女を味方につけるために」


「帝国の利益のため、ですか?」


「それもある。だが——」


彼は一歩、前に出ました。


「私は、貴女に興味がある」


「……は?」


「断罪の場。あの状況で、貴女は微笑んでいた。泣きも喚きもせず、ただ静かに受け入れた。だが——」


藍色の瞳が、私を捉えます。


「その目は、諦めてなどいなかった。全てを見通した上で、次の一手を考えていた。そんな女性を、私は初めて見た」


「……お上手ですこと」


「世辞ではない」


沈黙が流れます。


「……条件が、ございます」


「聞こう」


「一つ。ヴェルディエ領の民を守ること。私が去った後、王国が報復としてヴェルディエ領に手を出す可能性があります」


「約束する。必要とあらば、帝国軍を動かそう」


「二つ。真実を明らかにすること。私の無実と、セレスティア——セーラの正体を、公に証明すること」


「それは既に進めている。王国内部から、証拠が続々と『発見』されているそうだな」


私は小さく笑いました。


「あら、よくご存知で」


「貴女の『置き土産』だろう。見事な手際だ」


「ありがとうございます」


「では、契約成立か」


アレクシス殿下が手を差し出します。


私はその手を見つめました。大きな手。左手の薬指には、古い火傷の痕。


「……殿下」


「何だ」


「一つ、聞いてもよろしいですか」


「ああ」


「なぜ私を、ここで待っていらしたの?国境を越えて、わざわざ」


アレクシス殿下は、僅かに目を逸らしました。


「……勘、だ」


「勘?」


「貴女なら、ただ逃げ出すはずがないと思った。必ず、次の一手を打てる場所に移動するはずだと」


「それで国境の別荘に」


「ああ。三日間、待っていた」


「……三日間?」


「毎日、馬を走らせてここまで来た。貴女が来るのを、待っていた」


私は——少しだけ、驚きました。


この人は、寡黙で、観察眼に優れ、言葉より行動で示すタイプ。でも今、彼は——


(不器用な方)


私は差し出された手を取りました。


「契約成立ですわ、アレクシス殿下」


「アレクシス、でいい」


「では、アレクシス様」


藍色の瞳が、僅かに和らぎました。


「リリアーナ」


「はい」


「これから、よろしく頼む」



§



三ヶ月後。


ヴァルザーク帝国、宰相府。


私——リリアーナ・ヴェルディエは、山積みの書類と格闘していました。


「東部三州の税収報告、提出いたします」


「北方辺境の軍備増強案、ご確認を」


「隣国——旧ルミエール王国との通商交渉の件で——」


(ああ、忙しい。でも——)


私は書類に目を通しながら、内心で微笑みます。


(やりがいがありますわね)


