幕間:オレンジ色の惨劇、あるいは騎士の勘違い
また幕間を作ってしまいました。特に意味はありません。
ガキの頃から、鼻(嗅覚)と勘だけは異常なほど鋭かった。
この時ばかりは、忌々しいワーウルフの血筋に生まれたことを感謝している。この鼻と勘があればこそ・・・以下略。
……いや、嘘だ。前言撤回だ。今の俺は、自分の鼻をもぎ取って焚き火に放り込みたい衝動に駆られている。ダチのピンチを予見できなかった今の俺は、自慢の野生が錆びついたのか。はたまた、あの「仮面夫婦」――オルダ様とエルキアさんの完璧すぎる隠蔽工作に、いつの間にか首輪をつけられ、感覚を麻痺させられてしまったのか。
そもそも、今回の「考古学調査」という名目の任務。出発前、オルダ様とエルキアさんの間で交わされた密談を、俺はうっかり聞いてしまったのが運の尽きだった。 当初は「ただのガイドと護衛」という実務的な内容だったはずが、いつの間にか二人の間では「アルトの大人の階段登る大作戦」へと、その本質が邪悪かつ教育的なナニカにすり替わっていたのだ。
普段は聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、街の誰からも慕われるエルキアさんが、愛する息子(と呼ぶには執着のベクトルが歪んでいる)アルトに対し、試練と称した地獄の苦行を嬉々として用意している光景。 あの薄暗いパントリーで、彼女が毒々しいほど鮮やかな、まるで夕焼けを凝縮したようなオレンジ色の根菜を手に、「ふふ、あの子、今夜はどんな顔をしてくれるかしら……」と紅い唇を吊り上げた瞬間、俺の背筋には万年雪の氷柱が突き刺さった。その根菜は俺の荷物の中に詰め込まれていた。同行していなかったら、どうするつもりだったのか…。
そして今、舞台は整った。 沈みゆく太陽が地平線の彼方で血を流し、漆黒の帳が下りた野営地。 焚き火の爆ぜる音が、まるで処刑台を組み立てる槌音のように一定の律動で響く中、地獄の宴が幕を開けようとしていた。
そんな不穏な空気も知らず、あるいは知っていてなお「観察対象」として楽しんでいるのか。 ひょうひょうとした足取りで、サーガイル王子様は考古学調査隊初の野営を祝して、朗々と挨拶を始めた。
「諸君! まずはこの記念すべき、知の探求への第一歩に祝杯をあげよう。我々が今、喉を鳴らして飲み干そうとしているこのワインは、単なるブドウの搾りかすではない。王宮の地下深く、数年の時を経て熟成された『過去からの贈り物』だ。地中に眠る古の記憶と、明日我々が出会う未知なる真実もまた、この液体と同じく、長い年月を経て洗練された最高の贈り物となろう!」
「歴史の深淵に乾杯!」
アルトは当然ながら未成年ゆえ、その芳醇な香りを嗅ぐことさえ許されない。隣に座る騎士のアンジュも「公務中につき」と固辞したが、その実、彼女自身も酒という魔物には免疫がないようだ。本来、この世界の地方都市や塾に通う年頃の連中なら、水よりも腐りにくいワインを「生命維持の水」として煽っているもんだ。だが、この一行はあまりにも「極端」すぎた。
エルキアさんはといえば、優雅に指先を動かし、魔力を使ってそこらの泥濘んだどぶ川の水を飲み水にしたり、夜の湿った空気から直接、純度の高い飲み水を集めてみせる。
「あまり美味しくはありませんけれど、背に腹は代えられませんわね」 と彼女は謙遜するが、その魔力操作の精密さは、もはや料理というよりは禁断の錬金術に近い。
てっきり、自由奔放を絵に描いたようなオルダ様が、エルキアさんの目を盗んでアルトにこっそり酒の味を教え込み、「男の嗜みだ」なんて嘯いているのかと思っていたが……どうやら、それは俺の甘い見積もりだった。 エルキアさんの「アルト管理体制」は、鉄壁の要塞をも凌駕する。主人であるオルダ様ですら、彼女が掲げる「教育方針」という名の絶対王政には一切の口出しを許されない。歪なパワーバランスが、揺らめく焚き火に照らされて、巨大な影となって地面に這いずり回っている。
そんな重苦しい考察はさておき、だ。
目の前にあるのは、アルブール王室御用達の伝説的ヴィンテージ。平民の俺が一生かけてもラベルを拝むことすら叶わないような名酒だ。ここで飲まねば男が廃るどころか、これまでの苦労が報われない。
「サーガイル王子、これは決闘の序曲と言い、考古学調査の前の華麗なる間奏曲とも言える、誠に見事なワインですねぇ! 喉を通る感覚が、まるで絹のヴェールが滑るようですぜ!」
俺はここぞとばかりに揉み手をし、卑屈な笑みを浮かべて太鼓持ちのプロとして振る舞う。
王子は、焚き火の光をその高価そうな眼鏡のレンズに反射させ、愉快そうに肩を揺らした。
「ハハハ! 王子はやめてくれと言っただろう。サーガイルと呼び捨てで構わない。同じ酒を酌み交わし、同じ釜の料理を突き、そして夢を語り明かして夜を越える仲間に、敬称や敬語なんて野暮なものは必要ない。そんなものは、この薪と一緒に火にくべてしまえ! 灰になれば皆同じだ!」
(……この王子様、どこまで本気なんだ?)
もし王宮内で同じセリフを吐けば、周囲の保守派貴族たちは泡を吹いて卒倒し、本人は不敬罪と王族の品位汚辱の積み重ねで、それこそ薪のように火あぶりの刑だろう。 俺が冷や汗を流しながら隣のアンジュを盗み見ると、彼女は『殿下のお好きにどうぞ、私が責任を持ちますんで、この破天荒に付き合ってあげてください」とでも言いたげな、深い諦念の混じった苦笑いを浮かべてコクコクと頷いていた。
だが、王子が優雅にグラスを傾け、俺がその香りに陶酔しようとしたその刹那。 音もなく、地獄の釜の蓋が、エルキアさんの細い指先によって静かに開かれた。
「さあ、アルト。冷めないうちに召し上がれ? あなたの健康と、これからの成長をこれ以上なく考えて、栄養たっぷりに、愛情を込めて仕込んでおいたわ」
エルキアさんが、女神の微笑みを湛えてアルトの前に木皿を置いた。
その瞬間、俺の嗅覚が、生物としての本能を揺さぶり、最大級の警戒レベルで「逃げろ」と警報を打ち鳴らした。
――甘ったるい土の匂い。大量の、それも極限まで細かく刻まれた、しかし圧倒的な殺意を放つニンジンの香りだ。
(……合掌。アルト、お前、昼間の『魔法未遂』の落とし前をここでつけさせられるのか。教育ママの皮を被った魔女は、これだから怖え……!)