ヴァルザーク帝国に来て三ヶ月。最初は「敵国から来た小娘」と侮られました。でも、一つ一つ結果を出すうちに、周囲の目は変わっていきました。


北方辺境の財政再建。東部三州の税制改革。貿易路の効率化。


全て、私が王国で密かに培ってきた知識と経験が活きる仕事。


「リリアーナ」


執務室の扉が開き、アレクシス様が入ってきます。


「お疲れ様です、アレクシス様」


「また徹夜か」


「いえ、今日は二時間ほど眠りましたわ」


「それを徹夜と言う」


アレクシス様は溜息をつきながら、私の机に紅茶を置きました。


「王国の状況、聞いているか」


「ええ。財政破綻寸前と」


「それだけではない」


彼は振り返りました。


「エドワード・ルミエール・アストリアは、正式に廃嫡された」


「……そう」


「セレスティア——いや、セーラは処刑。帝国への情報漏洩と王家に対する反逆罪で」


私は紅茶のカップを置きました。


「……因果応報、ですわね」


不思議と、何も感じませんでした。憎しみも、同情も、喜びも。ただ——終わったのだと、そう思うだけ。


「リリアーナ」


「はい」


「一つ、伝えておくことがある」


「何でしょう」


アレクシス様が、私の前に来ました。いつもより、少し近い距離。


「王国から、使者が来ている」


「……使者」


「元王太子、エドワードだ」


私の手が、僅かに震えました。


「……何を」


「貴女に会いたいと。許しを請いたいと」


アレクシス様の藍色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめます。


「会うか、会わないか。貴女が決めろ」



§



帝国の客間。


扉を開けた瞬間、私は——息を呑みました。


そこにいたのは、かつて王太子だった男。でも、その姿は——


「リリ、アーナ……」


金髪は色褪せ、碧い瞳は虚ろ。かつての傲慢さは影も形もなく、ただ打ちひしがれた一人の男がいました。


「殿下」


「殿下などと……呼ばないでくれ。私はもう、何者でもない」


彼は膝をついたまま、顔を上げることすらできないようでした。


「私は……お前を追い出した日から、全てが狂った。財務報告書が読めなかった。外交文書の意味が分からなかった。魔術防壁の維持ができなかった」


「……」


「全部……全部、お前がやっていたんだな。私は……何も、分かっていなかった」


涙が、彼の頬を伝います。


「許して、くれ。私が愚かだった。お前の価値を、何一つ分かっていなかった」


私は——黙って、彼を見下ろしていました。


5年間。5年間、私はこの人を支え続けました。失政を尻拭いし、評判を守り、婚約者として誠実に尽くしました。


そして彼は、泣いている女の一言で、全てを捨てた。


「許してくれ……もう一度、やり直させてくれ……」


「……殿下」


私は口を開きました。


「お気になさらず」


彼が顔を上げます。


「おかげさまで、私は今、とても幸せですので」


微笑みを浮かべます。母が教えてくれた、完璧な淑女の微笑み。


「え……」


「新しい主に恵まれ、やりがいのある仕事をいただき、信頼できる方々に囲まれております。殿下に婚約を破棄していただいたおかげですわ」


「リリアーナ……」


「ですから、どうぞお気になさらず。お元気で」


踵を返します。


「待っ——待ってくれ!リリアーナ!」


背後で、這いずるような音がしました。私の足に縋りつこうとしているのでしょう。


「リリアーナ、頼む、私を——私を、見捨てないでくれ……!」


私は足を止めず、扉を開けました。


「さようなら、エドワード様」


振り返らず、部屋を出ます。


(ああ——)


廊下に出た瞬間、私は小さく息を吐きました。


(これで、本当に終わりですわね)


「終わったか」


廊下で待っていたアレクシス様が、静かに尋ねます。


「ええ」


「……辛くは、ないか」


「いいえ」


私は微笑みました。今度は、作り物ではない笑顔。


「だって私、本当に幸せですもの」


アレクシス様の瞳が、僅かに見開かれました。


「……そうか」


「ええ」


「それは……良かった」


不器用に言葉を紡ぐ彼を見て、私は小さく笑いました。


「アレクシス様」


「何だ」


「紅茶、ありがとうございました。美味しかったですわ」


「……ああ」


二人で、廊下を歩きます。窓の外には、帝国の広大な領土が広がっています。私が、これから守っていく国。


「リリアーナ」


「はい」


「宰相府の隣に、新しい屋敷を建てさせた」


「え?」


「徹夜をするなら、せめて近くで眠れる場所を、と思ってな」


「……アレクシス様」


「迷惑、だったか」


私は足を止めました。


「いいえ」


振り返り、アレクシス様の瞳を見上げます。


「とても、嬉しいですわ」


彼の頬が、僅かに赤くなった——気がしました。


「そうか」


「ええ」


「……それは、良かった」


不器用なやり取り。でも、悪くない。


(ああ——)


私は思います。


(これが、私の新しい物語)


窓から差し込む光の中で、二つの影が並んで歩いていきます。


元公爵令嬢と、帝国の第二王子。


二人の未来は、まだ始まったばかり。



——Fin.

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