俺は気配を殺し、音を立てずに自分の皿を抱えて後ずさりした。俺の皿には、香ばしく焼かれたジューシーな肉が、これでもかとばかりに盛られている。すまねえ、アルト。これは生存競争なんだ。自然界では弱い者が食われ、強い者が肉を食う。それが摂理だ。
今の俺には、お前に助け舟を出す勇気も、ましてやその皿を代わってやる度胸もない。ワインと肉に目がくらんだ裏切り者、魔女に忠実な番犬、なんとでも罵ってくれ。
一歩でも近づけば、あの『お母さん』の熱量に巻き込まれて俺までベジタリアンにされる。それだけは、ワーウルフの誇りにかけて御免だ。
「おや、アルト君。どうしたんだい? せっかくの温かい料理だ。スプーンが止まっているようだが、具合でも悪いのかい?」
王子の、無邪気すぎる好奇心が、最悪のタイミングで発動した。 どうやらアルトは、見た目こそ「普通の、少しオレンジがかったシチュー」に見えるその皿の中に潜む、悪魔的な含有量の「悪意」の正体に気づいてしまったらしい。
ワイン片手に古文書を膝に乗せ、知の巨人の如き風格を漂わせたサーガイル王子が、眼鏡の奥の瞳を「実験動物を見る観察者」のように爛々と輝かせ、身を乗り出してきた。
「お母上との約束だからね。君の健康管理は、この旅の間、僕が責任を持って行うと決めたんだよ。さあ、一口食べたまえ。好き嫌いというのは、考古学的、あるいは生物学的にも感心しないよ。古代の英雄たちも、大地の恵みを、たとえそれが苦かろうと泥臭かろうと余さず食べてこそ、山を砕き海を割る力を得たのだから。君も未来の英雄だろう?」
(……出たよ、あの王子。自分は高いところから見てるだけの観客のつもりかよ。それ、英雄の糧じゃねえぞ。ただの『公開処刑』だ)
「……アルト殿。もしや、先ほどの私との決闘でどこか痛むのですか!?」
沈黙に耐えかねたのか、それとも純粋に仲間を想う心が暴走したのか。 アンジュがアルトの顔を、鼻先が触れんばかりの至近距離で覗き込んだ。彼女の透き通るような青い瞳には、直視するのが眩しすぎるほどの敬意と、混じりけのない心配が宿っている。
「貴殿は、痛みを精神力で耐えながら私と対峙してくれていたのですね。なんとストイックな……。騎士道とは、斯くも厳しきものか……! 私は、自分の未熟さが恥ずかしい!」
(……違う、全然違うんだアンジュ! それ、騎士の我慢じゃねえ。ただの野菜嫌いのガキが、人生最大の絶望と『詰み』の状態に直面してるだけの顔だ! お前のそのピュアすぎる、真っ直ぐすぎる勘違いが、アルトをさらに逃げ場のない崖っぷちへと全力で、笑顔で突き落としてるんだよ!)
「……アルト?」
エルキアさんの声が、静まり返った森に、鈴を転がすような、あまりにも透き通った音色で響き渡った。
彼女は流れるような優雅な動作でアルトの隣に腰を下ろすと、まるで幼子に接するように、そっとアルトの手から、ブルブルと小刻みに震えるスプーンを取り上げた。
「……手が動かないほど、お疲れなのね。それほどまでに、今日の修行は厳しかったのかしら。ふふ、仕方のない子。じゃあ、今夜だけは特別。お母さんが、食べさせてあげましょうか? はい、あーん……して?」
野営地に、物理的な衝撃波を伴うほどの緊張感が走った。 エルキアさんによる「お母さんごっこ」の極致。親子の絆という名の、精神的な絞首刑のレバーが今、引かれようとしている。
サーガイルは「ほう、これがヤプール地方の……親子の絆!」と熱心にメモを取り、アンジュは「母の慈愛……! 素晴らしい、これぞ王国の礎たる家族の肖像……!」と感涙に咽んでいる。
鬼気迫るアルトの視線が、助けを求めて俺に向けてくる。
だが悪いな、相棒。俺にできるのは、毛布にくるまって深い眠りに落ちる時、今この瞬間の、少年の尊厳が磨り潰される情景を、脳裏から強引に抹消する努力をすることだけだ。 ……まあ、この地獄絵図を完全に忘れ去るには、来世で別の種族に転生するくらいの手間が必要になるだろうがな!
「……さあ、アルト? 早くしないと、冷めてしまいますわよ?あなたのために、一生懸命作ったんですもの」
エルキアさんの笑顔が、一ミリだけ深くなった。それは、獲物の急所を正確に把握した捕食者の、静かなる愉悦。
俺はそっと目を閉じた。
耳に届くのは、スプーンが口に運ばれ、声にならない断末魔の叫び声と、尊厳という形の無いものが崩れ落ちる音。木枯らしが哀れな魂に鎮魂歌を奏で、野営地の夜は更けていくのであった。
幕間読んでいただきありがとうございます。ニンジン嫌いなアルトの地獄エピソードでした。プロローグのシリアス展開を期待された読者様ごめんなさい。ギャグ要素、織り交ぜてしまっています。ギャグは書いてて楽しくなりますね。




